5
誰も何も言わなかった。
何も、言えなかった。
このセラファンの王女である、マリーアンジュを暗殺するという意味を、あの国は分かっているのだろうか。
ばれないと思っているのだろうか。この、セラファン相手に、嘘が通用すると思っているのか。
アルヴェリア大陸最大の国家。
その意味を、本当に理解しているのだろうか。
あの国は。
この国の四人の重鎮達も、未来を背負う六人も。
今はもう、願うのはただ一つ。
愛し子、アンジェリーヌの無事な姿だけ。
どうか無事であるようにと。
もう一人にはしないからと。
泣くならどうか、この腕の中で。
諦めないで、待っていて。
君との約束、守るから。
不安な気持ちに何重にも蓋をかけて。
天使のように翼があれば、今すぐ君の許へと翔けて行くのに──
どうか、待っていてくれ。
必ず迎えに行く。だから、待っていて。
君を守ると誓うから。
ただ早く、君の許へと。
きっと間に合わせる。
その願いだけを胸に。
その一心で──
アンリ宰相とジャンのペンを走らせる音だけが続く。
人払いを解除して、再度入室してきた者達も皆、無言だ。極力音を立てぬよう、息を潜めて静かに動く。
そんな中。
「レオナール」
手元の書類に署名し終えたルイ国王が、レオナールを見やる。
「特別緊急転移陣の間の解錠認証をしておけ。最後の認証は私がする。その方が早く動ける」
「はい」
レオナールは短く返して自分の腕輪に触れる。
特別緊急転移陣は、有事の際に王族を迅速に保護・移送するために設けられた秘匿設備である。なかでもこの転移陣は、ホーフダルへ嫁いだマリーアンジュを緊急保護することを想定して整備されたものだった。
何者にも悪用されぬよう、王族二名以上の認証がなければ解錠できない。遠隔操作で可能な認証は、二人同時でなくても構わない。
今のうちにそれをする。
父の指示は、急を要する事態を見据えたものである。
緊張が、否応なしに高まっていく。
カツ、カツ、カツ──
ヴィクトルの靴先だけが、焦燥を隠しきれずに床を刻んでいた。
「ヴィクトル」
イヴォンの小さな声に、ヴィクトルはハッとして動きを止める。
「……すまん」
小さな謝罪にイヴォンは首を振る。咎めたわけではない。誰もが同じ気持ちなのだ。ヴィクトルの焦燥は、自分のそれと変わらない。
ただ今は、皆が必死にその感情へ蓋をしているだけ。
爆発しそうな感情を、押さえ込んでいるだけなのだ。
そんな、張り詰めた空気の中──
ヴォン……
不意に、空気が震えた。
「ガブリエル……」
ミカエルの微かな声に呼応するように、室内の空間が陽炎のようにゆらぎ、誰もが一斉に顔を上げる。
「愛し子が、処刑場に……」
ガタンッ!
レオナールが勢いよく椅子を蹴り、扉へ駆け出した。イヴォンも同時に後を追う。
ミカエルを始めとした天使達もまた、一瞬でその姿を掻き消した。
「待て、レオン!!」
「待って、兄上!」
「僕も行く!!」
ヴィクトルが、シャルルが、ジェラルドが。次々と後を追う。
その中で──
ペンを走らせていたジャンだけが一拍遅れた。必要な書類がまだ整っていない。自分が走れば、この書類は誰が仕上げる。
だが、アンジェは──
その、ほんの僅かな逡巡。
「行け」
父の一言で、ジャンはペンを放り投げて走り出した。
「ルネ、頼む」
「承知した」
腕輪に触れながら出されたルイ国王の短い指示に、ルネ北国境伯が扉へ向かう。
「待て! 俺も行く!」
「兄上は王都です」
「くっ……」
意気込むジョゼフ将軍は、その一言で縫いとめられた。
ルネ北国境伯が駆けていく。その背を歯噛みしながら見ているしかできない自分に腹が立つ。
わかっている。王都の、国王の守護が、将軍である自分の勤めだと。
わかってしまえる自分が、今は忌まわしい。
息子も、甥達も、脇目も振らず飛び出して行った。
護衛が必要な王太子が、それを伴わず、真っ先に。
その真っ直ぐさは、重責を負った今の自分には眩しいばかりだ。たった一言に込められた、責任の重さに留まるしかないが、恨めしい。
「ジョゼフ、お前は玉璽を押せ。ウロウロされたら気が散る」
「アンリ兄上……」
ペンを走らせるアンリ宰相の、有無を言わせぬ声に促され、渋々印台の置かれた席につく。
ルイ国王が署名済の書類をすっと差し出してくる。二人の兄が、常なら触らせもしないこれを押せとは珍しい。
玉璽を持ち、インクをつける。書類に押そうとした時。
「真っ直ぐ、丁寧にだ」
「アンリ兄上は細かい……」
「それが外交と言うものだ。今は手を動かせ。そうすれば少し落ち着く」
はっとして顔を上げると、ルイ国王が心持ち顎を引く。
一つ息を吸ったジョゼフ将軍は、兄達の気遣いに感謝しつつ、丁寧に玉璽を押した。
ルネは全速力で廊下を駆けた。必死にレオナール達を追いかけるも、距離が縮まらない。
背後には出遅れた王太子の護衛騎士が続いている。
護衛を帯同せずに飛び出したレオナールにも非はある。イヴォンとヴィクトルがついているし、守護天使もついているから不安材料は少ない。
何より、アンジェリーヌの命がかかっている。細かいことは言うまい。自分も気が急いているのだから当然だ。
とはいえ、護衛対象から遅れるとは不甲斐ない。
レオナール達が角を曲がる。
あの先は国王執務室。特別緊急転移陣の間はそのすぐ隣だ。
角まであと少し。
前方に人影が見えた。
ドミナシィオン大公フェリクス。ルイ国王に譲位した前国王。
少し遅れて大公妃エレオノールが続いている。マリーアンジュの訃報を聞いて、急いで小会議室に向かうのだろう。
そう思っていたのに、フェリクスが迷わず角を曲がる。
「父上!?」
角を曲がったところで追いついたルネは、思わず大声を上げた。
「どちらへ」
聞かなくてもわかる。父のその目はすでに退位した身でありながら、現役時代そのものだからだ。それでも確認せずにはいられない。
「私も行く」
「危険です!!」
想定していた応えに、ルネの顔が引きつる。
「孫娘だ」
断固とした、その一言で反論の口を塞がれてしまう。
ルネは額を押さえた。
父にはマリーアンジュの訃報だけを伝えた。アンジェリーヌの危機までは知らせていないはずだ。それなのに、この迷いのなさ。
レオナール達が疾走していた。ただそれだけで何が起きつつあるのかを察したのだろう。
父の顔は、往年王としての決断を下す時の顔だ。
説得は無意味。
ならば、守るしかない。
その時、前方で光が走る。続けざまに、もう一度。転移陣の作動を告げる光だ。
特別緊急転移陣は、一度に多数を送り込める王家専用の転移陣。その作動には王族腕輪所持者三名の認証を要する。
おそらく、待ちきれなかったレオナールがイヴォンとヴィクトルだけで先発し、少し遅れてジェラルド、ジャン、シャルルが後を追ったのだろう。
「っ……」
ルネが舌打ちする。
本来なら、自分も合流し、王太子の護衛も伴って一斉に転移するつもりだった。だが、もう間に合わない。
この場に残る王族は、自分と父と、遅れて到着した母の三人だけ。
母を連れて行くのは論外。
兄の誰かを連れてくるのも論外。
ならば──
ルネは腕輪を操作する。
「父上と王太子の護衛、それぞれ二名。こちらへ」
北国境伯権限による緊急転移は、自らが管理する施設にしか繋げられず、一度に転移できるのは術者を含めても六名が限界。
即座に近衛が動く。
「北国境伯の権限でここから跳ぶ」
滅多に使われない緊急転移権限に、周囲がざわめく。
「他は即座に離れろ」
声が飛び、人々が下がる。
転移陣が展開され、光とともにルネ達の姿が消える。
「王妃に連絡を」
光の余韻が残る中、エレオノール大公妃が侍女の一人に指示をだす。
「アンジェリーヌ王女がお戻りになります。熾天宮に客室の用意と医師団を参集しておくように。わたくしは、特別緊急転移陣の間で皆の帰還を待ちます」
きびきびと指示を出したエレオノール大公妃は、そっと手を組み目を瞑る。
つい先刻、聞いたばかりのマリーアンジュの訃報が胸によぎる。
大切に育てた愛しい娘。ホーフダルの王妃になるのだからと、守護天使との契約の証である王族額飾りを置いて行ってしまった娘。
守護天使との絆が細くなるから、持っていってくれと懇願し続けた、嫁ぐまでの日々。それでも、娘は首を縦に振らず、けじめだからと、そのまま行ってしまった。
あれから十六年と少し。
便りだけで里帰りもしなかった娘が、この春、ようやく戻ってくる。孫娘の花嫁修行に帯同しての一時帰国を、どれほど楽しみにしていたことか……
娘にはもう二度と会えない。
でも──
いや、だからこそ──
「……お願い。あの子を、アンジェを守って……」




