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 いくつかの足音が遠ざかる。

 扉のすぐ近くで止まったのは書記官と護衛騎士だろう。呼べばすぐに入室できる距離。そのほんの僅かな距離が遠く感じる。室内はそれほどまでに重苦しく、緊張に溢れていた。


 シャルルはそっと室内を見回した。

 人払いをしたのに書類を確認しては署名する父王ルイ。

 アンリ叔父とジャンのペンの動きは速く、止まらない。

 イヴォンは、今にも飛び出しそうなヴィクトルの腕に手を添えている。

 ジョゼフ叔父は、ルネ叔父に肩を押さえられている。

 各々の天使達もまた、堪えるような痛みと、怒りと、悲しみを隠そうともしていない。

 その中でただ一人。レオナールだけが、書類を広げた長机に視線を落としていた。


「兄上……」


 いったい何があったのですか。

 あの者達は誰なんですか。

 暗殺なんて嘘ですよね。

 聞きたいことは山ほどあるのに、声にならない。

 すがるように目を向けたレオナールが、ゆっくりと視線を合わせてくる。その瞳には、凍えるほどの冷たさと、燃えるような怒りが混在していた。


「順に話そう。あの者達は叔母上とアンジェが暮らす離宮の者たちだ。ダーフィット陛下の異母弟に不穏なものを感じるので、アンジェと叔母上の身柄の保護を願い出てきた」

「不穏なものって、なんですか、それは……」


 シャルルが口を挟むと、レオナールはギュッと口を引き結んだ。

 何か言いたくないことでもあるのだろうか。眉をひそめたシャルルに、ヴィクトルが不機嫌丸出しで教えてくれた。


「異母弟のガキが、アンジェの婚約を聞いて手をあげたんだよ。離宮の者が庇って怪我はなかったが……」


 クソッ、と王族にあるまじき悪態をついているが、シャルルも同じ気持ちだ。ジェラルドも拳を握りしめて震えている。


「おまけに……」

「ヴィクトル」


 なおも続けようとしたヴィクトルを、イヴォンが短く制して小さく首をふる。ヴィクトルの腕を掴む手に力がこもったのが見て取れる。

 それを見たジェラルドが、先を促そうとしたのだが──


「兄様、なにが……?」

「聞く必要はない」

「でもっ…」


 ジェラルドは思わず一歩前へ出る。イヴォンがすっと掌を向けた。きっぱりとした拒絶に、ジェラルドも口ごもる。

 イヴォンは一度だけ目を伏せた。その表情だけで、シャルルは口にすることさえ憚られる内容なのだと悟ってしまう。


「聞かないほうがいい。口走っただけで被害は受けてない。離宮の者がついている」


 その表情と、選び抜かれた言葉だけで十分だった。

 大事な、大切な従妹に……


 許せない。


 シャルルはぐっと拳を握りしめた。ジェラルドもおぼろげながら察したのだろう。ギリリと唇を噛み締めていた。


 レオナールが少し大きく息をつく。兄もまた、許せないのだ。

 天使達の羽が、ほんの一瞬顕現する。

 兄だけではない。従兄弟達も、父も、叔父達も、天使達も……

 表情を改めたレオナールが口を開く。


「彼らは、叔母上から暗号文の書かれた書状と腕輪を預かってきた。彼らの身分証明書として叔母上が持たせたらしい」


 シャルルの喉が引きった。

 ジェラルドも目を見開いてイヴォンを見やり、イヴォンは微かに頷いて見せた。


「そんな……じゃあ、だって、腕輪は王族の……」


 うまく言葉が紡げない。王族腕輪は身分証明書であると同時に、各種耐性や防御の魔法陣が刻まれている特別なものだ。

 王族腕輪は幼い頃から「絶対に外してはいけない」と教えられてきた。

 それを身に着けていれば、万が一の事態は避けられる。けれども、それがなければ──


「叔母上は、無防備だった……?」


 レオナールの小さな首肯に、シャルルのうちに絶望が広がっていく。

 ジェラルドも真っ青な顔で近くにある椅子にへたり込んだ。


「叔母上は、どうして……」


 あえぐように紡いだ声には、自分でも驚くほどかすれている。


「叔母上は、自分ではなくアンジェを選んだ。」

「え?」

「腕輪を託すということは、自分の身を守る術を捨てたということだ。それでも叔母上は彼らに腕輪を託した。自分ではなく、アンジェの保護を願う彼らの声を、私達に届けるために……」


 叔母の覚悟と、信頼と、何よりもアンジェリーヌを想う気持ちに、シャルルはそれ以上何も言えなくなる。


「彼らの話を聞いている時に、叔母上の守護天使が訃報を告げに来た。ただ、契約が細い状態だったので何を言っているのかわからなかった」


 レオナールの背後に控えるミカエルが、そっとその肩に手を添える。

 その手は慈愛に満ちているが、その瞳にはいつもの穏やかさがない。


「あとは私が」


 そうして、ミカエルはレオナールのあとを継ぐ。


「マリーアンジュの守護天使は私の中で休んでいる。事情は全て私が視た」

「三日前、マリーアンジュとダーフィット国王が暗殺された」

「二人で王都城壁外へ視察に赴いた帰路。魔獣に襲われたとされているが、襲撃者は黒を基調とした軍装の一団。紋章は鷲。使者の証言から異母弟ヘイルトの手の者だと思われる」

「アンジェリーヌは離宮で留守番中だった」

「マリーアンジュの願いは、セラファンに真実を伝えること。そして、愛し子アンジェリーヌの保護」

「天使が見たのはここまでだ」


 ジェラルドが顔を覆う。声を抑えてるが、抑えきれていない。この中の最年少なのだ。まだ感情を抑え切るには至っていない。


 シャルルの瞳にもじんわりと涙が浮かんでくるが、なんとか踏みとどまる。ジェラルドが震える声を絞りだす。


「アンジェは、一人なんですか……? 離宮には誰が……? ねぇ、兄様、アンジェは……?」


 ヴィクトルを抑えていたイヴォンが、ジェラルドのそばに移動して、その背を優しく叩く。


「離宮には、信頼できる者たちがいると以前叔母上の書状に書かれていた。あの者達以外もまだ離宮には残っているはずだ」

「でも、もう三日だよ……」


 三日。

 その空白が何を意味するのか。

 最悪の状態になっていてもおかしくない。ただ、その事態を誰も考えたくないのだ。

 微かな希望を手放さないために、考えるべきではないのだ。


 今は──


「夢で会ったのは五日前……」


 五日前。

 夢の中でアンジェは笑っていた。


「もうすぐ会えるね」


 そう笑った少女の姿が脳裏をよぎる。

 あれから五日。

 三日前にはアンジェは両親を失い、今は……


「アンジェは、今……?」


 何かわかるのではないかと、シャルルはミカエルに問う。


「……わからない」


 ミカエルが短い返しに、すかさずレオナールが問う。


「天使。二人のうちどちらか……」

「無理だ」

「行けない」


 ミカエルとウリエル。二柱の即答にレオナールは口を引き結ぶ。


「なんで!? アンジェは愛し子なんだよ!? なのになんで──!!」


 二柱のうちどちらかがアンジェの元に向かえば、そうすればアンジェを守れるはずだ。


 それなのに──!


「愛し子はまだ本契約がすんでいない。愛し子の守護についている二柱も、その力を振るうことはできない」

「そんな──。だって二人は大天使なんでしょ? アンジェだって……」

「シャルル」


 食いつかんばかりのシャルルを、レオナールが静かに制した。


「兄上、でも……」

「シャルル。天使も辛いんだ」


 それだけで、それ以上は何も言えなくなってしまった。

 シャルルにもわかるのだ。いつも穏やかで、優しい天使達が、必死に堪えていることを。

 ピリピリと肌を刺す神気が、目の前のミカエルとウリエルから放たれていることも。

 レオナールが静かに口を開く。


「私は王太子だ。本来なら、今すぐ叔母上とアンジェを迎えに行きたい。だが、軍の招集も、各国への通達も整っていない。……一刻が惜しい。そのために、アンリ叔父上とジャンが書類を用意している。私の護衛騎士団にも招集をかけている」


 いつも以上に自制をきかせた声に、兄がどれほどの激情を堪えているのかわかってしまう。

 アンジェリーヌに本当に出会える日を、一番心待ちにしていたのはレオナールだ。

 夢で出会った日の翌朝の、兄の柔らかい笑顔も、声も。

 ずっと、ずっと見ていた。ずっと、聞いていた。


 もう、十数年も。


 アンリ叔父とジャンがペンを走らせる。

 父王ルイも出来上がった書類の確認と署名に余念がない。


 皆、怒っているのだ。

 皆、悲しんでいるのだ。

 皆、飛び出したいのだ。

 皆、叫びたいのだ。


 人も、天使も。

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