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「ホーフダルで、何があった」
その問いを待っていたかのように、イザークは膝をついた。そして、深く頭を垂れたまま口を開く。
「我々が出立した時点では、まだ決定的な事件は起きておりませんでした」
掠れた声だった。長旅の疲労だけではない。離宮に残してきた者たちへの不安が、その声には滲んでいた。
「ですが、ダーフィット陛下の異母弟、ヘイルト殿下と、そのご子息方の動きに、看過できぬものがございました」
誰かが、はっと息を呑む。
黒髪黒目至上主義の先鋒。
茶髪茶目であることを理由に、ダーフィットが王位へ就く資格はないと、即位の折にも難癖をつけていた男。
ルイ国王は、白布の上に並べられた三通の封書へ視線を落とした。
そのうちの一通、ホーフダル王家の玉璽が押された、ダーフィット国王の親書を手に取る。
アンリ宰相が差し出したペーパーナイフで封を切り、書面へ目を走らせた。
内容は簡潔だった。
ヘイルトとその子どもたちが、アンジェリーヌの婚約者をヤンティーネへ替えるよう要求したこと。
マリーアンジュとアンジェリーヌの迎えを早め、可能な限り早くセラファンの保護下へ置いてほしいこと。
最後の一文は、王から王へ向けた正式な要請だった。
ルイ国王は書面から目を上げないまま、低く問う。
「この書状では詳細が分からぬ。その発言について、詳しく話せ」
「はい」
イザークは一度、息を吸った。
「カスペル様とヤンティーネ様が、離宮へ押しかけられた時のことでございます。ヤンティーネ様は、姫様のご婚約についてお知りになると激昂され、聞くに耐えない暴言を浴びせたうえ、お手を上げようとなさいました」
「なんだと!?」
思わず声を上げたヴィクトルの腕を、イヴォンが掴む。制止するその手も、微かに震えていた。
「続けろ」
ルイ国王の静かな声に促され、イザークは頭を垂れたまま言葉を継ぐ。
「幸い、離宮の者たちが姫様をお守りしましたので、その場ではお怪我はございませんでした。ですが、お二人が馬車へ戻られる際、ヤンティーネ様が……」
イザークの声が詰まった。口にすることすら憚られる。それでも、伝えなければならなかった。
「姫様を嫁げない身体にしてしまえば、自分が王太子妃になれると……カスペル様を唆すお言葉を申されました」
ダンッ!
ジョゼフ将軍とヴィクトルが、ほぼ同時に机を叩いて立ち上がった。二人の目には、隠しようのない怒りが燃えている。
パキッ――
乾いた音が響いた。
ジャンは、いつの間にか手にしていたペンを握り潰していた。書きかけの書類へインクが落ち、黒い染みがゆっくりと広がっていく。本人だけが、そのことに気づいていない。
イヴォンの拳にも力がこもる。
普段はほとんど表情を崩さないレオナールでさえ、机の下で握り締めた拳が白くなるほど力を込めていた。
固く結ばれた口元。
静かに怒りを宿す双眸。
それでも王太子として自制するように、一つ息を整える。
「カスペルは、何と」
「姫様はまだ幼く、自分の好みではないと申されました」
イザークは唇を噛み、それでも続ける。
「ですが、その後に……『もう少し待て』と」
室内の空気が、凍りついた。それが何を意味するのか。説明されずとも、誰もが理解した。
「我々は、その一言に強い危機感を覚えました。ダーフィット陛下も同様にお考えになり、セラファン王家へ事情を伝え、マリーアンジュ様と姫様のお身柄を一刻も早くお預かりいただきたいと、我々を送り出されました。──我らは最短で参りました」
イザークはさらに深く頭を垂れた。
「どうか一刻も早く、お二人をお迎えください。……お願い申し上げます」
その悲痛な願いに、部屋の誰もが息を呑んだ。
「遠路ご苦労。仔細は理解した。しばし待て」
ルイ国王はそう告げると、残る二通の封書へ視線を落とした。
最初に手に取ったのは、トローファスト王家の封蝋が施された書状だった。
アンリ宰相が差し出したペーパーナイフで封を切り、中の便箋を広げる。
筆跡は、トローファスト国王トールヴァルト本人のものだった。
書かれていたのは、ダーフィットとの会談中、ヘイルトが許可も得ず乱入したこと。
アンジェリーヌの婚約者をヤンティーネへ替えるよう迫り、セラファン王家とマリーアンジュを侮辱したこと。
その執着は尋常ではなく、母子の身に危険が迫っていると判断したこと。
そして、ホーフダルから来た五人へ、トローファスト国内の通行と出国に必要な便宜を図ったこと。
最後には、こう記されていた。
──ダーフィットは弟を甘く見ている。
──可能な限り早く、貴国の王女とその娘を迎えられたい。
読み終えたルイ国王の顔から、わずかに血の気が引いた。
ダーフィットだけではない。第三国の王であるトールヴァルトさえ、危険を感じていた。
そして彼は、警告の書状を彼らに預けた。
「……トールヴァルト陛下も、同じ判断か」
アンリ宰相の低い呟きに、誰も答えなかった。
ルイ国王は最後の一通へ手を伸ばす。
マリーアンジュの個人封蝋が施された魔紙の封筒。輿入れの折に用意された、ただ一度の緊急連絡のためのもの。
その封を切る。
中には魔紙が一枚、丁寧に折り畳まれていた。
慎重に開いた紙面には、王族にしか解読できない天使文字が数行だけ記されている。
この者たちは、わたくしの信頼する者たちです。
どうか、彼らの話を聞いてあげてください。
この者たちは、ドミニクス前国王陛下がお決めになった者たちです。
目を通したルイ国王は、小さく息を吐いた。
短い。あまりにも短い文面だった。けれど、それで十分だった。
妹らしい言葉であると同時に、この五人を自分のもとへ寄越した意味も理解した。
ドミニクス前国王。妹の夫であるダーフィット国王の父。老境に差し掛かったドミニクスが、国の行く末を熟考した末に下した決断。その証書には、ルイ国王自身も立会人として署名している。
「……この者たちが、そうか」
誰にも届かぬほど小さく呟き、妹の書状をアンリ宰相へ差し出す。
アンリ宰相も一読すると、ほんのわずかに目を見開いた。
彼もまた、全てを理解したのだろう。
「アンリ、至急――」
ルイ国王が指示を出しかけた、その時だった。
部屋の中央に、淡い光がふわりと現れる。とても儚い、弱々しい光の粒子。
光の粒は震えながら、途切れ途切れに声を紡ぐ。
「……ま…り……」
「……あ……じぇ…」
それ以上は続かない。
レオナールの守護天使の一柱である大天使ミカエルが静かに動いた。
今にも消えそうな光に優しく両手を差し伸べると、穏やかな声で告げた。
「もう良い。今は休め」
その一言に応えるように、淡い光がふわりと揺れる。まるで安堵したように、光は小さな球となり、静かにミカエルの胸へ吸い込まれていった。
部屋を包んでいた神気が、一瞬だけ深まる。
ミカエルは目を閉じる。
自らの内へ還った天使が最後に見た光景が、一気に流れ込んでくる。
聞いた声。
見た景色。
感じた悲しみ。
すべてが流れ込んでくる。
やがて静かに瞼を開いたミカエルの表情から、いつもの穏やかさは消えていた。ビリピリと肌を刺すような神気が室内に広がっていく。
誰も口を開けない。
その沈黙だけで、最悪の知らせなのだと理解してしまう。
「ミカエル」
レオナールのもう一柱の守護天使、大天使ウリエルの一声で、周囲に広がっていた神気が収束していく。
そうして紡がれたのは、最悪の報せだった。
「三日前の夕刻、マリーアンジュがダーフィット国王と共に暗殺された」
レオナールの握り締めた拳が、さらに強く軋んだ。
ヒュッと息を飲んだのは誰なのか。
拳を握りしめたのは誰なのか。
ギリリと音が出るほど歯を食いしばったのは誰なのか。
思わず目を閉じた者は、誰だったのか。
「二人で王都城壁外へ視察に赴いた帰路。魔獣に襲われたとされているが、襲撃者は黒を基調とした軍装の一団。紋章は鷲。アンジェリーヌは離宮で留守番中だった」
カッと目を見開いた庶子の一人が、震える声をだす。
「……ヘイルト殿下の……」
その一言で、真実が見えてしまう。
「マリーアンジュの願いは、セラファンに真実を伝えること。そして、愛し子アンジェリーヌの保護。天使が見たのはここまでだ」
沈黙が支配する。
誰かが一言でも口にしたら、一気に決壊しそうなほどの、怒りと、悲しみと、悔しさと──
マリーアンジュは、この国の重鎮達の最愛の妹は──
兄の誰にも看取られることなく、遥か北の小さな国で、無残にもその命を奪われてしまった。
「許せん…よくも俺の妹をっ! ふざけるな!」
血を吐くような声は、ジョゼフ将軍のもの。
「許せるものですか。許す必要もない」
常より低く響くのはルネ北国境伯。
「マリーは、セラファン王国の王女位を保持しているのだぞ……。それを、よくも……」
静かにペンを走らせるのはアンリ宰相。その筆圧は強く、文字に怒りが透けて見える。
そして、国王ルイは。
「……これはホーフダル一国の問題ではない。セラファン王家への宣戦にも等しい」
静かな怒りに身を震わせていた。
ひと呼吸おいて、目を閉じる。
次に目を開けたときは、マリーアンジュの兄の顔から国王の顔にもどっていた。
「特別緊急転移陣の使用を許可する。アンリとジャンは各種書類の準備を」
「始めてます」
「お任せを」
アンリ宰相とジャンのペンの速度が上がる。
「王太子護衛隊を招集」
「救護班を待機させよ」
「東西国境軍へ警戒態勢を命ずる。ホーフダルからの入国者は一旦国境管理部で拘束。厳重な身元確認が済むまで入国を禁ずる」
それぞれの命を実行するために、伝令官が飛び出していく。
必要な命令を全て出し終えると、ルイ国王は一拍おいてから声を落とす。
「父上……大公陛下にマリーアンジュの訃報の連絡を。大公妃陛下にもだ」
「承りました。王妃陛下には……」
「……伝えてくれ。仔細を聞かれたら、ミカエル様のお言葉だけをお伝えせよ」
「はっ!」
伝令官が足早に部屋を出ていく。
その背を見送りながら、ルイ国王はぽつりと呟いた。
「……嘆くだろうな」
囁くような小さな声に、反論する者は一人もいなかった。




