↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/34

2

「ホーフダルで、何があった」


 その問いを待っていたかのように、イザークは膝をついた。そして、深く頭を垂れたまま口を開く。


「我々が出立した時点では、まだ決定的な事件は起きておりませんでした」


 掠れた声だった。長旅の疲労だけではない。離宮に残してきた者たちへの不安が、その声には滲んでいた。


「ですが、ダーフィット陛下の異母弟、ヘイルト殿下と、そのご子息方の動きに、看過できぬものがございました」


 誰かが、はっと息を呑む。

 黒髪黒目至上主義の先鋒。

 茶髪茶目であることを理由に、ダーフィットが王位へ就く資格はないと、即位の折にも難癖をつけていた男。

 ルイ国王は、白布の上に並べられた三通の封書へ視線を落とした。

 そのうちの一通、ホーフダル王家の玉璽が押された、ダーフィット国王の親書を手に取る。

 アンリ宰相が差し出したペーパーナイフで封を切り、書面へ目を走らせた。


 内容は簡潔だった。

 ヘイルトとその子どもたちが、アンジェリーヌの婚約者をヤンティーネへ替えるよう要求したこと。

 マリーアンジュとアンジェリーヌの迎えを早め、可能な限り早くセラファンの保護下へ置いてほしいこと。

 最後の一文は、王から王へ向けた正式な要請だった。


 ルイ国王は書面から目を上げないまま、低く問う。


「この書状では詳細が分からぬ。その発言について、詳しく話せ」

「はい」


 イザークは一度、息を吸った。


「カスペル様とヤンティーネ様が、離宮へ押しかけられた時のことでございます。ヤンティーネ様は、姫様のご婚約についてお知りになると激昂され、聞くに耐えない暴言を浴びせたうえ、お手を上げようとなさいました」

「なんだと!?」


 思わず声を上げたヴィクトルの腕を、イヴォンが掴む。制止するその手も、微かに震えていた。


「続けろ」


 ルイ国王の静かな声に促され、イザークは頭を垂れたまま言葉を継ぐ。


「幸い、離宮の者たちが姫様をお守りしましたので、その場ではお怪我はございませんでした。ですが、お二人が馬車へ戻られる際、ヤンティーネ様が……」


 イザークの声が詰まった。口にすることすら憚られる。それでも、伝えなければならなかった。


「姫様を嫁げない身体にしてしまえば、自分が王太子妃になれると……カスペル様を唆すお言葉を申されました」


 ダンッ!


 ジョゼフ将軍とヴィクトルが、ほぼ同時に机を叩いて立ち上がった。二人の目には、隠しようのない怒りが燃えている。


 パキッ――


 乾いた音が響いた。

 ジャンは、いつの間にか手にしていたペンを握り潰していた。書きかけの書類へインクが落ち、黒い染みがゆっくりと広がっていく。本人だけが、そのことに気づいていない。


 イヴォンの拳にも力がこもる。


 普段はほとんど表情を崩さないレオナールでさえ、机の下で握り締めた拳が白くなるほど力を込めていた。

 固く結ばれた口元。

 静かに怒りを宿す双眸。

 それでも王太子として自制するように、一つ息を整える。


「カスペルは、何と」

「姫様はまだ幼く、自分の好みではないと申されました」


 イザークは唇を噛み、それでも続ける。


「ですが、その後に……『もう少し待て』と」


 室内の空気が、凍りついた。それが何を意味するのか。説明されずとも、誰もが理解した。


「我々は、その一言に強い危機感を覚えました。ダーフィット陛下も同様にお考えになり、セラファン王家へ事情を伝え、マリーアンジュ様と姫様のお身柄を一刻も早くお預かりいただきたいと、我々を送り出されました。──我らは最短で参りました」


 イザークはさらに深く頭を垂れた。


「どうか一刻も早く、お二人をお迎えください。……お願い申し上げます」


 その悲痛な願いに、部屋の誰もが息を呑んだ。


「遠路ご苦労。仔細は理解した。しばし待て」


 ルイ国王はそう告げると、残る二通の封書へ視線を落とした。

 最初に手に取ったのは、トローファスト王家の封蝋が施された書状だった。

 アンリ宰相が差し出したペーパーナイフで封を切り、中の便箋を広げる。

 筆跡は、トローファスト国王トールヴァルト本人のものだった。


 書かれていたのは、ダーフィットとの会談中、ヘイルトが許可も得ず乱入したこと。

 アンジェリーヌの婚約者をヤンティーネへ替えるよう迫り、セラファン王家とマリーアンジュを侮辱したこと。

 その執着は尋常ではなく、母子の身に危険が迫っていると判断したこと。

 そして、ホーフダルから来た五人へ、トローファスト国内の通行と出国に必要な便宜を図ったこと。

 最後には、こう記されていた。


 ──ダーフィットは弟を甘く見ている。

 ──可能な限り早く、貴国の王女とその娘を迎えられたい。


 読み終えたルイ国王の顔から、わずかに血の気が引いた。

 ダーフィットだけではない。第三国の王であるトールヴァルトさえ、危険を感じていた。

 そして彼は、警告の書状を彼らに預けた。


「……トールヴァルト陛下も、同じ判断か」


 アンリ宰相の低い呟きに、誰も答えなかった。

 ルイ国王は最後の一通へ手を伸ばす。

 マリーアンジュの個人封蝋が施された魔紙の封筒。輿入れの折に用意された、ただ一度の緊急連絡のためのもの。


 その封を切る。

 中には魔紙が一枚、丁寧に折り畳まれていた。

 慎重に開いた紙面には、王族にしか解読できない天使文字が数行だけ記されている。


 この者たちは、わたくしの信頼する者たちです。

 どうか、彼らの話を聞いてあげてください。

 この者たちは、ドミニクス前国王陛下がお決めになった者たちです。


 目を通したルイ国王は、小さく息を吐いた。

 短い。あまりにも短い文面だった。けれど、それで十分だった。

 妹らしい言葉であると同時に、この五人を自分のもとへ寄越した意味も理解した。

 ドミニクス前国王。妹の夫であるダーフィット国王の父。老境に差し掛かったドミニクスが、国の行く末を熟考した末に下した決断。その証書には、ルイ国王自身も立会人として署名している。


「……この者たちが、そうか」


 誰にも届かぬほど小さく呟き、妹の書状をアンリ宰相へ差し出す。

 アンリ宰相も一読すると、ほんのわずかに目を見開いた。

 彼もまた、全てを理解したのだろう。


「アンリ、至急――」


 ルイ国王が指示を出しかけた、その時だった。

 部屋の中央に、淡い光がふわりと現れる。とても儚い、弱々しい光の粒子。

 光の粒は震えながら、途切れ途切れに声を紡ぐ。


「……ま…り……」

「……あ……じぇ…」


 それ以上は続かない。

 レオナールの守護天使の一柱である大天使ミカエルが静かに動いた。

 今にも消えそうな光に優しく両手を差し伸べると、穏やかな声で告げた。


「もう良い。今は休め」


 その一言に応えるように、淡い光がふわりと揺れる。まるで安堵したように、光は小さな球となり、静かにミカエルの胸へ吸い込まれていった。

 部屋を包んでいた神気が、一瞬だけ深まる。

 ミカエルは目を閉じる。

 自らの内へ還った天使が最後に見た光景が、一気に流れ込んでくる。


 聞いた声。

 見た景色。

 感じた悲しみ。

 すべてが流れ込んでくる。


 やがて静かに瞼を開いたミカエルの表情から、いつもの穏やかさは消えていた。ビリピリと肌を刺すような神気が室内に広がっていく。

 誰も口を開けない。

 その沈黙だけで、最悪の知らせなのだと理解してしまう。


「ミカエル」


 レオナールのもう一柱の守護天使、大天使ウリエルの一声で、周囲に広がっていた神気が収束していく。


 そうして紡がれたのは、最悪の報せだった。


「三日前の夕刻、マリーアンジュがダーフィット国王と共に暗殺された」


 レオナールの握り締めた拳が、さらに強く軋んだ。

 ヒュッと息を飲んだのは誰なのか。

 拳を握りしめたのは誰なのか。

 ギリリと音が出るほど歯を食いしばったのは誰なのか。

 思わず目を閉じた者は、誰だったのか。


「二人で王都城壁外へ視察に赴いた帰路。魔獣に襲われたとされているが、襲撃者は黒を基調とした軍装の一団。紋章は鷲。アンジェリーヌは離宮で留守番中だった」


 カッと目を見開いた庶子の一人が、震える声をだす。


「……ヘイルト殿下の……」


 その一言で、真実が見えてしまう。


「マリーアンジュの願いは、セラファンに真実を伝えること。そして、愛し子アンジェリーヌの保護。天使が見たのはここまでだ」


 沈黙が支配する。

 誰かが一言でも口にしたら、一気に決壊しそうなほどの、怒りと、悲しみと、悔しさと──

 マリーアンジュは、この国の重鎮達の最愛の妹は──

 兄の誰にも看取られることなく、遥か北の小さな国で、無残にもその命を奪われてしまった。


「許せん…よくも俺の妹をっ! ふざけるな!」


 血を吐くような声は、ジョゼフ将軍のもの。


「許せるものですか。許す必要もない」


 常より低く響くのはルネ北国境伯。


「マリーは、セラファン王国の王女位を保持しているのだぞ……。それを、よくも……」


 静かにペンを走らせるのはアンリ宰相。その筆圧は強く、文字に怒りが透けて見える。


 そして、国王ルイは。


「……これはホーフダル一国の問題ではない。セラファン王家への宣戦にも等しい」


 静かな怒りに身を震わせていた。

 ひと呼吸おいて、目を閉じる。

 次に目を開けたときは、マリーアンジュの兄の顔から国王の顔にもどっていた。


「特別緊急転移陣の使用を許可する。アンリとジャンは各種書類の準備を」

「始めてます」

「お任せを」


 アンリ宰相とジャンのペンの速度が上がる。


「王太子護衛隊を招集」

「救護班を待機させよ」

「東西国境軍へ警戒態勢を命ずる。ホーフダルからの入国者は一旦国境管理部で拘束。厳重な身元確認が済むまで入国を禁ずる」


 それぞれの命を実行するために、伝令官が飛び出していく。

 必要な命令を全て出し終えると、ルイ国王は一拍おいてから声を落とす。


「父上……大公陛下にマリーアンジュの訃報の連絡を。大公妃陛下にもだ」

「承りました。王妃陛下には……」

「……伝えてくれ。仔細を聞かれたら、ミカエル様のお言葉だけをお伝えせよ」

「はっ!」


 伝令官が足早に部屋を出ていく。

 その背を見送りながら、ルイ国王はぽつりと呟いた。


「……嘆くだろうな」


 囁くような小さな声に、反論する者は一人もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。