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第29話 守るということ

夜だった。


街灯の光が、濡れたアスファルトに反射している。


春先の冷たい風が、ビルの隙間を抜けていた。


犬山正子はパトカーの横に立っていた。


無線機の音が小さく鳴っている。


「現場到着しました」


短く報告する。


相手の声がすぐ返ってくる。


「了解。状況は」


正子は前を見る。


古い雑居ビル。


二階の窓が開いている。


人影。


叫び声。


「人質立てこもりです」


少し間を置いて続ける。


「犯人一名、刃物所持」


無線の向こうが静かになる。


応援は向かっている。


だが、


時間がかかる。


正子は階段を見上げた。


二階。


そこに人がいる。


泣き声。


子供だ。


胸の奥がわずかに重くなる。


だが、


表情は変わらない。


警察官だからだ。



「犬山」


後ろから声がした。


同僚の巡査だった。


「待て。応援来る」


正子は少しだけ振り向く。


「分かっています」


そう言う。


だが、視線は二階の窓から離れない。


また声が聞こえる。


子供の声。


泣き声。


正子は静かに息を吐いた。


そして言う。


「でも」


同僚が眉をひそめる。


「でも?」


正子はゆっくり答えた。


「待てない人もいます」


同僚は言葉を失う。


正子は階段へ向かう。


止めようとする手が伸びる。


だが、


正子は振り向かない。



古い階段を上る。


足音を消す。


二階の廊下。


扉の向こうから声が聞こえる。


男の怒鳴り声。


ガラスの割れる音。


そして


子供の泣き声。


正子はドアの横に立つ。


息を整える。


三秒。


二秒。


一秒。


そして、


ドアを蹴破った。



部屋の中は荒れていた。


机が倒れている。


椅子が壊れている。


男が振り向く。


三十代くらい。


目が血走っている。


手には包丁。


その腕に、


小さな男の子が捕まっている。


男が叫ぶ。


「来るな!」


正子は動かない。


ゆっくり言う。


「大丈夫」


子供に向かって言う。


「もう大丈夫」


男が包丁を振り上げる。


正子は一歩踏み出す。


「やめてください」


男が叫ぶ。


「近づくな!」


正子は止まらない。


「落ち着いてください」


男の腕が震える。


包丁の刃が子供の首に触れる。


血が一滴落ちる。


その瞬間。


正子は動いた。


一歩。


二歩。


三歩。


男が包丁を振る。


正子は腕で受ける。


鋭い痛み。


だが止まらない。


体当たり。


男を壁に押しつける。


子供を引き離す。


男がもう一度刃物を振る。


正子の腹に衝撃が走る。


刃が入る。


熱い。


だが、


正子は男の腕を掴んだ。


力いっぱい締め上げる。


男の手から包丁が落ちる。


金属音。


子供が泣きながら逃げる。


廊下へ走る。


正子はそれを確認して、


やっと力を抜いた。



体が重い。


床に座り込む。


腹から血が流れている。


思ったより深い。


視界が少し暗くなる。


遠くから足音。


応援だ。


同僚の声。


誰かが叫んでいる。


救急車。


無線。


いろんな音が混ざる。


正子は天井を見る。


蛍光灯の光がぼやけている。


でも、


少しだけ安心した。


子供は助かった。


それだけでいい。



その時だった。


声が聞こえた。


静かな声。


どこからか分からない声。


「来るか」


正子は目を閉じる。


考える。


守ることはできた。


でも、


一つだけ


引っかかっていることがあった。


あの男。


あの目。


あれは


完全な悪人だったのか。


もし、


違ったら。


もし、


別の道があったら。


正子は小さく息を吐いた。


そして、


静かに答えた。


「はい」


その瞬間、


世界が消えた。



次に目を開けた時、


犬山正子は


黄泉前にいた。

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