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第28話 強さ

拳と拳が、ほとんど同時に動いた。


犬山正子は踏み込む。


虎岩信太も前へ出る。


互いに引かない。


正子の腕が信太の拳を受け止める。


重い。


さっきまでとは比べものにならないほど重い。


だが、今は崩れない。


守る対象が定まったからだ。


正子はそのまま体をひねり、信太の脇腹へ拳を打ち込む。


鈍い音。


信太の体がわずかに揺れる。


だが、それだけだった。


信太は止まらない。


もう片方の拳が来る。


正子は肘で受け、足を引き、衝撃を逃がす。


石の床に靴が擦れる。


距離が少しだけ開く。


二人は円壇の中央で向き合った。


風はない。


空は青い。


浅い水だけが、二人の姿を静かに映している。


信太が息を吐く。


「なるほどな」


低い声だった。


怒りはない。


だが、戦意が濃くなっている。


「今のが、お前の本当の強さか」


正子は構えたまま答える。


「守るものがある時だけです」


信太の眉がわずかに動く。


「俺を守ると言ったな」


「はい」


「ふざけてるのか」


正子は首を振った。


「真面目です」


その答えに、信太は数秒黙った。


そして、小さく笑った。


笑ったと言っても、口元がわずかに動いただけだった。


「面白い」


その一言のあと、


空気が変わった。


円壇の重さが、一段深くなる。


正子は反射的に息を詰めた。


胸が圧迫される。


足元の石が、さっきより硬く感じる。


信太の立ち姿が変わっていた。


重心が下がる。


肩が落ちる。


視線だけが鋭く前を射抜く。


その背後に、黒い影が立ち上がる。


巨大な虎の輪郭。


牙を剥いているわけではない。


だが、そこに在るだけで周囲を支配する存在感だった。


正子は理解する。


(本気だ)


信太が静かに言う。


「弱い相手を殴る気はなかった」


一歩、前に出る。


正子は無意識に半歩下がりそうになる。


だが踏みとどまる。


「だが、お前は違う」


もう一歩。


「倒さないと終わらない」


その瞬間、


信太が消えた。


いや、違う。


速すぎて見失っただけだ。


正子は本能で腕を上げる。


衝撃。


両腕に信じられない重さが落ちる。


受け止めたはずなのに、体が持っていかれる。


石の床を滑る。


膝がきしむ。


だが倒れない。


正子は歯を食いしばり、そのまま反撃に転じた。


低い姿勢から、信太の膝を狙う。


信太は踏み込んだまま足をずらす。


正子の蹴りはわずかに空を切る。


そこへ、肘。


正子は肩で受ける。


鈍い痛み。


それでも正子は離れなかった。


近距離での打ち合いになる。


拳。


肘。


受け。


返し。


一つ一つの技術は、正子の方が洗練されていた。


無駄がない。


急所をずらし、相手の力を流し、崩しを作る。


だが、それでも押される。


純粋な質量が違う。


信太の攻撃は、受けるたびにこちらの体力を削っていく。


正子は打ちながら考える。


(この人は、止まらない)


攻撃の手数ではない。


前に出る意志そのものが止まらない。


怖いのではない。


むしろ逆だ。


信太は、止まることを許していない。


自分自身に。


「っ……!」


信太の拳が肩口を掠める。


正子の体がぶれる。


そこへ追撃。


正子は身を沈め、信太の懐へ飛び込む。


守護反応が働く。


相手の動きが、ほんの一瞬先に読める。


今だ。


正子は信太の胸元に手を当て、体重を預けるようにして押し返した。


崩れる。


そう思った。


だが、崩れない。


信太は真正面から受け止めていた。


足が沈む。


水が跳ねる。


それだけだ。


「軽い」


再び、その言葉。


だが今度は侮りではない。


事実確認のようだった。


正子はその目を見る。


鋭い。


けれど、その奥に別のものがある。


焦り。


苛立ち。


恐怖。


信太は強い。


だが、その強さは自信からできているのではない。


失うことへの怯えからできている。


強くなければならない。


崩れてはならない。


弱いと思われたら終わる。


そう信じている人の目だった。


正子は息を整えながら言う。


「あなた、ずっとそうやってきたんですね」


信太の眉がぴくりと動く。


「何がだ」


「強くなきゃいけないって、自分に言い続けてきた」


信太の拳が止まる。


一瞬。


それだけ。


だが、次の瞬間にはさらに鋭く踏み込んでくる。


正子は防御する。


衝撃で息が詰まる。


信太が言う。


「強くなければ守れない」


拳。


正子が受ける。


「強くなければ生き残れない」


蹴り。


正子が流す。


「強くなければ価値がない」


その言葉だけが、ひどく重く落ちた。


正子は後ろへ飛び、距離を取る。


腕が上がらなくなってきている。


呼吸も苦しい。


だが、視線だけは逸らさない。


「違います」


信太が動きを止める。


正子ははっきりと言った。


「強くなくても、生きていていいんです」


静寂。


黄泉前の空気が凍ったようだった。


その一言は、


信太にとって攻撃より深く刺さった。


信太は何も言わない。


ただ、背後の虎の影がさらに濃くなる。


円壇の空気がきしむ。


「そう思える奴はいい」


やがて、信太が口を開いた。


声は低く、静かだった。


「だが、そう思えない奴もいる」


一歩。


二歩。


正子は構える。


信太の輪郭がぶれる。


また速い。


だが、正子も前へ出た。


逃げない。


守るために。


受けるだけではなく、真正面から止めるために。


二人が激突する。


衝撃で水面が跳ねる。


拳がぶつかる。


正子の腕が痺れる。


それでも踏み込む。


信太の顎を狙う。


信太は顔をずらし、肩で受ける。


そのまま膝蹴り。


正子は横腹で受ける。


肺の空気が抜ける。


視界が揺れる。


だが、足は止まらない。


正子は信太の腕を取り、関節を極めにいく。


決まれば止められる。


止めれば、この人は壊れない。


だが、信太は力でねじ伏せた。


関節技ごと引きちぎるように腕を振るう。


正子の体が浮く。


しまった、と思った時には遅い。


信太の拳が、真正面から来ていた。


正子は両腕を交差して受ける。


轟音。


骨がきしむ。


防御が沈む。


そのまま、二撃目。


今度は下から。


腕が弾かれる。


がら空きの胴に、三撃目。


鈍い衝撃が全身を貫いた。


正子の足が床を離れる。


体が後ろへ吹き飛ぶ。


石の上を転がり、水際で止まる。


動けない。


呼吸ができない。


何が折れたのか分からない。


ただ、全身が言うことをきかない。


正子は仰向けのまま空を見る。


青い。


変わらない空だ。


足音が近づいてくる。


ゆっくり。


重く。


止まれない男の足音。


信太が目の前で止まる。


影が落ちる。


正子はかすかに笑った。


「……強いですね」


信太は答えない。


拳を握ったまま立っている。


とどめを刺すかどうか、一瞬だけ迷っているようにも見えた。


正子はゆっくり言う。


「良かった」


信太の目が動く。


「何が」


正子は少しだけ息を吸って、続けた。


「あなた、まだ壊れてない」


信太の表情が、初めてはっきり揺れた。


正子はそれを見て安心したように目を細める。


本当に守りたかったのは、これだったのだと思う。


この人が、自分を壊し切る前に止まれていること。


まだ戻れること。


それが分かったから、もう十分だった。


正子の体が光り始める。


輪郭がほどける。


敗北。


黄泉前のルールが、静かに結果を告げていた。


信太は動かない。


ただ立ち尽くしている。


正子は薄れていく視界の中で、最後に小さく笑った。


「大丈夫です」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


信太か。


自分か。


あるいは、どこか遠くの誰かか。


光が強くなる。


正子の体は粒子になり、春の空へ溶けていった。


静寂が戻る。


円壇には、虎岩信太だけが残った。


背後の虎の影も、ゆっくり消えていく。


信太はしばらくその場に立っていた。


拳を握ったまま。


やがて、その手をゆっくり開く。


自分の拳を見る。


何を殴ってきた拳なのか。


何を守ろうとしてきた拳なのか。


何を証明したかった拳なのか。


分からなくなる。


正子の最後の言葉だけが残る。


――あなた、まだ壊れてない。


信太は小さく息を吐いた。


そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「証明なんて……」


言葉が途切れる。


空は青い。


風はない。


静止した水面が、ただ一人残った男の姿を映している。


信太はその姿を見下ろしたまま、もう一度、かすれた声で言った。


「……いらないのか」


答える者はいなかった。


ただ、黄泉前だけが静かにそこにあった。

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