(93)勇気の神器
翌朝、あたしたちは、いつもより早く目を覚ました。囲炉裏を囲んで座ると、アーガスは、既に、その古い杖を、自分の膝の上に横たえて、あたしたちを待っていた。
「昨夜、話した通りだ。今日は、全てを、話す」
アーガスの声には、これまでにない、静かな緊張が滲んでいた。あたしたちは、それぞれ、居住まいを正した。
「まず、これを見てくれ」
アーガスは、杖を、ゆっくりと、囲炉裏の火明かりの中へと、掲げた。柄に刻まれた、あの幾何学的な紋様が、炎の光を受けて、微かに、赤く浮かび上がった。
「これは、ただの稽古道具じゃない。『勇気の神器』と呼ばれる、この世界に、七つだけ存在する、特別な力の依代だ」
その言葉に、小屋の中の空気が、一瞬にして、張り詰めた。
「神器……」
セシルが、震える声で、その言葉を繰り返した。
「聞いたことが、あります。おとぎ話や、古い伝承の中でだけ。実在するなんて、思ってもみませんでした」
「実在する。俺自身が、その一つを、五十年近く前から、受け継いでいる。俺が、まだ二十歳になる前のことだ」
アーガスの告白に、あたしは、言葉を失った。師匠が、そんな、途方もない存在だったなんて、想像したこともなかった。
「七つの神器は、それぞれ、異なる力を宿している。俺が受け継いだのは、『勇気』の神器。恐怖に、決して屈しない意志を、その持ち主に与える力だ」
「他の、六つは」
トトが、興味津々に尋ねると、アーガスは、少しだけ、表情を曇らせた。
「詳しくは、俺も、全てを知っているわけじゃない。神器の継承者たちは、互いに、あまり接触を持たない。それぞれが、それぞれの土地で、密かに、役目を果たしている」
「役目、って」
「この世界のどこかで、いずれ、大きな災いが起きる。神器の継承者たちは、その日に備えて、密かに、力を研鑽し、見守り続ける。それが、俺たちに課せられた、唯一の役目だ」
その言葉の重さに、あたしたちは、しばらくの間、誰も、言葉を発することができなかった。窓の外から差し込む朝の光が、小屋の中を、静かに照らしていた。
「アーガスさんは、その神器の力を、実際に使ったこと、あるんですか」
あたしが、恐る恐る尋ねると、アーガスは、静かに頷いた。
「ある。滅多に、使う機会はないが。この杖は、普段は、ただの木の杖に過ぎない。だが、いざという時、真の姿を現す」
「真の姿……」
「見せてやろう」
アーガスは、そう言うと、杖を、両手で、しっかりと握り直した。目を閉じ、静かに、深く、息を吸い込む。次の瞬間、杖に刻まれた紋様が、まばゆい金色の光を放ち始めた。
あたしたちは、思わず、息を呑んだ。杖は、みるみるうちに、その形を変えていった。木製だったはずの杖が、まるで、鋼のような輝きを帯びた、一振りの長杖へと姿を変えていく。柄の先端には、獅子を模した、精緻な意匠が浮かび上がっていた。
「これが、勇気の神器の、真の姿だ」
アーガスの声には、これまでにない、厳かな響きがあった。あたしたちは、その神々しい輝きに、しばらくの間、見とれていた。
「触れてみるか、リク」
「いいんですか」
「ああ。お前になら、構わない」
あたしは、おそるおそる、その杖に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、体の奥から、温かい何かが、じんわりと湧き上がってくるのを感じた。まるで、これまで抱えてきた、あらゆる不安が、少しずつ、溶けていくような、そんな感覚だった。
「不思議な感じ……力が、湧いてくるみたいです」
「それが、勇気の神器の力だ。恐れを、なくすわけじゃない。恐れを抱えたまま、それでも、前に進む力を、与えてくれる」
アーガスの言葉に、あたしは、深く頷いた。師匠が、これまで、どれほどの重みを抱えながら、この力と共に、生きてきたのか。その一端が、ようやく、あたしの中にも、確かに、伝わってきていた。
杖は、再び、静かに光を放ち、元の、見慣れた木の杖の姿へと戻っていった。アーガスは、それを、大切そうに、傍らに置いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
ヴァレナが、緊張した面持ちで、口を開いた。
「なんだ」
「その神器の力を持つ人は、リクの積術とは、また違うものなんですよね」
「ああ、まったく別のものだ。神器の力は、外から与えられる、いわば『貸された』力の一種だ。一方、積術は、誰の力も借りず、自らの内から紡ぎ出す力。この二つは、対極にあると言ってもいい」
その説明に、あたしの中で、いくつかの疑問が、更に浮かび上がった。
「アーガスさんは、その両方を、扱えるんですか。神器の力も、積術の口伝も」
「俺自身は、積術の力を、実際に発動させたことはない。俺が受け継いだのは、あくまで、口伝としての原則だけだ。だが、神器の力は、確かに、俺の中にある」
「一人の人が、両方に関わっているなんて、なんだか、不思議です」
「そうだな。だが、それこそが、俺が、お前に、積術を教えようと思った理由の一つでもある。借りた力と、借りない力。その両方を知る者として、お前には、伝えておくべきだと感じた。だからこそ、俺には分かる。借りた力と、借りない力は、似ているようで、まるで違うものなんだ」
アーガスの言葉に、あたしは、深く、頷いた。師匠が、あたしに授けてくれたものの意味が、これまでとは、また違った重みを持って、あたしの胸に響いてきた。
セシルが、手帳に、これまでの話を、丁寧に書き留めながら、静かに口を開いた。
「神器の存在は、他に、どれくらいの人が知っているんですか」
「ごく限られた者だけだ。各国の王族の一部や、聖環教団の上層部の、そのまた一部。一般には、完全に、伝承の域を出ない話として扱われている」
「それだけ、秘匿されてるんですね」
「そうだ。神器の力が、悪意ある者の手に渡れば、大変な事態を招く。だからこそ、継承者は、その存在を、慎重に隠し続けてきた」
その説明に、あたしたちは、皆、神妙な面持ちで頷いた。囲炉裏の炎が、静かに、ぱちりと爆ぜた。
「今日、これを、お前たちに話したのは、俺なりの、覚悟の表れだ。お前たちを、信頼している、その証でもある」
アーガスの言葉に、あたしの胸が、じんわりと温かくなった。
「ありがとうございます、アーガスさん。ちゃんと、話してくれて」
「礼を言うのは、俺の方だ。お前たちのような、信頼できる仲間に、ようやく出会えたお前を見て、俺自身、随分と、救われた気持ちになった」
その言葉に、小屋の中の空気が、穏やかな温かさに、満ちていった。
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