(92)決意の夜
その夜、皆が寝静まった後、あたしは、喉の渇きを覚えて、目を覚ました。水瓶の水を飲もうと、そっと起き上がると、囲炉裏のそばに、一人、腰を下ろしているアーガスの姿が見えた。
彼の膝の上には、あの、古い杖が、横たえられていた。アーガスは、その杖の柄を、指先で、そっとなぞっていた。その眼差しには、昼間見たものよりも、さらに深い、静かな決意のようなものが、宿っているように見えた。
あたしは、声をかけるべきか、迷った。だが、この静かな時間を邪魔したくないという気持ちよりも、今、師匠のそばにいたいという気持ちの方が、強かった。
「アーガスさん」
小さく呼びかけると、アーガスは、驚いた様子もなく、静かに、あたしの方を見た。
「起こしたか、すまんな」
「いえ、たまたま、目が覚めただけです」
あたしは、彼の隣に、そっと腰を下ろした。囲炉裏の残り火が、二人の顔を、ほのかに照らしていた。
「その杖、やっぱり、大事なものなんですね」
あたしが、静かに尋ねると、アーガスは、しばらくの間、沈黙していた。それから、深く、息を吐いた。
「ああ。お前の言う通りだ。これには、俺の、そして、この世界の、大きな秘密が、絡んでいる」
その言葉に、あたしの心臓が、大きく跳ねた。
「話してくれるんですか」
「ああ。もう、隠しておく理由もない。むしろ、お前には、知っておいてもらう必要がある。これから先、お前が進む道の、すぐ先に、この秘密は、必ず関わってくるはずだ」
アーガスの声には、これまでにない、重い覚悟が滲んでいた。あたしは、息を呑んで、その言葉の続きを待った。
「だが、今夜、全てを話すのは、まだ早い。明日、皆が揃った場で、きちんと話そう。この半年、俺がどこで何をしていたのか。そして、この杖に、何が宿っているのか」
「分かりました。待ってます」
あたしの返事に、アーガスは、静かに頷いた。それから、杖を、大切そうに、両手で、そっと抱え直した。
「リク、一つだけ、今、言っておきたいことがある」
「なんですか」
「お前が、これから知ることになる真実は、決して、お前を傷つけるためのものじゃない。むしろ、お前がこれまで積み重ねてきたものの意味を、より深く、教えてくれるはずだ」
その言葉に、あたしは、少しだけ、安堵した。
「はい。信じてます」
「良い返事だ」
アーガスは、そう言うと、久しぶりに、穏やかな笑みを浮かべた。囲炉裏の残り火が、静かに、二人の間で、ぱちりと爆ぜた。窓の外では、満天の星が、変わらず、静かに、瞬いていた。明日、この小屋で語られるだろう真実に向けて、あたしの胸の中には、緊張と、確かな期待が、静かに満ちていった。
「そろそろ、休め。明日は、長い一日になる」
アーガスの言葉に、あたしは、頷いて、立ち上がった。それでも、まだ、寝床に戻る前に、一つだけ、聞いておきたいことがあった。
「アーガスさん、最後に一つだけ」
「なんだ」
「怖くない、って言ったら嘘になります。でも、それでも、聞きたいです。アーガスさんが、今まで、一人で、抱え続けてきたものを」
その言葉に、アーガスは、少しの間、あたしの顔を、じっと見つめていた。それから、静かに、目を細めた。
「お前は、本当に、良い弟子に育った」
「師匠の教えが、良かったからです」
あたしの返事に、アーガスは、小さく笑った。その笑顔は、いつもの、飄々とした彼のものと、少しだけ違って見えた。何か、長年、背負い続けてきた重荷を、少しだけ、下ろしたような、そんな柔らかさがあった。
寝床に戻る途中、あたしは、もう一度、振り返った。アーガスは、まだ、囲炉裏のそばで、杖を抱えたまま、静かに座っていた。その背中には、これから語られるだろう物語への、確かな覚悟が、滲んでいるように見えた。
布団に潜り込むと、隣で眠るヴァレナが、寝返りを打ちながら、小さく呟いた。
「リク……大丈夫?」
「うん。ちょっと、大事な話が、明日、聞けそうなの」
「そっか。おやすみ」
それだけ言うと、ヴァレナは、あっという間に、寝息を立て始めた。我ながら、こんな夜に、よく眠れるものだと、少し呆れつつ、羨ましくなった。
「うん、おやすみ」
窓の外の星々を見上げながら、あたしは、明日という日への、様々な思いを抱えたまま、ゆっくりと、眠りに落ちていった。師匠が抱えてきた、長い年月の秘密。その扉が、ついに、開かれようとしていた。
翌朝を迎える前、あたしの夢の中には、断片的な記憶が、幾つも浮かんでは消えていった。幼い頃、初めてこの小屋を訪れた日のこと。稽古で泥だらけになりながら、アーガスに叱られたこと。そして、あの、ハルナ街道での、忘れられない叫び。それら全てが、まるで、一つの大きな物語へと、静かに繋がっていくような、そんな感覚があった。
夢の中で、あたしは、遠くに、小さな光を見た。それが何なのか、まだ、はっきりとは分からなかった。それでも、その光に向かって、確かに、一歩ずつ、近づいているという実感だけは、はっきりとあった。
小屋の外では、山の夜が、静かに更けていった。木々の間を抜ける風の音だけが、規則正しく、耳に届いていた。明日、この場所で語られるだろう物語は、あたしたちの旅の意味を、大きく塗り替えることになる。まだ、誰も、その予感の全貌を、正確には掴めていなかった。
囲炉裏の火は、いつの間にか、すっかり消えていた。それでも、灰の中には、まだほのかな熱が、静かに残っていた。アーガスは、その熱を確かめるように、しばらくの間、灰に手をかざしていた。それから、ゆっくりと、腰を上げ、自らの寝床へと向かった。
小屋全体が、深い静寂に包まれていく。壁に立てかけられた杖だけが、月明かりを、かすかに反射して、静かに佇んでいた。まるで、その一振りの中に、これから語られる、長い物語の全てが、眠っているかのようだった。
夜が更けるにつれ、山の空気は、いっそう冷たさを増していった。それでも、小屋の中には、確かな温もりが満ちていた。積み重ねてきた年月と、これから明かされる真実。その両方を抱えたまま、ハルナの一夜は、静かに、深く、更けていった。夜明けまで、まだ、しばらくの時間があった。それでも、その静けさの奥では、確かに、新しい章の幕が、静かに、しかし確実に、ゆっくりと、そして力強く、音もなく、着実に、上がろうとしていた。
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