(91)杖の秘密
翌朝、あたしは、水を汲むために、いつもより早く目を覚ました。小屋の外に出ると、まだ薄暗い庭先で、アーガスが、一人、佇んでいるのが見えた。
彼の手には、あの、壁に立てかけられていた古い杖が、握られていた。アーガスは、その杖を、じっと見つめたまま、微動だにしなかった。その横顔には、これまで見たことのない、深い苦悩の色が浮かんでいた。
あたしは、声をかけるのを、一瞬、ためらった。何か、踏み込んではいけない領域に、触れてしまうような、そんな予感があった。それでも、気になって、そっと、近づいてみることにした。
「アーガスさん、おはようございます」
あたしの声に、アーガスは、はっとしたように、振り返った。その拍子に、杖を、壁に立てかけ直した。その仕草には、明らかに、何かを、隠そうとする気配があった。
「……おはよう、リク。早いな」
「アーガスさんも、早いですね。その杖、何かあるんですか」
あたしが尋ねると、アーガスの表情が、わずかに強張った。
「いや、なんでもない。古い、稽古道具だ」
その答え方には、どこか、不自然な間があった。あたしの中で、小さな違和感が、静かに芽生えた。
「その杖、随分、大事にしてるように見えました」
「気のせいだろう」
アーガスは、それ以上、話すつもりはないというように、話題を変えた。
「水汲みか。手伝おう」
そう言うと、彼は、桶を手に取り、さっさと、小川の方へと歩き出してしまった。あたしは、その背中を見つめながら、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
「アーガスさんが、あんな顔をするなんて」
小さく呟いた、その言葉は、朝の静けさの中に、静かに溶けていった。あの杖には、きっと、何か、大きな秘密が眠っている。そんな確信めいた予感が、あたしの胸の中に、静かに広がっていった。
朝食の席で、あたしは、そのことを、セシルに、そっと耳打ちした。
「セシル、実は、さっき、変なもの見ちゃって」
「変なもの?」
「アーガスさんが、あの古い杖を、すごく真剣な顔で見つめてたの。訳を聞いたら、はぐらかされちゃった」
セシルは、少しの間、考え込むような表情を浮かべた。
「その杖、確かに、気になるね。ただの稽古道具にしては、扱い方が、丁寧すぎる気がする」
「セシルも、そう思う?」
「うん。アーガスさんが話す準備ができるまで、待つしかないと思うけど。でも、頭の片隅には、留めておいた方がいいかもね」
セシルの言葉に、あたしは、静かに頷いた。師匠が抱える秘密の輪郭が、少しずつ、あたしたちの前に、その影を、覗かせ始めていた。
昼過ぎ、あたしたちは、村の周辺を、久しぶりに散策することにした。ヴァレナと、トトは、少し離れた場所で、木の実を採りながら、楽しそうに笑い合っている。あたしは、セシルと並んで、ゆっくりと歩きながら、朝の出来事を、改めて考えていた。
「あの杖、普通の稽古道具にしては、細工が丁寧すぎたと思う。柄の部分に、見たことのない文様が、彫られてた気がする」
「文様?どんな」
「よく見えなかったけど、なんというか、幾何学的な、古い紋章みたいな感じ」
セシルは、手帳を取り出し、あたしの説明を、丁寧に書き留めた。
「昨日見つけた、アイレスの本にも、似たような紋様の記述があったかもしれない。今夜、もう一度、確認してみる」
「頼りにしてる、セシル」
「任せて。こういう調べ物は、得意分野だから」
「セシル、なんか、探偵みたいで格好いいね」
「格好つけてるつもりは、ないんだけどな」
セシルが、澄まし顔で、そう返した。
セシルの頼もしい言葉に、あたしは、少しだけ、心が軽くなった。それでも、アーガスの態度に滲んでいた、あの深い苦悩の色は、あたしの心に、消えない影を落としたままだった。
「アーガスさんが、いつか、ちゃんと話してくれるといいけど」
「うん。でも、無理に聞き出そうとするのは、良くないと思う。あの人には、あの人なりの、時間の必要な理由があるはずだから」
セシルの言葉に、あたしは、深く頷いた。師匠を信じて、待つこと。それもまた、大切な選択の一つだと、あたしは、改めて実感していた。
木々の合間から差し込む午後の陽光が、二人の影を、長く、地面に伸ばしていた。遠くから、ヴァレナとトトの、賑やかな笑い声が、風に乗って、聞こえてきた。
夕方、小屋に戻ると、セシルは、早速、借りてきた古い書物を開き、あの紋様に関する記述がないか、丁寧にページをめくり始めた。あたしも、その隣に座り、一緒に、目を凝らした。
「あった、これかもしれない」
セシルが指し示したページには、確かに、朝見た杖の柄と、よく似た文様が、描かれていた。
「『勇気を、貸すことなく、自らの内より紡ぐ者の証』……って、書いてある」
その一文に、あたしの心臓が、大きく跳ねた。
「勇気を、自らの内より紡ぐ者……それって」
「分からない。でも、この記述、ただの装飾紋様じゃない。何か、特別な意味を持った、証のようなものかもしれない」
セシルの声には、確かな緊張が滲んでいた。あたしは、その文様を、じっと見つめながら、朝の、アーガスの苦悩に満ちた横顔を、思い出していた。
「アーガスさんの杖と、この記述が、繋がってるとしたら」
「今は、まだ、断定できない。でも、無視できない符合だと思う」
セシルは、そのページに、丁寧に紙片を挟み込んだ。窓の外は、いつの間にか、すっかり、夕暮れに染まっていた。あたしの胸の中では、師匠が抱える秘密の輪郭が、少しずつ、しかし確かに、その姿を現し始めていた。
「このことは、まだ、アーガスさんには言わない方がいいと思う」
セシルが、慎重な口調で言った。
「うん、そうだね。話す準備ができるまで、待つって決めたばかりだし」
「私たちは、私たちで、静かに調べを進めておく。それでいいと思う」
セシルの提案に、あたしは、静かに頷いた。夕食の支度をするヴァレナと、トトの、賑やかな声が、台所の方から聞こえてくる。あたしたちは、その古い書物を、そっと閉じ、何事もなかったかのように、夕食の席へと向かった。夕食の席では、いつも通り、賑やかな会話が続いていたが、あたしの心の片隅には、あの紋様の記述が、ずっと、静かに残り続けていた。アーガスの横顔を、ちらりと盗み見ると、彼は、いつもと変わらぬ、穏やかな表情を浮かべていた。それでも、その奥に、深く沈められた何かがあるのだと、あたしは、もう、気づいてしまっていた。
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