(9)静養
三日後、体はどうにか動くようになった。まだ本調子とは言えないけれど、歩けるし、軽口も叩ける。それで十分だ。
猟師小屋を出て、以前泊まった街の宿まで戻った。道中、トトがずっと隣を歩いていた。何も話さなかったけど、それでよかった。時々、袖の端をそっと掴まれた。何も言わず、離しもしなかった。
昼間の街は、以前と変わらず賑わっていた。市場を通り抜けるとき、トトが果物屋の店先で足を止めた。物欲しそうにしているわけじゃない。ただ、じっと見ているだけだった。
「食べる?」
「別に」
そう言いながらも、視線は果物から離れなかった。子供らしい強がりだった。あたしの強がりとは、少し種類が違う気もするけど、根っこは似ているのかもしれない。ヴァレナが黙って一つ買って、トトの手に押しつける。トトは驚いた顔をしてから、小さく頭を下げた。それだけの動作に、いつもより時間がかかっていた。
「お礼くらい、言葉で言いなよ」
「言った」
「頭を下げただけでしょ」
「それも言葉のうち。あんたにはこれで十分」
屁理屈だったけど、悪い気はしなかった。こういうやり取りが、いつの間にか日常になっている。
ノラが出迎えるなり、目を丸くした。
「あんた、えらく顔色悪いね」
「ちょっと大立ち回りがあって」
「またそれかい」
呆れた声。それでも、部屋の一番いい場所を用意してくれた。世話焼きなところは、変わらない。
「しばらく静養させてもらうよ」
「珍しいこと言うね、あんたが」
「あたしだって、休むときは休むし」
「休んだ試しがあったっけ」
言い返せなかった。ノラの言う通りだった。
昼下がり、部屋の窓辺で、トトが黙って外を眺めていた。何をしているのか聞くと、通りを行き交う人を数えている、という返事だった。
「何のために」
「別に。数えるものが欲しかっただけ」
セシルと同じことを言っている。指摘すると、トトは心外そうな顔をした。
「あの人と一緒にしないで」
「似てると思うけど」
「似てない」
きっぱり否定されたけど、その日の夕方には、セシルが窓辺のトトに数え方のコツを教えている光景を見た。似ていないと言った本人が、一番楽しそうにしていた。
「向かいの屋根の上、鳩が三羽」
「数え方が雑」
「厳密には四羽。一羽、羽の陰に隠れてる」
生真面目な口調でやり取りする二人を眺めながら、ヴァレナがぼそりと呟いた。
「似た者同士って、こういうことか」
聞こえていたのかいないのか、二人とも顔を上げなかった。
夕方になる頃には、部屋の窓辺にはすっかり夕焼けの色が満ちていた。トトが数えていた通りを行く人の数も、少しずつ減っていく。一日が終わるという、ただそれだけのことが、こんなに穏やかに感じられるのは久しぶりだった。
その晩、宿の食堂に、旅の歌い手がふらりと立ち寄った。
「一晩の宿代の代わりに、一曲どう?」
そう言って笑ったのは、見覚えのない女だった。荷物は小さな竪琴ひとつ。粗末な旅装なのに、なぜか目を引く。
ノラが二つ返事で頷くと、歌い手は椅子に腰かけ、静かに弦を鳴らし始めた。
「ミラ、っていうんだ。よろしく」
名乗った歌い手の声は、話すときと歌うときとで、まるで別人みたいに響きが変わった。歌う声のほうが、ずっと遠くまで届く。
「逃げた道の分だけ、還る場所が増えていく」
そんな一節が、耳に残った。歌詞の続きはよく聞き取れなかったけど、その一行だけは、はっきりと届いた。知らない土地の、知らない誰かの話らしい。それでも、なぜか胸の奥がざわついた。逃げ続けた誰かが、最後には誰かに救われる、という筋の歌だった。
食堂にいた他の客も、いつの間にか手を止めて聞き入っていた。ノラでさえ、皿を拭く手を止めている。それくらい、不思議と引き込まれる歌声だった。
歌い終わるまで、誰も口を開かなかった。竪琴の最後の一音が消えたあとも、しばらく静寂が続いた。それを破ったのは、隅の席で酒を飲んでいた常連客の拍手だった。それにつられるように、食堂中から拍手が湧く。ミラは軽く会釈だけして、また笑った。
「こんな寂れた宿場町で、こんな歌を聞けるとは思わなかったよ」
ノラが感心したように言う。
「寂れてるとか、酷いこと言うね」
「褒めてるんだよ、これでも」
ミラは苦笑しながら、竪琴の弦を軽く指で撫でた。旅の歌い手というのは、こういう小さな町でこそ歓迎されるものなんだろう。都会の劇場では味わえない距離の近さが、そこにはあった。
「気に入った?」
歌い終わったミラが、こちらを見て笑う。
「悪くなかった」
「素直じゃないね、あんた」
図星を突かれて、何も言い返せなかった。
ヴァレナは静かに酒を舐めている。セシルは手帳に何か書きつけながら、耳だけはこちらに向けていた。トトは、目を輝かせて聞き入っていた。こんな顔をするのを見るのは、たぶん初めてだ。
「あんたら、面白い顔ぶれだ」ミラが竪琴を片付けながら言う。「また会いそうだね」
「そういうの、よく言われるの?」
「言われる。でも、外れたことのほうが多いかな」
「じゃあ今回も外れそう」
「かもね。それでも、口にしておくと、ちょっとは当たりやすくなる気がして」
「会いそう、って便利な言葉だよね。当たっても外れても、何も保証しない」
「便利だから使うのさ」
ミラは肩をすくめて、それだけ言うと、翌朝には宿を発っていった。次にどこで会うのか、あたしたちは知らない。
出立の前、ミラはノラに何やら耳打ちしていた。何の話だったのか気になったけど、聞くほどの間柄でもない。ノラは笑いながら頷いていたので、たぶん悪い話ではなかったのだろう。
窓辺で見送ったトトが、ぽつりと呟いた。
「また会えるかな」
「さあ。でも、会いそう、って言葉、案外当たるものだよ」
我ながら適当な返しだった。それでも、トトは満足そうに頷いた。適当な言葉でも、時々は誰かを支えることがあるらしい。
窓の外は、久しぶりに穏やかな朝だった。空気まで、いつもより澄んで見える。単に天気が良かっただけかもしれないけど、それでもよかった。
「リク」
「なに」
セシルが手帳を閉じて、こちらを見る。
「次、どこ行く?」
決めていなかった。決めていないことに、今は少しだけ安心する。
「決めない。決めると、そこに向かって最短距離で動きたくなるから」
「前にも同じこと言われた」
「言った本人だから」
ヴァレナがあくびをしながら立ち上がる。トトが、荷物をまとめる真似をして、それからすぐに、まだ早いと気づいたようにやめた。
窓の外を見た。街の輪郭の向こうに、まだ知らない道が続いている。逃げてきた距離の分だけ、この先に進める距離もあるはずだ。根拠はない。それでも、そう思うことにした。
台詞帳を開く。書き足す言葉は、まだ思いつかない。今日のところは、白紙のままでいい。そのうち、また何か、逃げ際に格好つけたくなる場面がやってくるだろう。そのときのために、ページはとっておく。
部屋の外から、トトとヴァレナの笑い声が聞こえてきた。何がおかしいのかは分からないけど、悪くない音だった。
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