(8)代償
目を開けると、木の天井が見えた。
体が鉛みたいに重い。指一本動かすのも億劫だった。まぶたを持ち上げるだけで、ずいぶん時間がかかった。梁に干された薬草の束が、ゆらゆらと揺れているのが目に入る。見覚えのない天井だった。
小屋の主は、口数の少ない老猟師だった。ヴァレナが担いで運び込んだあたしと、あとからついてきたセシルとトトを見て、事情も聞かずに部屋を貸してくれたらしい。後で聞いた話では、ヴァレナが差し出した謝礼を見て、目を丸くしていたという。
「起きた?」
セシルが顔を覗き込んでくる。心配そうな顔をしているのが、逆に落ち着かない。いつも数字の話ばかりしているセシルが、こんな顔をするのは珍しい。
「ここ、どこ」
「森を出てすぐの猟師小屋。ヴァレナが担いで運んだ」
担いで。つまり、あたしは自分の足で歩けなかったということだ。記憶がところどころ抜けている。崖の縁で刃を交えたところまでは覚えている。そのあとは、ほとんど何も残っていない。
「代償ってやつ、久しぶりにきたよ」
「今回のは軽いほうだと思う。しばらくしたら動けるようになるはず」
危機から脱したうえに、命に別状はないなら御の字だ。
「もっと重い代償だと、どうなると思う?」
「知らないほうがいいと思う」
セシルの声が、珍しく歯切れ悪かった。それだけで、深追いする気は失せた。
「セシル、代償ってそもそも何だろね。記憶失うわけでもないのに」
「リクを観察して得られる情報だけだから、詳しいことは分からない。刃に乗せた分だけ、体からも何かが持っていかれる、というのが今のところの見立て」
「持っていかれるって、何が」
「それが分かれば苦労しない。体力とも違う、気力とも違う、記憶とも違う。概念的な何か、かな」
はっきりしない説明だった。でも、セシルがはっきりしないことをそのまま口にするのは珍しい。分からないことを分からないと言えるだけ、信用できる。
「換算的には、どれくらいだったの」
「聞きたい?」
「やっぱりいい」
「賢明な判断」
聞かないほうがいい数字というのも、世の中にはある。今回のはたぶん、そういう類のものだ。
戸口に、ヴァレナが立っていた。何も言わず、こちらを見ている。腕を組んで、いつもの仏頂面。それでも、いつもより少しだけ、そこに立っている時間が長かった。普段のヴァレナなら、用が済めばすぐに部屋を出ていくはずだった。
「重かった?」
「重かった」
「悪かったね」
「別に」
それだけの会話だった。それでも、ヴァレナの声は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。空耳かもしれない。空耳だとしても、悪い気はしなかった。
「あんたを担いで森を抜けるの、結構な運動になった」
「見た目より軽かったでしょ」
「見た目より重かった」
「今度お礼するよ」
「今度、っていつ」
「決めてない」
「またそれ。あんたの今度は当てにならないって、いい加減学習しろって話」
「決めなさすぎでしょ、あんた」
ヴァレナが呆れたように笑う。笑うところを見るのは、久しぶりだった。
「そういうあんたは、いつも通り無口だったけど」
「無口の何が悪い」
「悪くはないけど、担いで運んだ本人が一番喋らないの、ちょっとずるいと思う」
「喋らなくても、運んだのは事実」
事実を積み重ねる言い方は、セシルよりもむしろヴァレナのほうが得意だ。飾らない分、余計に重みがある。
ヴァレナが呆れたように笑う。笑うところを見るのは、久しぶりだった。
トトが、部屋の隅で膝を抱えて座っていた。ずっとそこにいたのだろう、目の下にうっすら隈ができている。それでも、あたしと目が合った瞬間だけ、ほんの少しだけ表情が緩んだ。まるで、それまでずっと息を止めていたみたいに。
「トト」
「起きたなら、いい」
素っ気ない言い方だった。それでも、立ち上がって近づいてくる足取りは、明らかに早かった。
「あたしのせいで」
「それ、もう聞いた」あたしは遮った。「違うって言ったのも、もう聞いたでしょ」
トトは何も言わず、あたしの手をぎゅっと握った。子供の力とは思えないくらい強かった。痛いとは言わなかった。言う気になれなかった。
「ずっとここにいたの」
「うん」
「寝てないでしょ」
「寝てない」
正直な返事だった。嘘をつけない子だと分かってはいたけど、こういうときくらい嘘をついてもいいのに、と思う。
窓の外で、鳥の声がする。朝が近い。
「セシル、換算的にはどうなの、今回」
「今回だけは、換算しないでおく」
珍しい返事だった。セシルはいつも、何でも数字にしたがる。距離も、時間も、感情に近いものまで、換算という物差しに乗せたがる人だ。
「なんで」
「数字にできないものも、たまにはあるってこと。今回は、そのうちの一つ」
その一言だけで、なんだか泣きそうになった。泣かなかったけど。泣きそうになったことすら、台詞帳には書き留めない。
セシルは手帳を閉じて、それ以上は何も言わなかった。ヴァレナも、トトも、何も言わなかった。ただ、三人がそこにいる。それだけのことが、今は一番ありがたかった。
言葉にすると安っぽくなる気がして、口には出さなかった。
昼過ぎ、老猟師が干し肉のスープを運んできてくれた。味は薄かったけど、体に染み渡るような温かさがあった。
「うまい」
「お世辞でも嬉しいね」
老猟師は、それだけ言って笑うと、また黙って外に出ていった。ヴァレナが、残ったスープをトトの器にも分けてやっている。トトは最初遠慮していたけど、結局は黙って受け取った。
「あんたも、無理しないでよ」
トトに向けたつもりの言葉だったけど、なぜかヴァレナがこちらを睨んできた。
「それ、あんたが一番言われるべき台詞だと思う」
「そう、かも」
素直に認めると、ヴァレナは少し驚いた顔をした。あたしが素直に非を認めるのは、たしかに珍しいことだ。
「明日には、もう少し動けるようになりそう?」
セシルが手帳を開きながら聞いてくる。もう治療の相談というより、次の予定を組み立てている顔だった。切り替えの早さだけは、いつも通りだった。
「たぶん。動けるようになったら、ノラの宿に戻ろう」
「静養しに行くのに、静養しないやつだ」
「宿でも静養はできるでしょ」
「あんたがおとなしくしてる姿、想像つかないんだけど」
言い返せなかった。実際、じっとしているのは苦手だ。走って逃げているときのほうが、よっぽど落ち着く。おかしな性分だとは自分でも思う。
窓の外で、日が傾き始めていた。橙色の光が、小屋の中まで柔らかく差し込んでくる。トトが、いつの間にか眠りに落ちていた。膝を抱えたままの、窮屈そうな寝相だった。
「毛布、持ってきてやろうか」
ヴァレナがそう言って、静かに部屋を出ていった。残されたセシルと二人、しばらく何も言わずに、トトの寝顔を眺めていた。窓の外で、鳥が一羽、低く鳴きながら飛んでいった。それだけの音が、やけに大きく聞こえる静かな午後だった。
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