(7)夜逃げ
森の奥は、思ったより深かった。土と朽ち葉の匂いが濃くなる。夜気は氷のように冷たく、吐く息が白く見えた。
木々の隙間から差す月明かりだけが頼りだ。息を殺して進むうち、足音がだんだん近づいてくるのが分かる。ザラは、迷わない。まるで、あたしたちの逃げる先が最初から見えているみたいに、まっすぐ距離を詰めてくる。
枝が頬をかすめる。足元の落ち葉が、やけに大きな音を立てる気がして、そのたびに心臓が縮む。倒木を飛び越えたところで、トトの足がもつれた。とっさに腕をつかんで支える。転ばせている暇はない。
「大丈夫」
「うん」
短く答えたトトの声は、震えていたけれど、止まりはしなかった。
短いやり取りだけで、また走り出す。こういうとき、余計な言葉はいらない。ヴァレナが先頭に立って、木の枝を払いながら道を作ってくれている。普段は口数が少ないくせに、こういう場面では驚くほど頼りになる。
「セシル、方角合ってる?」
「合ってる、と思う」
「思う、なんだ」
「星も見えない森の中で断言できる人がいたら、逆に信用しない」
正論だった。文句を飲み込んで、また走る。
「セシル、まだ?」
「あと少しで行き止まり。崖」
最悪だ。最悪すぎる。よりによって、こんな場面で地形が味方してくれない。
「戻れる?」
「戻ったら、ちょうど鉢合わせになる計算」
つまり、詰んでいる。数字に強いセシルが出した答えだから、間違いはないんだろう。間違っていてほしかった。こういうときに限って、セシルの計算は外れない。
それでも足を止めるわけにはいかない。木々の切れ間から、風の匂いが変わった。湿った土の匂いに混じって、何か開けた場所の気配がする。崖が近い証拠だった。
崖の縁で足が止まった。振り返ると、木々の間から、ザラの輪郭が浮かび上がってくる。急ぐ様子はない。追い詰めた獲物を、余裕を持って眺めているような足取りだった。
逃げ場のない場所に追い込まれるのは、これが初めてじゃない。それでも、今回はいつもと違う。逃げる先がないという状況に、こんなにも心細さを覚えたことはなかった。
ザラの視線が、一瞬だけ、トトの抱えた小さな包みに落ちた。
「トトを渡してもらう」
初めて聞く要求だった。トトを、渡す。意味が分からない。分からないけど、渡していい理由も見つからない。
背中に、トトの体温を感じる。震えているのが伝わってくる。守るとか、そういう格好いい言葉は、あたしには似合わない。ただ、渡す理由が一つも思いつかなかった。それだけで十分だった。
「渡さない」
「理由は」
「理由なんていらないでしょ、こっちの台詞。あんたに教える義理もない」
ザラの表情が、わずかに動いた。それだけだった。
「なら、力ずくになる」
得物が抜かれる音がした。逃げ場はない。崖の下は真っ暗で、どこまで落ちるのかも分からない。
トトが、あたしの袖を強く握った。指先が、氷みたいに冷たかった。震える気配が、袖越しにも伝わってくる。
「あたしのせいで」
「違う」
即答した。考えるより先に、言葉が出ていた。迷う余地なんて、どこにもなかった。
「あんたのせいじゃない。あたしが勝手に首を突っ込んだだけ」
これは嘘じゃない。台詞帳にも載らない、ただの事実。こういうときだけは、変に格好つけずに済む。
刃を抜く。溜めた分は、正直、心もとない。だけど、出し惜しみしていい場面じゃないことくらい、分かる。
これまで使ってきたのは、いつも小さな武勇伝ばかりだった。つまみ食い。仮病でさぼった稽古。どれも笑い話で済む程度の、軽い逃げ。今、必要なのはもっと大きいものだ。
記憶の中を探る。胸を張れる逃げ切りなら、数えきれないくらいある。その中でも、一番大きな一つが、勝手に喉の奥からせり上がってきた。
二年前のある夜のことだ。賞金首になりたてで、右も左も分からないまま、知らない街道を無我夢中で走っていた。追手を撒いたと思った矢先、暗がりで誰かに正面からぶつかった。それが、ヴァレナだった。
「悪い」とだけ言って走り去ろうとしたあたしの腕を、ヴァレナが黙って掴んだ。何も聞かず、こっちに来い、とだけ言って、路地の奥へ引っ張っていく。あとで知ったことだけど、彼女もその夜、何かから逃げている最中だった。理由は、今でも聞いていない。聞かなくていいと思っている。
追手が路地の入り口を通り過ぎるまで、二人並んで息を潜めていた。心臓の音が、やけに大きく聞こえた夜だった。追手が去ったあと、ヴァレナはひとこと、得物の柄に触れながら聞いてきた。
「行くとこ、あるのか」
ない、と正直に答えたら、「じゃあ、しばらく一緒に来い」とだけ言われた。出会って一晩で、パーティーになった。理由なんて、それだけで十分だった。あの夜、二人で夜の街道を走り抜けた距離が、今もこの一振りの中に残っている。
「チキン流、夜逃げしたときのやつ」
叫んだ瞬間、刃が唸った。今までとは、明らかに違う重みだった。手のひらに伝わる感触だけで分かる。今までとは、格が違う。
踏み込む。ザラの得物と交差する。火花が散る。夜の森に、金属同士がぶつかる音だけが、やけに大きく響いた。
一合、二合。あたしの刃が、少しずつザラを押し返していく。ザラの目が、初めて驚いたように見開かれた。今まで対峙してきた誰の目にも浮かばなかった表情だった。それだけで、少しだけ胸がすいた。
「本気で来る、とは思わなかった」
「あたしだって思ってなかった。逃げるだけの人生だと思ってたし」
正直な感想だった。息が上がる。腕が痺れる。それでも、退かなかった。退けなかった、というほうが近い。
三合目、刃と刃がぶつかった瞬間、視界が白く弾けた。何が起きたのか、よく分からない。気づいたときには、ザラが数歩下がっていた。息が上がっているのは、向こうも同じだった。
「今日のところは、退く」
「今日のところは、って」
「また会う」
それだけ言って、ザラは森の闇に消えていった。追う気力は、もう残っていなかった。足も、腕も、指の先まで、鉛を詰め込まれたみたいに重い。
崖の下から吹き上げてくる風が、やけに冷たく感じられた。頭のどこかで、これが代償というやつか、と気づく。覚悟はしていたけれど、これほどはっきり体に来るのは久しぶりだった。想像していたよりずっと重い。
膝から力が抜ける。立っていられない。指先ひとつ、もう動かせなかった。
「リク?」
セシルの声が、やけに遠くから聞こえた。ヴァレナが駆け寄ってくる足音がする。トトが何か叫んでいたけど、言葉としては聞き取れなかった。
視界が、端から暗くなっていく。悪くない気分だった。少なくとも、負けはしなかった。それだけで、今は十分だ。
「リク、しっかりして」
ヴァレナの声が近づいてくる。肩を抱えられる感触があった。地面に膝をついたのか、それとも誰かに支えられているのか、もう区別がつかない。
「重い、から、無理しないで」
声を出したつもりだったけど、ちゃんと言葉になっていたかどうかは分からない。
「うるさい、黙ってて」
いつもより、ずっと余裕のない声だった。
トトが、あたしの手を握ったまま離さなかった。小さな手のひらが、震えているのが分かる。震えているのは、トトなのか、それとも自分の手のほうなのか。それすらも、もう判断がつかなかった。
「セシル、方角」
「街道の方角に向かって、あたしが先導する。ヴァレナはリクを」
「分かってる」
意識が、ゆっくりと沈んでいく。最後に聞こえたのは、木々の間を抜ける風の音と、誰かの荒い息遣いだけだった。
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