(6)置いていく
それから三日、旅は平和だった。トトはついてくる、とも、ついてこない、とも言わなかった。ただ黙って、三人の少し後ろを歩き続けている。それでいいと思う。急かす理由はない。
途中の宿場で、気になる噂を耳にした。「置いていく」しか言わない賞金稼ぎが、ここ最近この街道筋を流していると、酒場の親父が声を落として教えてくれた。逃げ切った者がいない、という尾ひれまでついている。あたしは、話半分に聞き流した。噂話というのは、大抵の場合、実物より恐ろしく育つものだ。今までも、似たような話は何度も聞いてきたし、そのたびに、たいしたことはなかった。
「気にならない?」
セシルが手帳に何か書きつけながら聞いてくる。
「気にならないと言ったら嘘になる。でも、今は気にしないことにする」
「その使い分け、便利だね」
「便利なだけが取り柄だから」
街道は、代わり映えのない景色が続いた。左右に広がる乾いた草原、時々すれ違う荷馬車、遠くに見える山の稜線。退屈といえば退屈だけど、退屈な旅ほどありがたいものはない。追われていない三日間が、こんなに贅沢に感じるとは思わなかった。
「今日はよく歩いたね」
ヴァレナが伸びをしながら言う。トトは黙って頷いた。口数は少ないけど、表情は最初の頃よりずっと柔らかくなっている。
「あっち、誰か来る」
トトが、街道の先を指差して、ぽつりと呟いた。目を凝らしても、あたしにはまだ何も見えない。気のせいじゃないかと思いかけた、その数秒後。
四日目の夕方、街道の途中に、女が一人、道を塞ぐように立っていた。
その日は朝から、妙に胸騒ぎがしていた。理由のない予感というやつは、たいてい当たらない。そう自分に言い聞かせながら歩いていたのに、結局今日も当たってしまった。予感の的中率だけは、誰にも負けたくないと思ったことは一度もないのに。
夕暮れの光が長く伸びて、道の先に立つ人影を、実際よりも大きく見せていた。年齢を感じさせない若い女だった。旅装ではない。動きやすさだけを考えたような、飾り気のない外套。手には、何か仕込んでありそうな手袋。得物は背中に一振り、それだけ。冷たい印象の目は、遠目にも分かるくらい、表情をほとんど動かさない。ただ事じゃない空気をまとっていた。
「チキンナイフ」
名前を呼ばれて、足が止まった。呼ばれ方に、嫌な予感がした。あたしの嫌な予感は、だいたい当たる。今まで外れたことがない。統計を取ったら、たぶん九割を超える。
「知り合い?」
セシルが小声で聞いてくる。知り合いじゃない。今日、初めて顔を合わせる相手だ。それでも、誰なのかは分かっていた。手配書にも、宿場の噂にも、何度も出てきた名前。
「ザラ・ヴィント」
名乗るまでもなく、口をついて出た。逃がさない、で有名な賞金稼ぎ。噂の主が、まさか本当に追いついてくるとは思っていなかった。噂って、たいてい大げさに膨らむものだと思っていたのに。これが、あたしとザラの、最初の顔合わせだった。
「話は早い」ザラは表情を変えずに言った。「ついてきてもらう。おとなしく」
「おとなしく、って言葉、あたしの周りだと信用ならないって評判なんすけど」
つい、っす調が出た。相手が初対面の年上だと、体が勝手に敬語混じりになる。ザラは眉一つ動かさなかった。
軽口で流そうとしたのに、ザラは笑わなかった。真顔のまま、じっとこちらを見ている。他の賞金稼ぎなら、ここで軽く舌打ちするなり、面倒くさそうにため息をつくなりする。ザラは何もしない。ただ、見ている。
「冗談で来てるわけじゃない」
低い声だった。今までの追手とは、明らかに温度が違う。今までの相手は、あたしを捕まえたら手柄になる、くらいの温度だった。ザラには、そういう浮ついたところが一切ない。だからこそ、質が悪い。
ヴァレナが得物に手をかける。セシルが、トトを庇うように半歩前に出た。
「置いていく」
ザラの口癖らしい一言。誰を、何を置いていくのか、最後まで言わない。それが逆に不気味だった。荷物を置いていくのか、仲間を置いていくのか、それとも別の何かなのか。聞き返す勇気は、正直なかった。
「悪いけど」あたしは刃の柄に指をかけながら言った。「今日のところは、逃げさせてもらう」
言いながら、内心では思いきり冷や汗をかいていた。強がりというのは、口に出した瞬間だけ効果がある。中身が伴っているかどうかは、また別の話だ。
台詞としては悪くない。台詞帳の候補にはまだ入れないけど、殿堂入り一歩手前くらいの出来だとは思う。
「今の、何点?」
小声でセシルに聞くと、冷めた声が返ってきた。
「状況を考えると、六十点」
「辛口」
「命の危機に点数をつけてる余裕、あたしにはないんだけど」
もっともな指摘だった。今は反論しないでおく。
三人と一人、街道の真ん中で睨み合う。日が沈みかけていた。橙色の光が、ザラの輪郭をやけにくっきりと縁取っている。誰も動かない、動けない、そんな時間が数秒続いた。
風が一つ、街道を吹き抜けた。土埃が舞い上がり、ザラの装束の裾を揺らす。それでも、彼女の視線はぶれなかった。獲物を前にした狩人の目、とはこういう目のことを言うんだろう。あたしはあいにく、狩られる側の経験しかない。
「トト、先に行って」
小さな声で言うと、トトは首を振った。
「嫌だ」
「聞き分けのいい子だと思ってたのに」
「思っただけでしょ、勝手に」
減らず口だけは、ずいぶん達者になってきた。最初に会った頃は、こんなふうに言い返してこなかったのに。成長というものは、こういうところにも表れるらしい。
「あんたも一緒に逃げるよ、トト」
「聞き分けがいいって、さっき言ったばかりじゃん」
「あれは撤回する」
トトが、意外そうな顔でこちらを見た。前言撤回の早さには自信がある。生き延びるためなら、前言くらいいくらでも翻す。
ザラが一歩、こちらに踏み出す。得物の柄に指がかかった。
「逃げ切れるとは思わないことだ。これまでの相手とは違う」
言われなくても分かる。分かるからこそ、頭の中は逃げる算段でいっぱいだった。逃げる算段だけは、誰にも負けない自信がある。褒められた特技じゃないけど、こういうときだけは役に立つ。
「セシル、換算は」
「今の蓄積量だと、全力で動いても五分は保たない。急いで」
五分。短い。短すぎる。あたしの人生、いつもこの手の数字に振り回されている。
それでも、五分あれば十分だ。今まで、それでずっと生き延びてきた。今日も同じでいい。根拠のない自信だと言われればその通りだけど、根拠なんて、あとから積めばいい。
「ヴァレナ」
「分かってる」
言葉少なに、ヴァレナが前に出る。あたしはトトの手を引いた。
「逃げるよ」
日が完全に落ちる前に、あたしたちは街道を外れ、森の中へ走り込んだ。木の根に足を取られそうになりながら、方向も分からないまま、ただ奥へ奥へと進む。
背後で、ザラの声が追いかけてくる。大きくはない。それなのに、やけにはっきりと届いた。
「置いていく」
その一言だけが、いつまでも耳の奥に残った。
走りながら、頭の隅で妙なことを考えていた。あの人は、本当に置いていくつもりなんだろうか。何を。誰を。答えの出ない問いを抱えたまま、あたしたちはただ、前へ前へと進み続けた。息が切れる。足が重い。それでも、止まる理由にはならなかった。
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