(5)トト
門番に通行証を見せて中に入る。石畳の道は、昼間の商いの名残でまだ賑やかだった。屋台の呼び声、鍛冶屋の槌の音、遠くで犬が吠える声。ありふれた、けれど嫌いじゃない喧騒だ。こういう街に来るたびに、少しだけ気が緩む。追われる身であることを、束の間だけ忘れられる。
広場の隅に、小さな人だかりができていた。荷馬車が横倒しになり、積み荷が地面に散らばっている。中心にいるのは、まだ十歳そこそこの少年だった。日に焼けた肌に、あちこち擦り切れた服。片方だけほどけた靴紐。
「弁償しろ、弁償を」
恰幅のいい商人が、少年の襟をつかんで怒鳴っている。少年は言い返さず、ただ地面を睨みつけていた。目には、涙をこらえているような光があった。
周りの人だかりは、見ているだけで誰も止めない。よくある光景、という顔をしている者もいる。
足が勝手に止まった。止まる理由なんて、特にない。ただ、目が離せなかった。
「なあ、それ以上やると、こっちが困る」
気づいたら、声が出ていた。
商人が振り返る。「なんだ、お前」
連れの男が、あたしの腰の得物に目を留めた。顔色が変わる。
「まさか、お前……」
「知り合い?」
「いや、噂で聞いただけだ。逃げ足だけは速い、賞金首がいるって」
「その通り。通りすがりの賞金首だ」
わざと軽い調子で名乗ってやった。商人の顔が一瞬こわばる。賞金首という響きだけで、大抵の相手は怯む。実際には大したことなどしていないのに、都合のいい話だと自分でも思う。
「弁償の話なら、いくらだ」
「銀貨五枚」
「高いな」
セシルの口癖が移った。懐から財布を出す。少年が驚いた顔でこっちを見上げた。
「払えばいいんだろ」
「お、おい」
「文句あるの?」
商人は不満げな顔をしながらも、銀貨を受け取ると、逃げるように連れと去っていった。人だかりも興味を失ったようにばらけていく。誰かの不幸は蜜の味、というけれど、それが終わってしまえば、もう誰も見向きもしない。世の中というのは、案外そんなものだ。
少年だけが、その場に残った。膝を抱えるように座り込んだまま、あたしを見上げている。
セシルが屈み込み、散らばった荷物を一つ拾い上げた。布に包まれた小さな箱で、荷馬車の積み荷にしては妙に丁寧な梱包だった。彼女はそれを一瞬だけ眺め、何も言わずに元の場所へ戻した。
少年が、散らばった荷物をかき集める拍子に、腰の帯から、小さな鞘が転げ落ちた。中身は、飾り気のない短刀。柄の根元に、小さく鶏を象った印が刻まれているのが見えた。
あたしは、思わず自分の得物に目を落とした。同じ意匠の印が、あたしの柄にも刻まれている。師匠から譲り受けたときから、ずっとそこにあった印だ。誰に聞いても、由来を教えてもらえたことはない。ただの飾りだとばかり思っていた。
見ず知らずの少年が、なぜこれを持っているのか。理由なんて、分かるはずもない。それでも、銀貨を払っただけで立ち去る気には、もうなれなかった。
少年は、慌てて鞘を拾い上げ、懐に押し込んだ。あたしと目が合うと、気まずそうに視線を逸らす。何か聞かれると思ったのかもしれない。あたしは、あえて何も言わなかった。今はまだ、聞くべき時ではないと思った。
「なんで、助けた」
「助けてない。金を払っただけだ」
「同じだろ」
「違う。今のはただの、金の話」
助けたと言われることに、いつも居心地の悪さを覚える。誰かを助けるという行為には、それだけの覚悟や理由が伴うものだと、どこかで思っている。今のはただ、目の前の理不尽が気に入らなかっただけだ。
なんて、また柄にもなく格好つけてみたけど、実際は単に面倒事が嫌いなだけかもしれない。台詞帳には書き留めない。この程度じゃ、まだ及第点じゃない。
少年は納得のいかない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。代わりに、袖口で乱暴に目元をこすった。
「名前は」
「トト」
「家は」
トトは答えなかった。代わりに、地面に散らばった積み荷を、黙って拾い集め始めた。その手つきは、慣れているようで、どこかぎこちなかった。言葉遣いや所作の端々に、路上で育った子供とは違う何かがある。それが何なのか、今のあたしにはまだ分からない。
「なあ、こういうときはさ」
つい、口を出してしまう。落ち込んでいる子供を前に、何か気の利いたことを言いたくなった。
「あたしも昔、似たような目に遭ったことがあってさ。荷物ぶちまけて、弁償しろって迫られて。あのときは持ち合わせがなくて、そのまま逃げた。三日後に別の街で捕まって、結局倍払う羽目になったけどね」
「それ、失敗した話じゃないの」
「失敗の話だけど、聞いてほしいのはそこじゃなくて。追手を三日撒き続けた足の速さ、我ながら大したもんだったなって」
「慰めるつもりだったんじゃないの」
「そのつもりだったけど、話してるうちに自慢のほうが勝った」
トトが呆れた顔をする。慰めのつもりが、結局は自分語りで終わった。うまくいかないものだ。
ヴァレナが、その様子をしばらく見てから口を開いた。
「今夜、泊まる宿は決まってる」
「聞いてない」
「今、決めた」
トトが顔を上げる。ヴァレナはそれ以上何も言わず、散らばった荷物のひとつを拾い上げて、トトに差し出した。トトはそれを受け取り、小さく頭を下げた。その仕草だけで、育ちの良さのようなものが、ほんの少し滲んだ。
「決めるの早いね、あんたも」
「善は急げって言うでしょ」
「その言葉、あんたが言うと妙に軽く聞こえる」
ヴァレナはそれに答えず、荷物をまとめ始めた。口数の少なさは相変わらずだけど、行動の早さだけは誰にも負けない。
セシルが手帳を閉じながら、耳打ちしてくる。
「今の分、換算するとどれくらいだと思う?」
「知らないよ、そんなの」
「銀貨五枚と、あと、ちょっとの寄り道」
「安いな」
「安いくらいで、ちょうどいい」
セシルの言葉を借りたのは、今度はあたしのほうだった。
宿への道すがら、トトは一言も喋らなかった。ただ、三人の後ろを、少し距離を置いてついてくる。誰かに頼ることに、まだ慣れていない者の歩き方だった。
通りには夕餉の支度をする匂いが漂い始めていた。窓の明かりが一つ、また一つと灯っていく。
宿の明かりが見えたところで、トトが初めて自分から口を開いた。
「明日には、いなくなる。迷惑はかけない」
短く、あらかじめ用意していたような言い方だった。
「別に、迷惑とは言ってない」
「でも」
「腹が減ってるなら、まず飯だ。話はそのあとでいい」
そう言うと、トトは何か言い返そうとして、結局、何も言わなかった。ただ、少しだけ足取りが速くなっていた。
宿に入ると、出迎えたのはノラだった。トトの姿を見て、目を丸くする。
「あんたたち、また拾ってきたのかい」
「拾ったんじゃない、たまたま居合わせただけ」
「たまたまで済ますには、面倒見が良すぎるんじゃないの」
ノラは笑いながら、トトの頭をぽんと叩いた。トトは驚いたように身を縮める。
「坊主、腹減ってるだろ。今日は多めに出してやるよ。この連中の奢りだからね」
「聞いてないぞ、それ」
「聞かせてないもの」
厨房から漂ってくる匂いに、トトの腹が小さく鳴った。当のトトが一番驚いた顔をしている。あたしは思わず噴き出した。
「そんな顔するなよ」
「うるさい」
小さく言い返す声は、さっきまでよりずっと子供らしかった。
セシルが手帳を開き、何か書きつけながら呟く。
「今日の換算、まとめて記録しとくね。距離税、弁償代、それから、坊主一人分の夕飯」
「勘定に入れるなよ、それは」
「入れないと、締まらないから」
そんなやり取りを、トトは黙って眺めていた。誰かがふざけて誰かに言い返す、というだけのやり取りを、物珍しそうな顔で見ている。
出された皿を、トトは最初は遠慮がちにつついていたが、やがて夢中で頬張り始めた。その様子を眺めながら、ヴァレナが珍しく、口元をわずかに緩めていた。誰も、それを指摘しなかった。
その夜の食卓は、いつもより一人分にぎやかだった。
「なあ、トト」
「なに」
「明日、いなくなるとか言ってたけど」
トトの箸が止まる。
「気が変わるまでは、ここにいていいから」
我ながら、締まらない誘い文句だった。もっとかっこいい言い方があった気がする。台詞帳の減点対象だ。
それでも、トトは小さくうなずいた。
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