(10)静養明け、また旅へ
宿の裏庭に、洗い立ての布団が並んで干されていた。石鹸のにおいと、朝露に濡れた木の匂いが混じる。空は雲一つなく、風が布団の端をぱたぱたと揺らしていた。
体はもう、すっかり動く。指先まで力が戻っているのを確かめてから、あたしは大きく伸びをした。
「もういいの、体」
ノラが盆を片手に、心配そうな顔で聞いてくる。
「もういい。むしろ動かないほうが調子悪くなるタイプ」
「知ってる。あんた、じっとしてるとろくなこと考えないもんね」
図星だった。返す言葉がない。
「世話になった」
「今度は代償の少ないやつにしときな」
ノラが、いつもの調子で軽く肩を叩いてくる。ここしばらくの世話賃は、たぶんまともに払いきれていない。今度来るときは、ちゃんと稼いでから来よう、と思う。思うだけなら、いつでもただだ。
荷物をまとめて宿を出ると、ヴァレナが門の前で得物の柄に軽く触れながら待っていた。セシルは手帳を開いて、何か最終確認をしている。トトは、少し離れたところで、旅装らしきものに袖を通していた。似合っているような、まだ着慣れていないような、微妙な佇まいだった。
「行くよ」
短く声をかけると、トトが黙ってうなずいた。正式に、パーティーの一員になったらしい。誰も改まった話し合いをしなかったけど、それでいいと思う。決め事は、案外こういう空気の中で勝手に決まるものだ。
街道に出ると、日差しが背中を温めた。土のにおいと、遠くの畑から漂う青草の匂い。歩き出してすぐ、道端の掲示板に人だかりができているのが見えた。
「また新しいの貼られてる」
セシルが手帳から顔を上げずに言う。近づいてみると、見覚えのある似顔絵があった。あたしだ。ただし、実物より三割増しで凶悪な顔に描かれている。
「これ、誰の絵? あたし、こんな顔してる?」
「してない」ヴァレナが即答する。「してないけど、噂ってのはそういうものでしょ」
賞金額の欄を覗き込むと、以前見たときより一桁増えていた。国境防衛の任を蹴った女、式典を壊して逃げた女、という文言に、いつの間にか、街を三つ焼いた、という一文まで追加されている。焼いてない。壊したのは岩一個だけだ。
「焼いてないのに」
「噂は、事実より面白いほうに転がるからね」
セシルが淡々と言う。数字だけは正確に読み上げるくせに、噂の話になると急に興味を失ったような声になるのが、なんだかセシルらしい。
「あたしのこと、みんな結構好きに言うよね」
「有名税ってやつじゃない」ヴァレナが素っ気なく答える。「文句言うわりに、まんざらでもない顔してるけど」
図星を指されて、口をつぐんだ。まんざらでもない、という表現は否定しきれない。
「トトは、この手の噂、平気?」
聞いてみると、トトは掲示板の似顔絵を見ながら、真面目な顔で答えた。
「別に。似てないから、そこまで実感がない」
意外と冷静な返事だった。子供らしい素直な感想かと思いきや、案外分析的な物言いをする子だ。育ちの良さがこういうところにも出る。
「マジビの評論家気取りっすか」
つい、からかい混じりのっす調が出た。相手はまだ子供だから普通の口調でいいはずなのに、なぜか体が勝手に敬語混じりになる。トトが不思議そうな顔をした。
「なんで、っす調」
「さあ。癖」
自分でもよく分からない。深く考えるのはやめておく。
昼前、街道脇の茶屋で足を止めた。木陰に置かれた粗末な長椅子に腰を下ろすと、店主が焼き団子を四本、無言で差し出してくる。串の先から立ちのぼる甘い匂いに、腹の虫が正直に反応した。
「今日はまだ、稼いでないんだけど」
「見かけない顔連れて歩いてるとこ見て、気になっただけだよ」
店主が顎でトトを示す。トトは団子を受け取って、遠慮がちにかじりついた。頬張った瞬間だけ、年相応の顔になる。
「うまい?」
「別に」
そう言いながら、二本目に手を伸ばすのは早かった。素直じゃない返事と、素直な食欲の落差が、なんだかおかしい。
団子を平らげて、また歩き出す。四人分の足音が、乾いた土の上でそろっていた。しばらく無言で歩いたところで、セシルが小さく声を上げた。
「あ」
「どうした」
「別に。ちょっと、懐かしい看板を見かけただけ」
視線の先を追うと、道の脇に、測量士組合、と書かれた古びた看板が立っていた。ずいぶん色褪せていて、文字も半分は読めない。
セシルの表情が、ほんの一瞬だけ硬くなった。すぐにいつもの顔に戻ったけれど、あたしはその一瞬を見逃さなかった。手帳を持つ指先が、いつもより少しだけ強く握られている。
「知り合い?」
「昔の、知り合いっていうか、職場」
それだけ言って、セシルは足を速めた。詳しく聞ける空気じゃない。あたしとヴァレナは、顔を見合わせて、それ以上は追及しなかった。聞かなくていいことは、聞かない。三人と一人で始めた旅の、暗黙のルールだ。
代わりに、話題を変えることにした。
「そういえば、この先の街にマジビの新刊出るらしいっすよ」
わざとらしく、っす調で明るく言ってみる。セシルが一拍置いてから、乗ってきた。
「新刊、って何の」
「占いコーナーの特集号。今度は逃亡者向けの運勢欄があるんだって」
「そんな需要、あるわけ」
「あたしが需要そのものだけど」
胸を張って言うと、ヴァレナが呆れた顔で口を挟んだ。
「需要はあっても、当たったこと一度もないんでしょ、それ」
「当たらないところも含めて、様式美」
我ながら苦しい理屈だったけど、セシルの表情から、さっきまでの硬さが少しだけ抜けたのが分かった。うまくいったのか、たまたまなのかは分からない。それでも、悪くない結果だと思うことにする。
それでも、頭の隅に引っかかった。セシルが数字にこだわる理由と、あの看板は、たぶん無関係じゃない。いつか、本人の口から聞ける日が来るんだろうか。今はまだ、分からない。
日が高くなる頃、次の街の輪郭が遠くに見えてきた。屋根の連なりが、白っぽい陽炎の向こうで揺れている。近づくにつれ、人の声や、荷馬車の車輪の音が、少しずつ大きくなっていった。
賑やかな街ほど、噂も早く回る。あたしの二つ名も、たぶんもう先回りして届いているんだろう。厄介といえば厄介だけど、それだけ生き延びてきた証でもある。悪い話じゃない。
この旅は、まだ続いていく。
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