(11)セシルの換算表
市場は、昼過ぎの喧騒に包まれていた。干し魚と薬草の匂いが入り混じり、呼び込みの声があちこちから飛び交う。荷車の轍が、乾いた地面に幾筋も刻まれていた。
「腹ごしらえ、先に済ませない?」
あたしが提案すると、ヴァレナが小さくうなずいた。トトは屋台の串焼きに目を奪われている。物欲しそうにしているわけじゃない、というのが、いつものトトの建前だ。
「食べたいなら、素直に言えばいいのに」
「別に。ただ見てるだけ」
そう言いながら、視線は串から離れない。結局、ヴァレナが黙って一本買い、トトの手に押しつけた。この流れも、すっかりお決まりになりつつある。
串焼きを頬張りながら人混みを抜けようとしたところで、ひときわ大きな怒鳴り声が耳に入った。
「この量り、絶対おかしいだろ!」
見ると、露店の主人と客が、天秤ばかりを挟んで睨み合っている。周りには野次馬が集まり始めていた。面倒事の匂いがする。あたしは自然と、目をそらして通り過ぎようとした。
「待って」
セシルが、珍しく足を止めた。天秤を覗き込み、分銅の並びを一瞥する。
「その分銅、片方だけ摩耗が進んでる。正確な重さより、二割ほど軽く出る計算」
「な、なんだお前」
「通りすがりの測量士」
セシルは表情も変えずに答えた。露店の主人が慌てた様子で分銅を隠そうとしたけれど、もう遅い。周りの客たちが、一斉にざわめいた。
「道理でおかしいと思った」
「返金だ、返金しろ」
騒ぎはあっという間に大きくなった。セシルは動じることなく、手帳を開いて何やら計算を続けている。数字が並ぶページを見せられると、露店の主人も反論のしようがなかったらしく、渋々ながら客に代金を返し始めた。
「見事っすね」
思わず声をかけると、セシルはようやくいつもの顔に戻った。
「見りゃ分かること。誰でも気づける」
「気づいてなかったんだけど、あたしたち」
「あんたたちが鈍いだけ」
手厳しい返事に、ヴァレナが小さく、けれど確かに笑った。トトは、セシルの手帳を興味深そうに覗き込んでいる。
「これで全部、計算できるの」
「距離、重さ、時間。数字にできるものなら、大抵は」
「数字にできないものは?」
トトの何気ない問いに、セシルの手が一瞬だけ止まった。すぐにまたページをめくり始めたけれど、その一瞬を、あたしは見逃さなかった。
「さあ。考えたこともない」
明らかに、考えたことがある人間の返事だった。それ以上は突っ込まないでおく。
「セシルって、昔から数字ばっかりなの」
何気なく聞いたつもりだった。セシルは手帳のページをめくる手を止めずに答える。
「昔からじゃない。数字だけは裏切らないって知ったのが、たまたま先だっただけ」
「知ったのが先、ってどういう」
「言葉の綾。深い意味はない」
食い下がろうとしたところで、セシルが話を切り上げるように手帳を閉じた。この間合いの取り方には、いつも覚えがある。踏み込まれたくない話に触れられたときの、あの空気だ。
騒ぎが収まりかけた頃、人だかりの奥から、恰幅のいい中年の男が歩み出てきた。立派な身なりに、腰には測量士組合の紋章らしき飾りをつけている。
「お見事な指摘だ。よろしければ、お名前を伺っても」
セシルの肩が、目に見えて強張った。男は気づかない様子で続ける。
「その手腕、うちの組合でぜひとも活かしていただきたい。もしや、以前どこかの組合に所属を」
「いえ」
セシルの声は、いつもよりずっと低く、硬かった。
「人違いです」
きっぱりと言い切って、セシルはあたしたちの背中を押すように歩き出した。男は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は追ってこなかった。
市場の喧騒から離れたところで、セシルはようやく足を緩めた。手帳を持つ指先が、まだ少しだけ震えている。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと、苦手な手合いだっただけ」
「苦手な手合い」
「押しの強い、善意のつもりで踏み込んでくるタイプ」
それ以上は語らず、セシルは手帳を閉じた。話を切り上げる合図だ。あたしたちは、それ以上何も聞かなかった。聞かなくていいことは、聞かない。三人と一人の、暗黙のルールだ。
「今日の分の換算、しとくね」
いつも通りの声に戻ってはいたけれど、いつもより少しだけ、早口だった。取り繕っているのが、丸わかりだった。
夕方、宿を探して歩く道すがら、セシルはずっと手帳に何か書き続けていた。何を書いているのか、聞く気にはなれなかった。ただ、数字は裏切らない、という彼女の口癖の裏に、今日また一つ、確かな輪郭が見えた。
いつか、本人の口から聞ける日が来るんだろうか。急かすつもりはない。時間をかけて分かることも、旅にはたくさんある。
その夜、宿の食堂で夕飯を終えたあと、トトがぽつりと聞いてきた。
「セシルって、怒ってた?」
「怒ってたっていうか、驚いてた、が近いかな」
「あたしのせい? 数字にできないもの、って聞いたから」
トトが珍しく、しょげた顔をしている。あたしは首を横に振った。
「あんたのせいじゃない。あの人には、誰かに聞かれる前から、ずっと抱えてたものがあるんだと思う」
「抱えてたもの」
「詳しくは知らない。でも、いつか話したくなったら話すだろうし、話したくなかったらそれでいい。そういうもんでしょ、人の過去なんて」
我ながら、投げやりな答えだった。それでも、トトは少しだけ納得した顔をした。
「リクは、聞かないの」
「聞かない。聞いてほしくないことを、無理やり聞き出すの、性に合わない」
「意外と、優しいとこあるんだね」
「意外は余計」
軽口を返すと、トトが小さく笑った。笑うところを見るのは、まだそう何度もない。
食堂の隅では、セシルが一人、いつものように手帳を開いていた。ページをめくる指先は、もういつも通りに戻っている。それでも、あたしはさっき見た強張った肩を、しばらく忘れられなかった。
窓の外はもう暗く、宿場町の明かりが、ぽつぽつと灯り始めていた。遠くで犬の鳴く声がして、それきり、あたりは静かになった。
明日はどこへ向かうのか、まだ誰も決めていない。決めないまま歩くのが、この旅のやり方だった。決めてしまうと、そこへ向かって最短距離を選びたくなる。それが一番、危ない選び方だと、もう身に染みて分かっている。
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