(88)なぜ教えたのか
昼食を終えた後、あたしは、一人で、アーガスに、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。小屋の裏手にある、小さな薬草畑で、アーガスは、黙々と、雑草を抜いていた。
「アーガスさん、少し、いいですか」
「なんだ」
「あの日、どうして、あたしに、積術を教えようとしたんですか。もっと、平和な時に、教える機会は、いくらでもあったはずです」
その問いに、アーガスの手が、一瞬、止まった。彼は、しばらくの間、無言で、土をいじっていた。
「実を言うと、あの日、教えるつもりはなかった。ただ、なんとなく、話しておきたい気分だった。今にして思えば、虫の知らせ、というやつだったのかもしれん」
「虫の知らせ、ですか」
「ああ。もっとも、剣の稽古を、時折、見てやっていたのは、それより、ずっと前からだ。だが、積術の口伝を、正式に授けたのは、あの日が、初めてだった」
「積術の口伝は、本来、代々、一子相伝で受け継がれてきたものだ。俺自身、俺の師から、ただ一人、その原則を授かった。だが、俺には、跡を継がせるべき弟子が、長らくいなかった」
アーガスは、雑草を一つ、丁寧に地面から引き抜きながら、続けた。
「お前に出会った時、俺は、直感的に、何かを感じた。飾らない、まっすぐな性根。それでいて、芯の強さも持っている。この子になら、伝えても良いかもしれない、と」
「それだけの理由、ですか」
「それだけ、で十分だった。積術の口伝は、大層な力を授けるものじゃない。ただの、原則だ。借りない、頼らない、自分自身の力だけで立つ、という、ただの考え方だ。それをどう活かすかは、受け継いだ者次第だ」
あたしは、その言葉を、じっくりと噛み締めた。
「あたしが、チキン流を発動させたのは、あの日の、あの瞬間だけだったんですか。それとも、他にも、可能性があったんですか」
「それは、俺にも分からん。積術の原則を授かった者が、実際に、それを発動させられるかどうかは、本人の資質と、置かれた状況次第だ。歴史を紐解いても、実際に力を発動させた記録は、ほとんど残っていない」
「ほとんど……つまり、他にも、いるかもしれないってことですか」
「可能性としては、否定できん。だが、少なくとも、俺が知る限り、今、実際に力を使えることが確認されているのは、お前一人だけだ」
その言葉に、あたしは、複雑な感情を抱いた。自分が、歴史上、稀有な存在であるという事実。その重みを、あたしは、まだ、うまく飲み込めずにいた。
「なあ、リク。一つ、聞いていいか」
「はい、なんですか」
「その力を、今、どう思っている。厄介だと思うか。それとも、誇りだと思うか」
アーガスの問いに、あたしは、少し考えてから、答えた。
「正直、両方です。厄介なことも、たくさんありました。でも、この力があったから、出会えた人たちもいる。だから、今は、悪くないと思ってます」
その答えに、アーガスは、満足そうに、小さく頷いた。
「良い答えだ」
薬草畑に、穏やかな風が吹き抜けていった。あたしは、師匠の隣で、しばらくの間、無言のまま、雑草抜きを手伝った。この静かな時間もまた、あたしにとって、かけがえのないものだった。
しばらくして、家の裏口から、セシルが顔を出した。
「二人とも、そろそろお茶にしない?ヴァレナが、淹れてくれてる」
「うん、行く」
あたしが立ち上がると、アーガスも、腰を伸ばしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「歳を取ると、しゃがむのも一苦労だ」
「大袈裟です。まだまだ、現役じゃないですか」
「そう言ってくれるのは、お前くらいだ」
軽口を交わしながら、二人で、小屋へと戻った。囲炉裏端では、ヴァレナが、湯気の立つお茶を、丁寧に淹れてくれていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ヴァレナ」
差し出された椀を受け取ると、香ばしい香草の香りが、鼻腔をくすぐった。トトが、興味深そうに、アーガスの顔を覗き込んだ。
「アーガスさんとリクさん、何を話してたんですか」
「大したことじゃない。昔話だ」
アーガスは、素っ気なく答えたが、その表情には、どこか、穏やかな余韻が残っていた。あたしは、椀を両手で包み込むように持ちながら、窓の外に広がる、夕暮れの山並みを、静かに眺めた。師匠との会話が、少しずつ、あたしの中の何かを、整理してくれているような、そんな感覚があった。
「明日は、村長さんのところにも、顔を出しておかないとね」
セシルが、手帳を確認しながら、そう提案した。
「そうだね。無事に再会できたこと、ちゃんと報告しないと」
あたしがそう答えると、アーガスは、静かに頷いた。
「オズワルドにも、世話になった。礼を、言っておかないとな」
囲炉裏の炎が、パチパチと、穏やかな音を立てていた。あたしたちは、しばらくの間、他愛のない会話を交わしながら、久しぶりに訪れた、この穏やかな時間を、大切に味わっていた。
夜が更け、皆がそれぞれの寝床につく頃、あたしは、一人、小屋の外に出た。夜空には、無数の星が、瞬いていた。故郷の空は、旅の途中で見上げるどんな空よりも、澄んで、近く感じられる。
「眠れないのか」
背後から、アーガスの声がした。振り返ると、彼もまた、外の空気を吸いに出てきたようだった。
「はい。色々考えることが、多すぎて」
「無理もない。今日一日で、随分、多くのことを聞かせた」
アーガスは、あたしの隣に立ち、同じ星空を見上げた。
「アーガスさんは、これから、どうするんですか。この半年の事情、まだ、話してくれないんですよね」
「ああ。だが、いつまでも、隠しておくつもりはない。もう少しだけ、時間をくれ。お前たちを巻き込む前に、俺の側で、確かめておきたいことがある」
その言葉には、これまでにない、深い緊張が滲んでいた。あたしは、それ以上、問い詰めることはしなかった。師匠が、こうして、少しずつ、心を開いてくれている。その事実だけで、今は、十分だった。
「分かりました。焦らず、待ちます」
「すまんな」
「謝らないでください。あたしたちは、もう、家族みたいなものなんですから」
その一言に、アーガスは、少し驚いたように、あたしを見た。それから、静かに、目を細めた。
「そうだな。お前の言う通りだ」
満天の星の下、あたしたちは、しばらくの間、言葉を交わさず、ただ、並んで立っていた。それだけで、十分に、通じ合えるものがあった。冷たい夜風が、頬を撫でていく感触さえも、今のあたしには、心地よく感じられた。
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