(87)あの日の全貌
翌朝、あたしたちは、簡単な朝食を済ませると、再び囲炉裏を囲んで、腰を下ろした。アーガスは、昨夜よりも、幾分、顔色が良くなっているように見えた。
「昨日の続きだ。心の準備は、いいか」
「はい」
あたしの返事に、アーガスは、静かに頷き、再び語り始めた。
「村人たちが、街道へとなだれ込んだ後、状況は、さらに悪化した。街道は、狭く、両脇を切り立った崖に挟まれている。逃げ場のない、袋小路のような地形だ。そこに、パニックに陥った群衆が、押し合いへし合いしながら、押し寄せた」
その光景を想像するだけで、あたしの胸に、鈍い痛みが走った。
「部隊は、追撃の手を緩めなかった。むしろ、レオンは、逃げ惑う村人たちを、東方の間者と結託した反乱分子と見なし、追撃を強めるよう、命令を下した」
「そんな……理不尽な」
トトが、震える声で呟いた。
「俺は、その頃、必死に、一人でも多くの村人を、街道の先へと導こうとしていた。だが、俺一人の力では、限界があった。群衆は、方向感覚を失い、あちこちで、将棋倒しのような混乱が起きていた」
アーガスの声が、わずかに掠れた。
「その時――お前が、叫んだ」
その一言に、あたしの記憶の奥で、何かが、大きく揺れた。
「『逃げろ』お前は、ただ、その一言を、力の限り叫んだ。それだけだった。だが、その声は、あの混乱の中で、不思議なほど、はっきりと、街道全体に響き渡った」
アーガスは、当時を思い出すように、目を細めた。
「群衆は、まるで、その声に導かれるように、一斉に、正しい方向へと動き始めた。俺は、その瞬間を、はっきりと見ていた。お前の声には、何か、普通ではない力が、宿っていた」
「それが……チキン流の、最初の発動……」
「そうだ。お前自身は、覚えていないだろうが、あの瞬間、お前の足元から、街道の先まで、まるで、道が開けるように、群衆の流れが変わった。あれがなければ、犠牲者の数は、今の比ではなかっただろう」
その事実に、あたしは、言葉を失った。あの日の記憶は、今でも、断片的にしか残っていない。それでも、自分の叫びが、多くの命を救ったのだと知り、胸の奥に、複雑な感情が渦巻いた。
「それでも、全員を、救えたわけじゃなかった」
アーガスの声が、一段と低くなった。
「街道の入り口付近にいた者たちの一部は、追撃の第一波に巻き込まれた。ヴァレナ、お前の家族が、その中にいた」
その名指しに、ヴァレナの体が、びくりと震えた。あたしは、思わず、彼女の手を握った。
「詳しい状況を、聞いてもいいですか」
ヴァレナが、震える声で、しかし、はっきりと尋ねた。アーガスは、彼女の目を、まっすぐに見つめながら、静かに頷いた。
「もちろんだ。お前には、知る権利がある」
小屋の中に、重い沈黙が満ちた。あたしたちは皆、これから語られるだろう、五年前の真実に、静かに耳を傾ける覚悟を、それぞれの胸の中で、固めていた。
「お前の両親は、街道の入り口近くで、隣人たちと共に、群衆の最後尾にいた。年老いた者や、幼い子供たちを、先に行かせようとしていたと聞いている」
アーガスの言葉に、ヴァレナは、じっと耳を傾けていた。
「追撃の部隊が、崖の上から、矢を射かけてきた。無差別に、逃げる者たちへ向けて。お前の両親は、隣家の幼い子供を庇って、その矢を、受けた」
「……子供を、庇って」
ヴァレナの声が、かすかに震えた。
「その子供は、無事だった。今も、隣町で、元気に暮らしていると聞いている。お前の両親の行動が、その命を救った」
その事実に、ヴァレナは、しばらくの間、言葉を発せなかった。目に、涙が滲んでいく。
「ずっと、意味もなく、死んだんだと思ってました。ただ、運が悪かっただけだって」
「違う。お前の両親は、最後まで、誰かのために、動いていた。それだけは、はっきりと、伝えておきたかった」
アーガスの言葉に、ヴァレナは、堪えきれず、静かに涙をこぼした。あたしは、そっと、彼女の背中に、手を添えた。
「あたしの『逃げろ』が、もっと早かったら……」
「その考えは、捨てろ、リク」
アーガスが、あたしの言葉を遮るように、強く言った。
「お前は、あの瞬間、できる限りのことをした。それ以上でも、それ以下でもない。もし、お前の声が、なければ、犠牲者の数は、もっと増えていた。それだけは、揺るがない事実だ」
その言葉に、あたしは、俯いたまま、小さく頷いた。長年、心のどこかで、燻り続けていた自責の念が、少しだけ、軽くなっていくのを感じた。
「俺自身も、あの日から、ずっと考え続けてきた。もっと早く、動いていれば。もっと、多くを、救えたのではないかと。その問いに、明確な答えは、今も出ていない」
アーガスの告白に、小屋の中の空気が、静かに沈んだ。ヴァレナが、涙を拭いながら、顔を上げた。
「アーガスさん、ありがとうございます。ちゃんと、話してくれて」
「礼を言われることじゃない。お前たちには、真実を知る権利があった。それを、五年も、伝えずにいたことこそ、俺の怠慢だった」
セシルが、静かに口を開いた。
「これで、あの日の全貌は、ほぼ明らかになったと思う。でも、まだ一つ、分からないことがあります」
「何だ」
「この半年、アーガスさんが、どこで、何をしていたのか。それは、今の話と、繋がりがあるんですか」
セシルの問いに、アーガスの表情が、わずかに硬くなった。
しばらくの沈黙の後、アーガスは、静かに息を吐いた。
「関係は、ある。だが、今すぐには、話せない。もう少し、こちらでも、確かめておきたいことがある」
「アーガスさんらしくない、そんな曖昧な言い方」
あたしが思わず口にすると、アーガスは、苦笑した。
「すまんな。だが、これは、俺一人の問題じゃない。もう少し、時間をくれ」
その言葉には、有無を言わさない重みがあった。あたしは、それ以上、問い詰めることができなかった。ヴァレナも、セシルも、トトも、それぞれの表情で、静かに頷いた。
「分かりました。急かしません。でも、いつか、必ず、話してくださいね」
「ああ、約束する」
アーガスの短い言葉に、あたしは、小さく微笑んだ。まだ、全てが明らかになったわけではない。それでも、あの日の真実の多くが、ようやく、光の下に晒された。あたしは、窓の外に広がる、澄んだ山の空を、しばらくの間、静かに見つめていた。
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