(86)敗走の夜、その前
「五年前、ハルナは、王都と、東方の辺境領との、境界線上にあった。表向きは平穏な村だったが、実際には、両陣営の思惑が、複雑に絡み合う土地だった」
アーガスは、囲炉裏の炎を見つめたまま、淡々と語り始めた。
「東方の辺境領が、独自の交易路を広げようとしていた。王都は、それを、自分たちの権益への挑戦と見なした。両者の緊張は、水面下で、じわじわと高まっていった。そして、あの年、ついに、小競り合いが起きた」
「小競り合い……それが、ハルナ街道の敗走に、繋がるんですか」
「ああ。王都は、東方の動きを牽制するために、ハルナ街道沿いに、部隊を進軍させることを決めた。表向きは、治安維持のための巡回。だが、実際の狙いは、東方への示威行動だった」
セシルが、静かに手帳を開き、アーガスの言葉を、丁寧に書き留め始めた。
「その進軍の指揮を執っていたのが、当時の軍務長官の甥、レオン・カステルという男だった。若く、功を焦っていた。彼は、東方との緊張が高まる中、より積極的な進軍を、上層部に進言した」
「積極的な進軍、って」
「街道沿いの村々を、実質的な軍事拠点として、再編する計画だ。住民の意向など、まるで考慮されていなかった。ハルナも、その対象の一つだった」
アーガスの声に、抑えた怒りが滲んだ。
「村の者たちは、当然、反発した。だが、レオンは、それを、東方に通じる不穏分子の動きと決めつけた。そして、進軍中の部隊に、ハルナ周辺の掃討を命じた」
「掃討……」
あたしの声が、思わず震えた。それは、あたしが記憶している、あの日の混乱と、確かに繋がっていた。
「命令を受けた部隊は、決して大きくはなかった。だが、統率は取れていた。まっすぐに、村へと向かってきた。その時、村にいたのは、非戦闘員がほとんどだった。武器を持つ者など、片手で数えるほどしかいなかった」
トトが、青ざめた顔で、拳を握りしめていた。ヴァレナも、唇を固く結び、じっとアーガスの言葉に耳を傾けている。あたしは、五年前のあの日の記憶を、必死に手繰り寄せようとしていた。土煙、怒声、逃げ惑う人々の足音――断片的な映像が、脳裏に、次々と浮かんでは消えていった。
「俺は、当時、たまたま、村に滞在していた。お前に、積術の口伝を授けている、その最中だった」
その一言に、あたしの心臓が、大きく跳ねた。
「稽古の、真っ最中だった、ってことですか」
「そうだ。お前は、まだ、何も知らなかった。ただ、俺の話を、真剣に聞いていた。そんな時に、村の外から、悲鳴が聞こえてきた」
アーガスは、そこで、一度、言葉を切った。長い沈黙の後、彼は、静かに続けた。
「あれが、全ての始まりだった」
その言葉の重みに、小屋の中の空気が、一段と張り詰めた。あたしは、拳を握りしめ、続きを待った。あの日、何が起きたのか。師匠の口から語られる真実に、あたしは、まだ、覚悟を決めきれずにいた。
「悲鳴を聞いた瞬間、俺は、稽古を中断して、村の外れへと駆け出した。お前も、俺の後を、必死に追いかけてきた。止めても、聞かなかった」
「覚えてます。あの時、アーガスさんの背中を、見失わないようにするので、精一杯でした」
「村の外れに着くと、既に、部隊の先鋒が、村の入り口まで迫っていた。武装した兵士たちが、整然と隊列を組んで、こちらへ向かってくる光景は、今でも、鮮明に覚えている」
アーガスの声が、わずかに低くなった。
「村長――当時のハルナの長は、必死に、部隊の指揮官と交渉しようとした。だが、レオンは、聞く耳を持たなかった。彼にとって、村人の命よりも、上層部への戦果報告の方が、はるかに重要だったのだろう」
「そんな理由で……」
ヴァレナが、震える声で呟いた。彼女の家族も、あの日、街道にいた。その事実が、あたしの胸に、重くのしかかった。
「交渉が決裂した瞬間、部隊は、村への進軍を開始した。逃げ遅れた者たちが、次々と、街道へと押し出されていった。俺は、その時、選択を迫られた。目の前で起きている理不尽に、力ずくで介入するか。それとも、一人でも多く、逃がすことに徹するか」
「アーガスさんは、どっちを選んだんですか」
あたしの問いに、アーガスは、静かに、しかし、はっきりと答えた。
「後者だ。俺一人の力で、部隊全体を止めることはできない。それなら、一人でも多く、生きて街道を渡らせる方が、正しいと判断した」
その判断の重さに、あたしは、言葉を失った。師匠が、あの日、どれほどの葛藤を抱えながら、決断を下したのか。今になって、ようやく、その一端が、少しずつ見えてきていた。
「だが、その判断だけでは、間に合わなかった。村人たちは、パニックに陥り、統率もなく、街道へとなだれ込んだ。そこに、更なる悲劇が待っていた」
アーガスは、そこで、深く息を吐いた。
「街道の先――お前たちが、後に『敗走』と呼ぶことになる、あの場所で、何が起きたのか。それを話す前に、少し、休ませてくれ」
その言葉に、あたしは、はっと我に返った。アーガスの顔には、隠しきれない疲労の色が、濃く滲んでいた。半年間の不在の理由も、まだ、明らかになっていない。それでも、この続きを聞くには、もう少し、時間が必要なのかもしれなかった。
「はい……今日は、もう、休みましょう」
あたしがそう言うと、アーガスは、小さく頷いた。窓の外では、山の夜が、いつの間にか、すっかり深まっていた。
セシルが、静かに手帳を閉じ、囲炉裏の炎を見つめた。
「今日聞いた話だけでも、これまでの記録とは、随分違う。少なくとも、あの日の混乱は、村人たちの落ち度じゃなかった」
「うん。むしろ、被害者側だったんだよね、あたしたちは」
「そう。それを、はっきりさせられただけでも、大きな収穫だと思う」
セシルの言葉に、あたしは、静かに頷いた。ヴァレナは、囲炉裏の炎を見つめたまま、何も言わなかった。その横顔には、複雑な感情が、幾重にも重なっているように見えた。あたしは、そっと、ヴァレナの肩に、手を置いた。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫。ただ、家族のこと、色々考えちゃって」
「無理しないで。続きは、また明日、一緒に聞こう」
「うん、そうする」
アーガスが、囲炉裏の火を、そっと落としながら、静かに立ち上がった。
「今夜は、狭いが、ここに雑魚寝してくれ。布団は、そう多くないが、なんとかなるだろう」
「ありがとうございます」
小屋の隅に、めいめい寝床を整えながら、あたしは、今日聞いた話を、頭の中で、何度も反芻していた。まだ、全てが明らかになったわけではない。それでも、確かに、真実へと近づいている実感が、あたしの中にあった。
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