(85)再会
戸の向こうから、足音が聞こえた。重く、少し引きずるような、聞き覚えのある足音。あたしの喉が、ごくりと鳴った。
軋んだ音を立てて、戸が開いた。
そこに立っていたのは、記憶よりも、確かに一回り、痩せた男だった。白髪交じりの髪は、少し伸びて、無精髭が、頬から顎にかけて、まばらに広がっている。それでも、あたしを見つめる、あの鋭い眼光だけは、少しも変わっていなかった。
「アーガスさん」
あたしの声は、自分でも驚くほど、震えていた。
「……リクか」
アーガスは、しばらくの間、あたしの顔を、じっと見つめていた。それから、ふっと、目元を緩めた。
「大きくなったな」
「もう、いい大人ですよ。子供扱いしないでください」
あたしがそう言い返すと、アーガスは、珍しく、小さく笑った。
「言うようになった」
その一言だけで、あたしの目に、涙が滲みそうになった。堪えるように、あたしは、大きく息を吸い込んだ。
「入れ。積もる話が、山ほどあるだろう」
アーガスは、そう言うと、あたしたちを、小屋の中へと招き入れた。ヴァレナも、セシルも、トトも、緊張した面持ちで、後に続いた。
小屋の中は、あの日と変わらず、きちんと片付けられていた。囲炉裏には、既に火が入れられていて、鍋の中で、何かが煮えている、優しい匂いが漂っていた。
「座れ。粗末なものしかないが、腹は減ってるだろう」
アーガスは、無骨な手つきで、鍋から椀に、スープをよそっていった。あたしたちは、囲炉裏を囲むように、腰を下ろした。
「アーガスさん、この半年、どこにいたんですか」
あたしが単刀直入に尋ねると、アーガスの手が、一瞬、止まった。
「……色々と、事情があってな」
「事情って」
「今、話すことじゃない。まずは、飯を食え。話は、それからだ」
アーガスの声には、有無を言わさない響きがあった。あたしは、それ以上問い詰めることができず、渡された椀を、黙って受け取った。
スープを一口飲むと、懐かしい味が、口の中に広がった。野菜と干し肉を、じっくり煮込んだだけの、素朴な味。それでも、あたしにとっては、何よりのご馳走だった。
「美味しい……」
思わず呟くと、アーガスは、少しだけ、嬉しそうな顔をした。
「昔から、変わらんレシピだ」
「覚えてます。稽古で疲れた後、いつもこれを作ってくれましたよね」
「よく覚えてるな」
「忘れるわけないです」
食事をしながら、ヴァレナが、遠慮がちに口を開いた。
「アーガスさん、初めまして。ヴァレナ・トールと言います。リクの、旅の仲間です」
「話は聞いている。リクを、よろしく頼む」
アーガスの短い言葉に、ヴァレナは、少し驚いたように目を見開いてから、微笑んだ。
「はい、任せてください」
セシルと、トトも、それぞれ自己紹介をした。アーガスは、一人一人の顔を、確かめるように、じっと見つめていた。
「良い仲間を持ったな、リク」
その一言に、あたしの胸が、じんわりと温かくなった。食事を終える頃には、小屋の中の空気も、少しずつ、和んでいった。それでも、あたしの心の奥には、まだ聞けていない問いが、静かに、燻り続けていた。アーガスが、この半年、何に悩んでいたのか。その答えは、まだ、見えていなかった。
椀を片付けながら、トトが、興味津々な様子で、小屋の中を見回していた。
「アーガスさんって、リクさんに、どんな稽古をつけてたんですか」
「聞かない方がいいよ、トト。想像を絶するから」
あたしが顔をしかめて言うと、アーガスは、口の端を、わずかに持ち上げた。
「大袈裟に言うな。基礎を、徹底しただけだ」
「毎朝、日の出前に叩き起こされて、山道を十往復。おまけに、素振り千回。基礎の範囲、超えてます」
「体が資本だ。基礎が甘い者は、いざという時に、必ず足元をすくわれる」
「その教え自体は、感謝してますけど……方法が、スパルタすぎたと思います」
あたしがぼやくと、ヴァレナが、堪えきれずに、噴き出した。
「想像つく。リク、たまに寝言で、素振りの数、数えてるもん」
「え、うそ、そんなことあるの?」
「あるある。この前の野営でも、寝ながら『にひゃくさん、にひゃくよん』って呟いてた」
トトとセシルが、顔を見合わせて、笑い始めた。あたしは、恥ずかしさに、思わず顔を覆った。
「アーガスさんのせいですからね、これ」
「悪い教えではなかった、ということだろう」
アーガスは、しれっとした顔で言い返した。その飄々とした態度は、記憶にあるままで、あたしは、なんだか、少しだけ、泣きそうになった。
窓の外では、日が傾き始め、山の陰が、小屋の中まで、静かに伸びてきていた。囲炉裏の炎が、赤々と、部屋の中を照らしている。アーガスは、その炎を、しばらくの間、じっと見つめていた。表情の奥に、何か、深い翳りが差しているように見えた。
「アーガスさん」
あたしが、静かに呼びかけると、アーガスは、視線を、あたしへと戻した。
「話してください。この半年、何があったのか」
その問いに、アーガスは、しばらくの間、沈黙していた。囲炉裏の薪が、ぱちりと爆ぜる音だけが、小屋の中に響いていた。
「……分かった」
やがて、アーガスは、静かに口を開いた。
「長い話になる。それに、あまり、楽しい話でもない。それでも、聞くか」
「はい。聞かせてください」
あたしの答えに、迷いはなかった。アーガスは、あたしの目を、まっすぐに見つめ返してから、小さく頷いた。
ヴァレナが、セシルと、トトに、目配せをした。三人は、それぞれ、囲炉裏の周りに、静かに座り直した。誰も、口を挟もうとはしなかった。この場の空気が、それを許さないと、皆、分かっているようだった。
窓の外は、いつの間にか、すっかり夜の帳が下りていた。囲炉裏の炎だけが、小屋の中を、ぼんやりと照らしている。パチ、パチ、と薪の爆ぜる音が、静寂の中に、規則正しく響いていた。
アーガスは、しばらくの間、その炎を見つめたまま、動かなかった。長い沈黙の後、ようやく、低い声で、言葉を紡ぎ始めた。
「話は、五年前まで遡る。お前が、まだこの村の、ただの小娘だった頃だ」
その言葉に、あたしは、思わず、身を乗り出した。五年前――それは、あたしにとっても、忘れられない年だった。ハルナ街道の敗走。あの日を境に、あたしの人生は、大きく変わった。
「あの日、何があったのか、あたしにも、断片的にしか、覚えてないんです」
「無理もない。極限状態での記憶というのは、そういうものだ。だが、俺は、あの日の一部始終を、今でも、はっきりと覚えている」
アーガスの声には、重い覚悟が滲んでいた。あたしは、息を呑んで、続きを待った。師匠が、これから語ろうとしている物語の先に、何が待っているのか。まだ、あたしには、想像もつかなかった。
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