(84)知らせ
翌朝、あたしたちは、館の食堂で、遅めの朝食をとっていた。焼きたてのパンと、湯気の立つスープ。旅の道中では、なかなか味わえない贅沢な食卓だった。
「こんな豪華な朝ごはん、いつぶりだろ」
ヴァレナが、スープを口に運びながら、しみじみと呟いた。
「二週間くらい、干し肉と硬いパンばっかりでしたもんね」
トトが、パンをちぎりながら、しみじみと頷いた。
セシルは、手帳を片手に、朝食もそこそこに、何やら計算をしていた。
「セシル、朝から何してるの」
「バロン様の話を、整理してる。賞金首指名が半年遅れたという事実は、当時の記録と、突き合わせておいた方がいい」
「相変わらず、几帳面だね」
あたしが苦笑すると、セシルは、真面目な顔で手帳を閉じた。
「几帳面じゃなくて、慎重なだけ。バロン様の話は信じてるけど、記憶違いってものは、誰にでもあるから」
そこへ、食堂の扉が開き、バロンの従者が、慌ただしく入ってきた。
「バロン様、火急の知らせでございます」
バロンが眉をひそめ、従者に近づくよう促した。従者は、少し息を切らしながら、報告した。
「オズワルド村長のもとから、使いが参りました。アーガス様が、昨夜遅く、山小屋に戻られたとのことです」
その一言に、あたしの心臓が、大きく跳ねた。手にしていたスプーンを、思わず皿の上に取り落としてしまう。
「アーガスさんが……戻ってきた……?」
「はい。村長は、直接お会いになり、無事を確認されたそうです。ただ――」
従者は、少し言葉を濁した。
「ただ、何」
あたしが問い詰めるように尋ねると、従者は、バロンの顔色をうかがいながら、続けた。
「アーガス様は、ひどく、お疲れのご様子だったと。それと、村長には、少し立ち入った話をなさったそうですが、詳細は、リク様に直接伝えたいとのことでした」
その言葉に、あたしの胸の奥で、不安と期待が、複雑に絡み合った。ヴァレナが、あたしの肩に、軽く手を置いた。
「行こう。今すぐ」
「うん」
あたしは、椅子から立ち上がった。トトも、セシルも、既に旅装を整え始めていた。
「バロン様、朝食の途中で失礼します。すぐに、山小屋へ向かいたいんです」
あたしが頭を下げると、バロンは、静かに頷いた。
「行ってやれ。馬を用意させよう。半刻もあれば、麓まで着けるはずだ」
「ありがとうございます」
「アーガス殿が、何を語るにせよ――お前は、それを、受け止められる強さを持っている。わしには、それが分かる」
バロンの言葉に、あたしは、一瞬、言葉を失った。それから、深く頷いた。
「はい」
馬を用意してもらい、あたしたちは、急いで山道へと向かった。風を切って進む馬上で、あたしの頭の中は、これから聞くことになるだろう話への、期待と恐れが、めまぐるしく渦巻いていた。師匠が、この半年、何を抱えていたのか。何を、あたしに伝えようとしているのか。
「大丈夫、リク?」
隣の馬から、ヴァレナが声をかけてきた。
「うん。でも、少し、緊張してる」
「珍しいね、あんたがそんな顔するの」
「自分でも、分かってる。柄にもないってことくらい」
「だって……アーガスさんが、あんな風に言葉を濁すの、初めてだから」
山道を駆け上がる蹄の音が、あたしの鼓動と重なって、耳の奥に響いていた。
麓の村に着くと、オズワルド村長が、既に外で待っていてくれた。
「よく来た。アーガス殿は、小屋で待っておられる」
「村長さん、アーガスさんの様子、詳しく聞かせてもらえますか」
あたしが馬から降りて尋ねると、オズワルドは、少し表情を曇らせた。
「儂が話せるのは、ここまでだ。あの人は、儂にも、多くを語らなかった。ただ――」
村長は、言葉を選ぶように、間を置いた。
「ただ、何ですか」
「随分と、痩せておられた。半年前とは、まるで別人のようにな。心当たりがあるとすれば、何かに、ずっと悩まされ続けていた、ということくらいだ」
その言葉に、あたしの不安は、さらに膨らんだ。
「案内、頼めますか」
「ああ。だが、儂はここまでだ。この先は、お前さん方だけで行くべきだと、あの人は言っていた」
オズワルドの言葉に、あたしは頷き、細い山道へと足を踏み出した。トトが、心配そうに、あたしの顔を覗き込んだ。
「リクさん、大丈夫ですか。顔色、あまり良くないです」
「大丈夫。ちょっと、緊張してるだけ」
「無理しないでくださいね。僕たちも、ずっと一緒にいますから」
トトの気遣いに、あたしは、小さく微笑んだ。
「ありがとう、トト」
セシルが、手帳をしまいながら、静かに口を開いた。
「アーガスさんが何を話すにしても、リクは一人じゃない。それだけは、忘れないで」
「うん」
ヴァレナが、あたしの隣に並んで歩きながら、ぽつりと呟いた。
「昨日、あんたに言ったこと、覚えてる?あの頑固じいさんが、そう簡単にどうにかなるとは思えないって」
「うん、覚えてる」
「今も、その気持ちは変わらない。だから、深呼吸して」
ヴァレナの言葉に従って、あたしは、大きく息を吸い込んだ。冷たい山の空気が、肺の奥まで、すっと満ちていく。少しだけ、頭の芯が冷静さを取り戻していくのが分かった。
やがて、木々の合間から、見覚えのある小屋の輪郭が見えてきた。煙突からは、昨日と同じように、細い煙が上がっている。ただ、今日はその煙の向こうに、確かに人の気配があった。
「いる」
あたしは、思わず呟いた。心臓が、また大きく高鳴り始める。小屋の戸の前に立つと、あたしは、一度だけ、深く息を吐いた。振り返ると、ヴァレナも、セシルも、トトも、それぞれの表情で、あたしを見守っていた。誰も、急かそうとはしなかった。その静かな時間が、かえって、あたしの覚悟を固めてくれた。
思えば、この小屋の前に立つのは、旅立ちの朝以来だった。あの日も、こうして、緊張しながら戸を叩いた記憶がある。あの時は、これから始まる旅への期待で、胸がいっぱいだった。今は、少し違う種類の緊張が、あたしの胸を締め付けている。それでも、根っこにあるものは、同じだった。師匠に、ちゃんと向き合いたいという気持ち。
小屋の裏手にある井戸から、水を汲む音が、かすかに聞こえてくる。誰かが、確かに、そこにいる。その気配だけで、胸の奥が、じんわりと熱くなった。あたしは、もう一度、深呼吸をした。それから、拳を握り、戸を叩いた。乾いた木の音が、静かな山の空気に、小さく響いた。
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