(80)山小屋への道
牧草地を後にして、あたしたちは、山の中腹にあるアーガスの小屋へと向かった。細い山道は、記憶にあるよりも、少し荒れていた。木の根が、あちこちで、地面から浮き上がっている。
道の脇には、見覚えのある岩や、変わった形の木が、いくつも並んでいた。あたしにとっては、どれも、幼い頃からの見慣れた目印だった。
「気をつけてください、この辺り、足元が悪いです」
先頭を歩くヴァレナが、後ろに向かって声をかけた。あたしたちは、慎重に、足元を確かめながら、山道を登っていった。木々の合間から差し込む陽光が、揺れる木漏れ日となって、山道を柔らかく照らしていた。風に揺れる木の葉の音が、山全体を、静かに包み込んでいるようだった。時折、鳥の羽ばたく音が、遠くから聞こえてくる。
「この道、何度も通ったんですか」
トトが、息を切らしながら尋ねた。
「うん、数えきれないくらい。稽古のたびに、この道を、何往復もさせられた」
「稽古で、この山道を?」
「うん。荷物を担いで、往復十回とか、平気で言われてた。今思うと、結構な鬼稽古だったよね」
「よく、逃げ出さなかったですね」
「何度か、本気で逃げ出そうとしたけどね。我ながら、根性だけはあったと思う」
「想像するだけで、辛そうです」
セシルが、苦笑しながら言った。
「アーガスさんって、一人で住んでるんですか」
トトが、興味深そうに尋ねた。
「うん。昔から、一人が好きな人だから」
「寂しくないんですかね」
「さあ。あの人の考えてることは、あたしにも、よく分からない」
山道を登り続けると、やがて、見覚えのある木造の小屋が見えてきた。煙突からは、細い煙が上がっている。
「良かった、いるみたい」
あたしがほっとして呟くと、セシルが、少し首を傾げた。
「煙は上がってるけど、人の気配が、あまりしないね」
「言われてみれば、そうかも」
トトも、辺りの静けさに気づいたように、耳を澄ませた。鳥の声すら、いつもより控えめに聞こえる。
セシルの言葉に、あたしの胸が、また不安に締め付けられた。小屋の戸を叩いても、返事はなかった。
「アーガスさん、あたしです。リクです」
もう一度声をかけても、やはり反応はない。あたしは、意を決して、戸を開けた。
軋んだ木の戸の向こうから、記憶にある、乾いた薬草の匂いが、あたしの鼻をくすぐった。何年経っても、変わらない匂い。それだけで、少しだけ、心が落ち着いた。
「お邪魔します」
トトが、律儀に声をかけながら、小屋の中に足を踏み入れた。小屋の中は、きちんと片付けられていた。囲炉裏には、燃え尽きかけの薪が、赤く燻っている。誰かが、少し前まで、確かにここにいた気配があった。
「これ」
セシルが、机の上に置かれた一枚の紙を手に取った。そこには、癖のある文字で、短い言葉が書かれていた。
「『しばらく留守にする。急ぎの用があれば、村長のもとへ』」
「留守、って」
「どこに行ったんだろう」
トトが、不安そうに呟いた。あたしは、その紙を見つめながら、なんとも言えない胸騒ぎを覚えていた。
小屋の中を、あたしは、改めて見渡した。壁に立てかけられた古い杖、棚に並んだ薬草の瓶、隅に置かれた見覚えのある木刀。何もかもが、記憶のままの場所に、記憶のままの姿で残っている。
「あの杖」
あたしは、壁に立てかけられた、年季の入った杖を指さした。
「アーガスさんが、いつも持ち歩いてたやつだ」
「持って行かなかったんですね」
「うん。だから、遠出じゃなくて、近くに出かけてるだけなのかもしれない」
その推測に、あたしは、少しだけほっとした。それでも、胸の奥のざわつきは、完全には消えてくれなかった。
セシルが、小屋の中を、丁寧に見て回った。
「他に、手がかりになりそうなものは、なさそうだね」
「うん」
「この手紙、村長さん宛にも、同じような書き置きが残ってるかもしれない。行ってみる価値はあると思う」
セシルの提案に、あたしは、頷いた。
ヴァレナは、小屋の隅に置かれた、古い木刀を、じっと見つめていた。
「これ、あんたが稽古で使ってたやつ?」
「うん。アーガスさんが、あたし用に、作ってくれたもの」
「大事にされてたんだね」
ヴァレナの言葉に、あたしは、小さく頷いた。木刀の柄には、何年も握られ続けた跡が、くっきりと残っている。それを見ているだけで、胸の奥が、じんわりと温かくなった。この小屋の何もかもが、あたしとアーガスの、積み重ねてきた年月を物語っていた。
「村長さんのところに、行ってみよう」
あたしがそう提案すると、みんなは、無言で頷いた。
山を下りる道すがら、あたしは、久しぶりに会えると思っていた師匠の不在に、密かに肩を落としていた。楽しみにしていた分だけ、拍子抜けの寂しさが、じわじわと胸に染みてくる。
「大丈夫だよ」
ヴァレナが、あたしの背中を、軽く叩いた。
「あの頑固じいさんが、そう簡単にどうにかなるとは思えない」
ヴァレナの言葉には、確かな説得力があった。あたしも、その言葉に、少しだけ頷きたい気持ちになった。振り返ると、木々の隙間から、小屋の煙突がまだ小さく見えていた。細い煙は、変わらず立ち上り続けている。誰かがまた戻ってくることを、静かに待っているようだった。
「うん、そうだよね」
そう返事をしながらも、あたしの胸の中には、拭いきれない不安が、小さく渦巻いていた。かつて全力放出をしたという、あの人の過去。その代償が、今になって、何か影響しているのではないか――そんな考えが、頭をよぎってしまう。
「リクさん」
トトが、あたしの隣に並んで、静かに声をかけてきた。
「アーガスさんは、きっと、無事です。だって、あの杖も、大事な道具も、全部、小屋に残したままだったから」
「うん、そうだね」
「僕も、行方が分からなくて不安になったこと、あります。だから、その気持ち、少しだけ分かる気がします」
トトの言葉に、あたしは、少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
「ありがとう、トト」
「いえ。僕も、リクさんに、たくさん助けてもらったので」
セシルも、隣で、静かに頷いた。
「大丈夫だよ。村長さんなら、きっと、何か知ってるはず」
その言葉に、あたしは、頷いた。仲間たちの支えを感じながら、あたしたちは、山道を、足早に下りていった。夕暮れの光が、木々の間から、斜めに差し込んでいた。
「早く、村長さんのところに行こう」
あたしは、逸る気持ちを抑えながら、足を速めた。
最後までありがとうございました!
楽しんでいただけたら、評価やブックマークを入れてもらえるととても嬉しいです。
反応があると更新速度が上がります(重要)
それでは次回の更新をお楽しみに!




