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チキンナイフと呼ばれた少女 ~逃げて逃れて世界最強~  作者: 荒瀬 維人
9章 彼方へ続く道

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(80)山小屋への道

牧草地を後にして、あたしたちは、山の中腹にあるアーガスの小屋へと向かった。細い山道は、記憶にあるよりも、少し荒れていた。木の根が、あちこちで、地面から浮き上がっている。


道の脇には、見覚えのある岩や、変わった形の木が、いくつも並んでいた。あたしにとっては、どれも、幼い頃からの見慣れた目印だった。


「気をつけてください、この辺り、足元が悪いです」


先頭を歩くヴァレナが、後ろに向かって声をかけた。あたしたちは、慎重に、足元を確かめながら、山道を登っていった。木々の合間から差し込む陽光が、揺れる木漏れ日となって、山道を柔らかく照らしていた。風に揺れる木の葉の音が、山全体を、静かに包み込んでいるようだった。時折、鳥の羽ばたく音が、遠くから聞こえてくる。


「この道、何度も通ったんですか」


トトが、息を切らしながら尋ねた。


「うん、数えきれないくらい。稽古のたびに、この道を、何往復もさせられた」


「稽古で、この山道を?」


「うん。荷物を担いで、往復十回とか、平気で言われてた。今思うと、結構な鬼稽古だったよね」


「よく、逃げ出さなかったですね」


「何度か、本気で逃げ出そうとしたけどね。我ながら、根性だけはあったと思う」


「想像するだけで、辛そうです」


セシルが、苦笑しながら言った。


「アーガスさんって、一人で住んでるんですか」


トトが、興味深そうに尋ねた。


「うん。昔から、一人が好きな人だから」


「寂しくないんですかね」


「さあ。あの人の考えてることは、あたしにも、よく分からない」


山道を登り続けると、やがて、見覚えのある木造の小屋が見えてきた。煙突からは、細い煙が上がっている。


「良かった、いるみたい」


あたしがほっとして呟くと、セシルが、少し首を傾げた。


「煙は上がってるけど、人の気配が、あまりしないね」


「言われてみれば、そうかも」


トトも、辺りの静けさに気づいたように、耳を澄ませた。鳥の声すら、いつもより控えめに聞こえる。


セシルの言葉に、あたしの胸が、また不安に締め付けられた。小屋の戸を叩いても、返事はなかった。


「アーガスさん、あたしです。リクです」


もう一度声をかけても、やはり反応はない。あたしは、意を決して、戸を開けた。


軋んだ木の戸の向こうから、記憶にある、乾いた薬草の匂いが、あたしの鼻をくすぐった。何年経っても、変わらない匂い。それだけで、少しだけ、心が落ち着いた。


「お邪魔します」


トトが、律儀に声をかけながら、小屋の中に足を踏み入れた。小屋の中は、きちんと片付けられていた。囲炉裏には、燃え尽きかけの薪が、赤く燻っている。誰かが、少し前まで、確かにここにいた気配があった。


「これ」


セシルが、机の上に置かれた一枚の紙を手に取った。そこには、癖のある文字で、短い言葉が書かれていた。


「『しばらく留守にする。急ぎの用があれば、村長のもとへ』」


「留守、って」


「どこに行ったんだろう」


トトが、不安そうに呟いた。あたしは、その紙を見つめながら、なんとも言えない胸騒ぎを覚えていた。


小屋の中を、あたしは、改めて見渡した。壁に立てかけられた古い杖、棚に並んだ薬草の瓶、隅に置かれた見覚えのある木刀。何もかもが、記憶のままの場所に、記憶のままの姿で残っている。


「あの杖」


あたしは、壁に立てかけられた、年季の入った杖を指さした。


「アーガスさんが、いつも持ち歩いてたやつだ」


「持って行かなかったんですね」


「うん。だから、遠出じゃなくて、近くに出かけてるだけなのかもしれない」


その推測に、あたしは、少しだけほっとした。それでも、胸の奥のざわつきは、完全には消えてくれなかった。


セシルが、小屋の中を、丁寧に見て回った。


「他に、手がかりになりそうなものは、なさそうだね」


「うん」


「この手紙、村長さん宛にも、同じような書き置きが残ってるかもしれない。行ってみる価値はあると思う」


セシルの提案に、あたしは、頷いた。


ヴァレナは、小屋の隅に置かれた、古い木刀を、じっと見つめていた。


「これ、あんたが稽古で使ってたやつ?」


「うん。アーガスさんが、あたし用に、作ってくれたもの」


「大事にされてたんだね」


ヴァレナの言葉に、あたしは、小さく頷いた。木刀の柄には、何年も握られ続けた跡が、くっきりと残っている。それを見ているだけで、胸の奥が、じんわりと温かくなった。この小屋の何もかもが、あたしとアーガスの、積み重ねてきた年月を物語っていた。


「村長さんのところに、行ってみよう」


あたしがそう提案すると、みんなは、無言で頷いた。


山を下りる道すがら、あたしは、久しぶりに会えると思っていた師匠の不在に、密かに肩を落としていた。楽しみにしていた分だけ、拍子抜けの寂しさが、じわじわと胸に染みてくる。


「大丈夫だよ」


ヴァレナが、あたしの背中を、軽く叩いた。


「あの頑固じいさんが、そう簡単にどうにかなるとは思えない」


ヴァレナの言葉には、確かな説得力があった。あたしも、その言葉に、少しだけ頷きたい気持ちになった。振り返ると、木々の隙間から、小屋の煙突がまだ小さく見えていた。細い煙は、変わらず立ち上り続けている。誰かがまた戻ってくることを、静かに待っているようだった。


「うん、そうだよね」


そう返事をしながらも、あたしの胸の中には、拭いきれない不安が、小さく渦巻いていた。かつて全力放出をしたという、あの人の過去。その代償が、今になって、何か影響しているのではないか――そんな考えが、頭をよぎってしまう。


「リクさん」


トトが、あたしの隣に並んで、静かに声をかけてきた。


「アーガスさんは、きっと、無事です。だって、あの杖も、大事な道具も、全部、小屋に残したままだったから」


「うん、そうだね」


「僕も、行方が分からなくて不安になったこと、あります。だから、その気持ち、少しだけ分かる気がします」


トトの言葉に、あたしは、少しだけ、心が軽くなるのを感じた。


「ありがとう、トト」


「いえ。僕も、リクさんに、たくさん助けてもらったので」


セシルも、隣で、静かに頷いた。


「大丈夫だよ。村長さんなら、きっと、何か知ってるはず」


その言葉に、あたしは、頷いた。仲間たちの支えを感じながら、あたしたちは、山道を、足早に下りていった。夕暮れの光が、木々の間から、斜めに差し込んでいた。


「早く、村長さんのところに行こう」


あたしは、逸る気持ちを抑えながら、足を速めた。

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