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チキンナイフと呼ばれた少女 ~逃げて逃れて世界最強~  作者: 荒瀬 維人
9章 彼方へ続く道

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(79)牧草地の記憶

翌朝、あたしたちは、マーサの家を出て、アーガスの山小屋へと向かう前に、少しだけ、村の中を歩くことにした。朝露に濡れた草が、足元でしっとりと光っている。


「今日は、良い天気ですね」


トトが、澄み渡った空を見上げながら言った。


「うん。ハルナの朝は、いつもこんな感じ。空気が澄んでて、遠くの山まで、くっきり見える」


あたしは、深呼吸をしながら、答えた。故郷の空気は、旅先のどんな景色よりも、あたしの肺に、すっと馴染んでいくようだった。


「ここが、あたしの育った家」


あたしは、朽ちかけた小さな木造の家を指さした。今は誰も住んでおらず、庭には、雑草が生い茂っている。


「両親は、あたしが幼い頃に、流行り病で亡くなった。それから、村のみんなで、代わる代わる面倒を見てくれてたんだ」


「大変でしたね」


トトが、しんみりとした声で言った。


「うーん、正直、当時は、そんなに悲観してた記憶はないんだよね。村のみんなが、代わる代わる、あたしにご飯を食べさせてくれたし、寝床にも困らなかった。寂しさはあったけど、路頭に迷うようなことはなかった」


「それは、村のみんなが、優しかったからですよね」


セシルの言葉に、あたしは、深く頷いた。


「うん。今にして思えば、あたしは、ずっと、たくさんの人に支えられて育ってきたんだと思う。それなのに、五年前のあの日は、なぜか、全部、自分一人で背負おうとしてた」


「それで、逃げることが得意になったんですか」


トトの問いに、あたしは、苦笑した。


「どうだろう。でも、誰かに頼るってことに、昔から、あんまり慣れてなかったのは、確かかも」


「今は、頼るの、上手になったよ」


ヴァレナが、横から口を挟んだ。


「そう?」


「うん。前より、ずっと」


その言葉に、あたしは、少し嬉しくなった。旅を始めた頃のあたしなら、きっと、こんな軽口すら、素直に受け取れなかっただろう。少しずつでも、変われているのだと思うと、それだけで、胸の奥が温かくなった。


村を抜け、牧草地の丘を登っていくと、遠くに、街道の跡が見えた。今は使われていない、古い軍用道路の名残だった。雑草に半ば覆われたその道は、静かに、五年という歳月の重みを物語っていた。


「あそこが」


ヴァレナが、静かに呟いた。


「ハルナ街道の、敗走があった場所」


あたしは、その景色を見つめながら、五年前の記憶を、改めて呼び起こした。悲鳴、怒号、土煙。そして、自分の口から飛び出した、あの一言。


「逃げろ、って、叫んだんだ」


あたしは、静かに語り始めた。


「軍の一隊が、壊滅寸前だった。誰も、逃げる決断ができなかった。あたしは、怖くて、ただ、逃げたかっただけなのに、気づいたら、みんなに向かって叫んでた」


「その言葉に、救われた人が、大勢いた」


ヴァレナが、静かに続けた。


「あたしも、その一人」


その言葉に、あたしは、ヴァレナの顔を見た。彼女の表情には、悲しみと、それでもなお残る、確かな感謝の色が浮かんでいた。


セシルとトトは、少し離れた場所で、静かに、街道の跡を見つめていた。トトが、小さな声で、セシルに何かを尋ねている。セシルは、頷きながら、丁寧に答えていた。二人なりに、この場の空気を大切にしてくれているのが、あたしにも伝わってきた。


遠くの草原を渡る風の音だけが、静かに、あたりを満たしていた。


「あの日のこと、あんたは、どこまで覚えてる?」


ヴァレナが、静かに尋ねた。


「正直、断片的にしか覚えてない。土煙と、悲鳴と、誰かが倒れる音。それから、自分が、無我夢中で叫んでたことくらい」


「あたしは、はっきり覚えてる」


ヴァレナは、遠くを見つめながら、続けた。


「あんたの声が、戦場の音を、一瞬だけ切り裂いたこと。あの瞬間だけは、今でも、鮮明に思い出せる」


「そんなに、格好良かった?」


あたしが、少し茶化すように尋ねると、ヴァレナは、ふっと笑った。


「格好良かったよ。だから、あたしは、あんたについていくことにしたんだと思う」


「ごめん」


あたしが、思わず謝ると、ヴァレナは、首を横に振った。


「謝らないで。あんたのおかげで、あたしは、今、ここにいる。それだけは、確かなことだから」


「でも」


「でも、あたしの家族は、あの場所に留まって、死んだ。それも、確かなこと」


ヴァレナの声には、震えが混じっていた。あたしは、何も言えず、ただ、彼女の隣に立ち尽くした。


「あたしね」


ヴァレナが、続けた。


「ずっと、あんたを恨んでいいのか、感謝していいのか、分からなかった。今も、正直、分からないところがある」


「うん」


「でも、この五年、あんたと一緒に旅をしてきて、少しずつ分かってきたことがある。あんたは、あの日、選べる中で、一番、みんなを生かせる選択をした。それだけは、確かなんだって」


セシルとトトは、少し離れた場所で、静かに、あたしたちを見守っていた。


「ここに来られて、良かった」


あたしが呟くと、ヴァレナは、小さく頷いた。


「うん。あたしも」


セシルとトトが、こちらに戻ってきた。


「大丈夫ですか、二人とも」


トトが、心配そうに尋ねた。


「うん、大丈夫。むしろ、少し、すっきりした」


あたしがそう答えると、ヴァレナも、同意するように頷いた。


「積年の霧が、少しだけ晴れた感じ」


「良かったです」


トトが、ほっとしたように笑った。あたしは、その笑顔を見て、この仲間たちと一緒に、この場所を訪れることができて、本当に良かったと、改めて思った。


「さて、そろそろ、山小屋に向かおうか」


セシルの言葉に、あたしたちは、それぞれ頷いた。丘の上を吹き抜ける風が、四人の間を、静かに通り過ぎていった。あたしは、最後にもう一度、街道の跡を振り返ってから、山道へと足を向けた。


その景色は、もう、あたしを苦しめるだけのものではなくなっていた。悲しみは、確かにそこにある。それでも、仲間たちと分かち合った今、その重さは、あの日、一人で抱えていた頃とは、少し違う形に変わっていた。振り返れば、街道の跡は、夕陽の中に、静かに佇んでいた。あたしは、その景色を胸に刻みながら、山道を歩き出した。次にここへ来る時は、きっと、もっと晴れやかな気持ちで、この場所を眺められるはずだと、あたしは、そう信じたかった。


最後までありがとうございました!


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