(76)道すがらの故郷語り
ハルナ自治領の中心部までは、王都からおよそ十日の行程だった。あたしたちの目的地であるリエン村は、その手前、国境の関所を抜けて、さらに数日のところにある。街道は、次第に緩やかな丘陵地帯へと変わり、遠くには、なだらかな山々の稜線が見え始めていた。空気も、王都の喧騒とは違う、澄んだ匂いを帯び始めている。
歩きながら、あたしは、久しぶりに、旅そのものを楽しんでいる自分に気づいた。目的地への不安はあるものの、こうして仲間たちと、他愛のない話をしながら歩く時間は、何にも代えがたい。
「この辺りから、もう辺境自治領なんだよね」
トトが、辺りを見渡しながら言った。
「うん。国境の関所は、あと二日くらいかな」
セシルが、地図を確認しながら答えた。
「関所、また距離税払うの」
「ハルナは、他の国と少し仕組みが違うんだよね」
セシルが、手帳のページをめくった。
「地方領主の緩やかな連合だから、税率は場所によってばらばら。それに、ハルナ出身者は、身分証明さえできれば、税が免除される場所も多いらしい」
「あたし、身分証明できるの」
「顔を覚えてる人が、まだ大勢いるんじゃない」
ヴァレナが、あたしを横目で見ながら言った。あたしは、微妙な気分になった。故郷というのは、良くも悪くも、顔が割れている場所だ。
「リクさんの故郷って、どんなところなんですか」
トトが、興味深そうに尋ねた。あたしは、少し考えてから、答えた。
「山と、畑と、羊。それくらいしかない、のどかな土地」
「のどか、か」
ヴァレナが、どこか複雑な声で繰り返した。
「昔は、そうだったね」
その一言に、あたしは、何も返せなかった。五年前の敗走以来、ハルナの一部は、決して「のどか」とは言えない記憶を背負っている。
「アーガスさんって人は、どんな人なんですか」
トトが、話題を変えるように尋ねた。あたしは、少しほっとしながら、答えた。
「頑固で、口数が少なくて、でも、面倒見はいい人。あたしに、チキン流の原則を教えてくれた」
「師匠、ってことですよね」
「うん。師匠」
その言葉を口にすると、なぜか、胸の奥が温かくなった。
「どんな稽古をつけてもらったんですか」
トトが、興味津々に尋ねてきた。あたしは、少し記憶を辿りながら答えた。
「稽古、っていうほど、格好いいものじゃなかったよ。ひたすら、山道を走らされたり、荷物を担いで丘を登らされたり。地味なことばっかり」
「魔法みたいな特訓は、なかったんですか」
「なかった、なかった。あの人、そもそも、魔導も聖導も使えない人だから」
「じゃあ、何を教えてもらったんですか」
トトの問いに、あたしは、少し考えてから答えた。
「多分、一番教わったのは、逃げることを、恥じなくていいってこと。それまでのあたしは、逃げるたびに、自分を責めてた。でも、アーガスさんは、違った」
「違った、って」
「『逃げるってのは、次に立ち向かうための、準備をしてるだけだ』って、よく言われた」
その言葉を口にすると、なぜか、胸の奥が温かくなった。
「あんたは、アーガスの話をする時だけ、声が柔らかくなるよね」
ヴァレナが、からかうように言った。
「そんなことない」
「ある」
セシルとトトも、揃って頷いた。あたしは、少し赤面しながら、話を逸らした。
「そういうヴァレナは、どうしてハルナに行こうって言い出したの」
その問いに、ヴァレナは、一瞬だけ、表情を曇らせた。
「あたしにも、確かめたいことが、いくつかある」
「確かめたいこと」
「うん。あたしの家族が、あの日、どうしてあの場所にいたのか。ずっと、聞けずにいたことがある」
その言葉に、あたしの胸が、きゅっと締め付けられた。ヴァレナの家族は、五年前のハルナ街道の敗走で、命を落としている。
「今まで、聞かなかったの」
あたしが尋ねると、ヴァレナは、小さく首を振った。
「聞くのが、怖かった。知ってしまったら、もう、前を向けなくなる気がして」
「今は、平気なの」
「平気じゃないよ。でも」
ヴァレナは、遠くの山並みを見つめながら、続けた。
「この旅を続けてきて、少しずつ、分かってきたことがある。知らないままでいることの方が、時々、もっと怖いんだって」
セシルとトトは、少し離れた場所で、静かに耳を傾けていた。誰も、その話に、軽々しく口を挟もうとはしなかった。
「あたしの家族は、代々、領主連合の街道警備隊で、街道の警護を務めてた家系だった。だから、あの日、あの場所にいたこと自体は、不思議じゃない」
ヴァレナは、淡々と続けた。
「でも、なんで、あの部隊が、あそこまで無謀な進軍をすることになったのか。その理由だけは、ずっと分からないままなんだ」
「――一緒に、確かめよう」
あたしがそう言うと、ヴァレナは、少し驚いたように、あたしを見た。それから、静かに笑った。
「うん。一緒に」
その日の夕方、あたしたちは、緩やかな丘の上から、遠くに広がる辺境の景色を眺めた。夕陽に染まった山々が、どこか懐かしい輪郭を描いていた。
「綺麗な景色ですね」
トトが、目を細めながら呟いた。
「うん。子どもの頃は、当たり前すぎて、あんまり気にも留めなかったけど」
あたしは、遠くの稜線を眺めながら、答えた。
「離れてみて、初めて、こんなに綺麗な場所だったんだって、気づいた」
「それ、故郷あるあるですね」
セシルが、くすりと笑った。
「マジビの、望郷特集みたいなこと、言ってるね」
トトが、混ぜっ返すように言った。
「あんな胡散臭い番組と、一緒にしないでよ」
「あたしの故郷、カラフも、離れてから、随分と恋しくなったよ。潮風の匂いとか、市場の喧騒とか」
「セシルも、いつか、帰るの」
「うん。いつかね。でも、今は、この旅の方が大事だから」
その言葉に、あたしは、小さく頷いた。仲間たちも、それぞれ、故郷に対する複雑な思いを抱えている。あたしだけが、特別なわけじゃない。そう思うと、少しだけ、気持ちが軽くなった。
「もうすぐだね」
セシルの言葉に、あたしは、静かに頷いた。故郷への道は、思っていたよりも、ずっと近づいていた。夕陽が、山の向こうに、ゆっくりと沈んでいく。あたしたちは、その光を背に、明日への道を、確かめるように見つめていた。冷たくなり始めた風が、頬を撫でて通り過ぎた。トトが、小さく身震いをした。
「そろそろ、宿を探しましょうか」
「うん、そうだね」
誰からともなく、あたしたちは、丘を下り始めた。振り返ると、夕焼けに染まった空の下、ハルナの大地が、どこまでも静かに広がっていた。
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