(74)借りぬ力、通じぬ壁
それから数日、あたしたちは、ライネスの町で、静かな日々を過ごしていた。あの激しい戦いの記憶が嘘のように、町には、穏やかな時間が流れていた。アルドは、約束通り、証拠の情報を、信頼できる筋へと届ける手はずを、着実に進めてくれていた。
その間、あたしたちも、それぞれの形で、この町での日々を過ごした。ヴァレナは、トトへの稽古を、より実践的な内容へと進化させ、セシルは、これまでの旅の記録を、丁寧に整理し直していた。あたしは、静養しながらも、これから先の旅について、静かに思いを巡らせていた。なんて格好つけて言ってみたものの、実態はほとんど昼寝だった。台詞帳には、静養、とだけ書いておく。
「思ったより、順調に進んでる」
アルドの報告に、あたしたちは、安堵の息を漏らした。
「これで、少しずつでも、状況が変わっていくといいですね」
あたしの言葉に、アルドは頷いた。
「時間はかかるだろうが、確実に前進はしている。焦らず、見守ろう」
アルドの言葉に、あたしたちは、深く頷いた。彼のこの慎重で誠実な姿勢こそが、これまでの困難な道のりを、確かに支えてきてくれたのだと、あたしは改めて実感していた。
フェンの家族も、日に日に、穏やかな日常を取り戻しつつあった。子どもの笑い声が響く家の中で、フェンの妻の表情にも、確かな明るさが戻っていた。あたしたちは、時折フェンの家を訪れては、他愛のない会話を交わしながら、その回復ぶりを、共に喜び合っていた。
あたしは、フェンと、彼の家族の顔を、それぞれ見つめながら、静かに告げた。
「あたしたち、そろそろ次の町に向かおうと思ってます」
あたしが告げると、フェンは、少し寂しそうな表情を浮かべながらも、力強く頷いた。
「そうか。世話になったな」
フェンは、あたしの手を、両手でしっかりと握った。
「こちらこそ、フェンさんには、色々教えてもらいました」
あたしの言葉に、フェンは、小さく笑った。その笑顔には、初めて出会った、あの衰弱しきった姿からは、想像もできないほどの、確かな生気が宿っていた。
「また、いつでも、この町に立ち寄ってくれ。歓迎するよ」
フェンの言葉に、あたしたちは、温かい気持ちで頷いた。
出発の朝、あたしたちは、町の門で、アルドとの別れの時を迎えていた。
見送りに来てくれたアルドの前で、あたしたちは、深く頭を下げた。
「アルドさんには、本当にお世話になりました」
あたしが頭を下げると、アルドは、少し照れくさそうに視線を逸らした。朝の柔らかな光が、彼の横顔を、静かに照らしていた。
「礼はいい。それより、これからも、無茶はするなよ」
アルドの言葉に、あたしたちは、思わず笑った。
「アルドさんも、体に気をつけてください」
トトの言葉に、アルドは頷いた。
「ああ。お前たちのおかげで、俺も、少しずつ、前を向けるようになった。感謝してるのは、こっちの方だ」
アルドの言葉に、あたしは、胸が熱くなるのを感じた。出会った頃の、あの高圧的な印象からは、想像もできないほど、彼は、あたしたちにとって、かけがえのない存在になっていた。人との出会いが、こんなにも人を変えるものなのだと、あたしは、この旅を通じて、何度も実感してきた。
「また、いつか、会えますよね」
あたしの問いに、アルドは、力強く頷いた。
「もちろんだ。お前たちの旅が、無事に続くことを、心から願ってる」
アルドの言葉を胸に、あたしたちは、荷物を背負い直した。
アルドとの別れを済ませ、あたしたちが、いよいよ町を出発しようとしたその時、街道の脇に、一つの人影が立っているのに、あたしは気づいた。朝靄の中に佇むその姿には、見覚えがあった。
「ザラさん」
あたしが呼びかけると、ザラは、静かに、こちらへと歩み寄ってきた。武器は構えられておらず、その表情には、以前見せた、あの穏やかな色が浮かんでいた。周囲を警戒する必要もない、その自然な足取りに、あたしは、彼女の中の変化を、改めて確信した。
「旅立つのか」
ザラの問いに、あたしは頷いた。
「はい。まだ、行くべき場所が、たくさんあるので」
あたしの答えに、ザラは、小さく頷いた。
「そうか」
「ザラさんは、これから、どうするんですか」
あたしの問いに、ザラは、しばらく考え込んだ。
ザラは、少し遠くを見るような目で、静かに答えた。
「組織を離れることにした。これから、自分の中の問題と、向き合ってみようと思う」
「昨日のうちに、上には、けじめをつけてきた。潮時だと、正直に話した」
ザラの淡々とした口調には、もう迷いのなさが滲んでいた。
ザラの言葉に、あたしたちは、それぞれ驚きと共に、深い喜びを覚えた。組織を離れるという決断が、彼女にとって、決して簡単なものではなかったことは、あたしにも、容易に想像できた。
「それは、良かった」
あたしの言葉に、ザラは、僅かに微笑んだ。これまで見せたことのない、穏やかな笑みだった。
「お前たちのおかげ、と言ったら、少し違うか。俺自身が、決めたことだ」
ザラの言葉に、あたしは頷いた。誰かに押し付けられた変化ではなく、彼女自身が、自らの意志で摑み取った選択。それこそが、何よりも大切なことなのだと、あたしは思った。
「うん。ザラさんが、自分で選んだ道です」
あたしの言葉に、ザラは、静かに頷いた。
ザラは、そう言うと、少しだけ、口元を緩めた。
「いつか、俺の事情も、話せる日が来るかもしれない。その時は、また会いに来る」
ザラの言葉に、あたしは、深く頷いた。
「待ってます。いつでも」
あたしの言葉に、ザラは、しばらく無言で、あたしたちを見つめていた。やがて、静かに背を向け、歩き出した。
「ザラさん」
あたしが呼び止めると、ザラは、足を止め、振り返った。
「一つだけ、聞いてもいいですか。あの、丘の上で言ってた言葉のこと」
あたしの問いに、ザラは、しばらく沈黙した。朝の風が、二人の間を、静かに通り抜けていった。それから、彼女は、覚悟を決めたように、静かに口を開いた。
「逃げる奴は、いつか誰かを置いていく――昔、俺自身が、大切な人から、その言葉を投げつけられたことがある。俺は、あの時、逃げた。守るべき人を、守りきれなかった。だから、二度と、同じ過ちは繰り返さないと決めた」
ザラの言葉に、あたしたちは、息を呑んだ。彼女の過去に隠された、深い痛みの一端が、初めて、あたしたちの前に明かされた瞬間だった。誰にも打ち明けることなく、一人でずっと抱え続けてきたであろうその痛みを思うと、あたしの胸は、締め付けられるように痛んだ。
「その言葉の意味、いつか、ちゃんと聞かせてください」
あたしの言葉に、ザラは、小さく頷いた。その表情には、これまでの張り詰めた鋭さとは違う、どこか安らいだ色が浮かんでいた。
「ああ、いつか、必ず」
ザラは、そう言い残すと、朝の光の中を、静かに歩み去っていった。その足取りは、これまで対峙してきたどの瞬間よりも、軽やかに見えた。あたしたちは、その後ろ姿が、見えなくなるまで、じっと見送っていた。
「不思議な人だったね」
トトが、ぽつりと呟いた。
「うん。でも、もう、敵ではないのかもしれない」
あたしの言葉に、みんなが頷いた。
「敵として出会った人が、こうして、また違う形で繋がっていく。この旅は、本当に、色んな縁をもたらしてくれる」
セシルが、しみじみとした様子で呟いた。
「うん。だからこそ、これからの旅も、楽しみだね」
あたしの言葉に、みんなが、それぞれ笑みを浮かべた。
「さて、あたしたちも、そろそろ出発しよう」
セシルの言葉に、あたしたちは、それぞれ頷いた。
「次は、どこに向かうんですか」
トトの問いに、セシルが、手帳を開きながら答えた。
「まだ、決めてないけど……特別会計局を裏で動かしてる誰かがいるはず。次は、その正体を突き止めたい」
セシルの言葉に、あたしは頷いた。この旅の中で出会った、フェン、アルド、そしてザラ。誰もが、あたしたちの人生に、確かな彩りを加えてくれた存在だった。
「うん。この先も、きっと、色んな人と出会っていくんだろうね」
あたしの言葉に、ヴァレナが、力強く頷いた。
「それに、あんたには、まだ会うべき人が、他にもいるはずだから」
ヴァレナの言葉に、あたしは、少し不思議そうな顔をした。それでも、彼女の言葉の意味を、深く問い詰めることはしなかった。
荷物を背負い直し、新たな旅路へと、足を踏み出す。ライネスの町並みが、少しずつ、後方へと遠ざかっていった。
この町で出会った人々、乗り越えてきた困難、そして、まだ解決していない多くの謎。すべてを胸に抱きながら、あたしたちは、次なる目的地へと、歩みを進めていった。街道の先には、まだ見ぬ景色が広がっていた。この旅がどこまで続くのか、あたしには、まだ分からない。それでも、仲間たちと共になら、どんな道のりも、きっと乗り越えていける。そう信じられることが、あたしにとって、何よりの支えだった。
「逃げる奴は、いつか誰かを置いていく――か」
あたしは、ザラの言葉を、もう一度、心の中で呟いた。その言葉の本当の意味を、あたしたちが知る日は、まだ、遠い未来のことなのかもしれない。それでも、いつかきっと、その日は訪れる。そう信じながら、あたしたちは、新たな道を、まっすぐに歩き続けた。この長い旅の先に、一体何が待ち受けているのか、あたしには、まだ分からない。それでも、仲間たちと共に歩む限り、どんな困難も、必ず乗り越えられる。そんな確かな予感を胸に、あたしたちは、次なる冒険へと、力強く歩みを進めていった。
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