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チキンナイフと呼ばれた少女 ~逃げて逃れて世界最強~  作者: 荒瀬 維人
8章 借りぬ力、通じぬ壁

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(71)現れた影

戦況が、僅かに拮抗し始めた頃、路地の奥から、新たな気配が近づいてきた。あたしは、その気配に、覚えがあった。これまで何度も対峙してきたその気配は、忘れようにも忘れられないものだった。心臓が、緊張とは違う種類の高鳴りを見せた。指先に、微かな痺れが走るのを、あたしは感じていた。


「下がれ」


先頭の男に、鋭い声が飛んだ。現れたのは、ザラだった。彼女は、これまでの戦闘の様子を、冷静に観察するように見渡した。あたしたちの疲弊した様子と、崩れきらない隊列を、その鋭い目が、素早く見定めているのが分かった。


ザラは、腕を組み、戦場の様子を一瞥した。


「思ったより、手こずってるようだな」


ザラの言葉に、先頭の男は、僅かに気まずそうな表情を浮かべた。


「相手が、思ったより粘るもので」


男の弁解に、ザラは、鼻を鳴らした。その仕草には、部下に対する明らかな苛立ちが滲んでいた。


「言い訳はいい。俺が、直接片をつける」


ザラの登場に、あたしたちは、緊張を新たにした。これまで何度も対峙してきた彼女の実力は、あたしたちも、身をもって知っていた。彼女一人が加わるだけで、戦況が、大きく変わりかねなかった。周囲の兵たちの間にも、僅かな安堵の色が広がったのが分かった。


「ザラさん」


あたしが呼びかけると、ザラは、僅かに視線をこちらに向けた。その目には、これまでとは違う、微かな複雑さが浮かんでいるように見えた。あたしたちの姿を確かめる、その一瞬の間に、彼女の中で、何かが揺れ動いているのを感じた。


ザラは、あたしたちの姿を確かめると、小さくため息をついた。


「またお前か。本当にしつこいな」


ザラの言葉には、いつもの冷たさがあったが、そこには、どこか、これまでとは違う重さがあるように、あたしには感じられた。丘の上で見せた、あの物憂げな表情が、彼女の鋭い眼光の奥に、微かに透けて見える瞬間があった。


「あなたも、この人たちと、同じ側なんですか」


あたしの問いに、ザラは、しばらく沈黙した。周囲の兵たちが、その様子を、訝しげに見つめていた。彼女が答えを迷っているという事実そのものが、あたしにとっては、一つの発見だった。


ザラは、視線を逸らしながら、静かに答えた。


「今は、仕事でここにいる。それ以上でも、以下でもない」


ザラの答えは、これまでと変わらないものだった。それでも、あたしは、丘の上での対話を思い出さずにはいられなかった。あの日、彼女が漏らした「守りたいものがあった」という言葉が、あたしの胸の奥で、静かに響いていた。


「あの日、丘の上で話したこと、覚えてますか」


あたしの言葉に、ザラの表情が、僅かに揺らいだ。周囲の兵たちには聞こえないよう、あたしは、声を落として続けた。


「あなたが、あの時見せてくれた顔、忘れてません」


「――余計なことを、思い出させるな」


ザラの声は、これまでになく、僅かに震えていた。それでも、その動揺を振り払うように、彼女は、大きく息を吸い込んだ。ザラは、そう言うと、武器を構えた。その手には、これまで何度も見てきた、鋭い刃を持つ得物が握られていた。それでも、その構えには、いつもとは僅かに違う、ためらいのようなものが、微かに滲んでいるように見えた。


「戦うしかないなら、相手になる」


ザラの構えに、あたしたちも、それぞれ武器を構え直した。それでも、あたしの心の中には、彼女と戦うことへの、拭いきれない躊躇いがあった。アルドが、あたしの隣で、静かに口を開いた。


「ザラ、お前も、本当にこれでいいのか」


アルドの問いかけに、ザラは、一瞬、動きを止めた。彼女の視線が、僅かに揺れたのを、あたしは見逃さなかった。


「お前まで、何を言い出す」


「フェンのことも、あの倉庫のことも、お前だって、薄々気づいているんじゃないのか。自分が、一体何に加担しているのかを」


アルドの言葉に、ザラの表情が、明らかに硬くなった。彼の言葉は、彼女の心の奥深くにある、触れられたくない部分に、確かに届いているようだった。


ザラは、声を荒げた。その激しさとは裏腹に、その目には、追い詰められた者の弱さが、垣間見えるようだった。


「黙れ。俺には、俺の事情がある」


ザラの声には、怒りと共に、隠しきれない動揺が滲んでいた。あたしは、その様子に、彼女の中の葛藤を、確かに感じ取った。


「事情って、なんですか。守りたかったものと、何か関係あるんですか」


あたしが、思い切って一歩、踏み込むと、ザラは、僅かに目を見開いた。


「――そこまで、知る必要はない」


ザラの声は、震えているようにも聞こえた。


「事情があるなら、話してくれれば、一緒に考えられるかもしれない」


あたしの言葉を、ザラは、鋭く遮った。


「簡単に言うな。お前らには、分からない」


ザラの叫びにも似た声に、あたしたちは、思わず言葉を失った。彼女の内側で、何かが激しくせめぎ合っているのが、その声だけで、はっきりと伝わってきた。仲間として敵と戦うという、単純な図式では割り切れない何かが、この場には、確かに存在していた。それでも、今この瞬間、あたしたちにできることは限られていた。


先頭の男が、痺れを切らしたように、苛立たしげな視線を、ザラに向けた。


「無駄話はそこまでだ。ザラ、さっさと片をつけろ」


男の指示に、ザラは、僅かに顔を歪めた。それでも、彼女は、武器を構え直し、あたしたちとの間合いを詰めてきた。その足取りには、これまでのような迷いのない鋭さは、どこか薄れているように見えた。


「話は、あとだ。今は、仕事を優先する」


ザラの声には、これまでにない、複雑な色が滲んでいた。命令に従う自分と、何かを問い直そうとする自分との間で、揺れ動いているようにも見えた。


ザラの言葉に、あたしは、覚悟を決めた。彼女の中の迷いを、今この場で解きほぐすことは、できそうになかった。それでも、いつか必ず、彼女と本当の意味で向き合える日が来る。そう信じて、あたしは、ザラとの戦いに、改めて臨む姿勢を取った。


「みんな、油断しないで。相手は、これまでで一番の強敵」


あたしの言葉に、仲間たちは、それぞれ頷いた。緊迫した空気の中、ザラとの、避けられない対峙が、いよいよ始まろうとしていた。


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