(44)国境の気配
峠を下りきったところに広がっていたのは、これまでとは明らかに違う雰囲気の土地だった。街道の脇には、簡素な木の柵が立てられ、その先には、見張り台らしき建物がぽつぽつと点在している。空気そのものが、これまでの旅路とは違う張り詰めた質感を帯びているように感じられた。
「もう、国境地帯に入ったんだ」
トトが、緊張した面持ちで呟いた。あたしはといえば、緊張よりも先に、国境という響きの格好よさに、ちょっとだけ浮かれていた。我ながら緊張感が足りないと思うけど、こういう時くらい、いいことにしておく。
「正確には、まだ国境まで半日ほどある。でも、警備が厳重になってるのは確か」
セシルが、地図を確認しながら答えた。彼女の言う通り、道中ですれ違う旅人の数は、目に見えて減っていた。代わりに、武装した見回りらしき集団の姿が、たびたび目についた。彼らの視線は、通り過ぎる馬車の一台一台に、注意深く向けられているようだった。
「あの人たち、この辺りの兵士かな」
「多分ね。国境が近いから、警戒を強めてるんだと思う」
見張り台の一つには、遠目にも分かるほど、しっかりとした装備を纏った兵士の姿があった。
ヴァレナが、彼らの動きを注意深く観察しながら答えた。彼女の視線には、いつになく鋭さが宿っていた。
昼過ぎ、街道沿いにある小さな集落に到着した。ここが、国境の町に入る前の最後の中継地らしい。宿を確保し、荷物を下ろすと、セシルはさっそく、周辺の情報収集に乗り出した。宿の看板は色褪せていたが、掃除は行き届いていて、居心地の良さそうな造りだった。
「この辺りの様子、詳しく知りたいんですけど」
宿の主人に尋ねると、初老の女性は、少し声を潜めながら答えた。
「あんたたち、ライネスに行くのかい」
「ええ、そのつもりです」
「最近は、あまりお勧めできないねえ。国境の検問、ここ最近で急に厳しくなったから」
「厳しくなったというのは、いつ頃からですか」
セシルが、手帳を片手に尋ねた。
「半年くらい前からかねえ。それまでは、普通の関所と変わらなかったんだけど」
「何か、きっかけがあったんでしょうか」
「よくは知らないけど、魔導評議国の意向だとか何とか。詳しいことは、うちらみたいな一般人には分からないよ」
女性はそう言うと、心配そうな表情で、あたしたちの顔を見た。カウンターに置かれたランプの明かりが、その皺の刻まれた顔を、揺らめきながら照らしていた。
「若い人が、危ないところに行くのを見るのは、あまり気分のいいものじゃないからねえ」
女性の言葉には、単なる商売上の愛想とは違う、素朴な気遣いが滲んでいた。
「あんたたち、何の用でライネスに行くんだい。危険なことじゃないといいけど」
「調べたいことがあって。危ないことは、なるべく避けるつもりです」
あたしが答えると、女性は少し安心したように頷いた。
「まあ、無理はしないことだね。近頃は、検問で足止めされたきり、なかなか戻ってこない人もいるって噂だから」
その言葉に、あたしたちは思わず顔を見合わせた。今までの噂とは、また違う、生々しい情報だった。単なる噂話では済まされない、切実な響きが、その言葉には込められていた。
「戻ってこない、というのは」
「詳しくは分からないよ。ただ、そういう話を、何度か聞いたことがあるってだけ」
女性は、それ以上は多くを語らず、話を切り上げた。それでも、その一言は、あたしたちの中に、確かな緊張感を残した。
宿の部屋に戻る道すがら、誰も口を開かなかった。それぞれが、今聞いた話を、頭の中で反芻しているのが分かった。夕暮れの光が、通りの石畳を橙色に染めていく中、あたしたちの足取りは、いつもより重く感じられた。
夕方、部屋に戻ったあたしたちは、今後の方針について話し合った。
「戻ってこない人がいる、か」
「噂だから、どこまで本当かは分からない。でも、無視できる話でもない」
セシルの言葉に、あたしは頷いた。
「慎重に行こう。何か異変を感じたら、すぐに引き返す」
「うん、それがいい」
ヴァレナも同意した。トトは、少し不安げな表情を浮かべながらも、しっかりと頷いていた。膝の上で握りしめた両手には、僅かな震えが残っていたが、その目は逃げていなかった。
「怖いけど、行くしかない。貸し手のこと、ここまで来て諦めるわけにはいかない」
トトの言葉に、あたしたちは、それぞれの覚悟を新たにした。窓の外では、国境地帯特有の、どこか張り詰めた空気が、夜の帳とともに町を包み込んでいた。遠くから、見回りの兵士たちの足音が、規則正しく響いてくる。
「明日には、いよいよ国境の町に着く」
セシルの言葉に、あたしは頷いた。これまでの旅路とは、また違う緊張感が、胸の奥にじわりと広がっていくのを感じた。それでも、ここまで来た以上、後戻りするつもりはなかった。式典から逃げ出したあの日から、あたしはずっと、前に進むことだけを選んできた。
眠りにつく前、あたしは窓の外に広がる、見慣れない星空を見上げた。明日からの道のりが、これまで以上に困難なものになることを、確かな予感として感じ取っていた。それでも、隣の部屋から聞こえる仲間たちの気配が、いつも通りの安心感を与えてくれていた。
深夜、ふと目を覚ますと、隣の寝台でセシルがまだ手帳を広げていた。蝋燭の淡い明かりの下、彼女は何かを熱心に書き込んでいる。
「まだ起きてたの」
「うん。少しだけ、整理しときたくて」
手帳を覗き込むと、細かい字で、道中で聞いた噂や情報が、丁寧にまとめられていた。
「明日のこと?」
「うん。国境での動き方、色々パターンを考えてる。何が起きても、すぐ対応できるように」
セシルの声には、いつもの冷静さがあったけれど、その手つきには、隠しきれない緊張が滲んでいた。
「セシルも、不安なんだね」
あたしが尋ねると、セシルは一瞬、手を止めた。
「不安、というより、備えたいだけ。想定できることは、全部想定しておきたい」
セシルらしい返事に、あたしは小さく笑った。
「無理しすぎないでよ。あんたが倒れたら、あたしたちも困る」
「分かってる。もう少ししたら寝る」
「約束だからね」
そう言って、あたしは再び目を閉じた。蝋燭の灯りが、静かに部屋を照らし続けていた。
しばらくして、木炭が紙をこする微かな音が止み、蝋燭の火が吹き消される気配がした。セシルも、ようやく休むことにしたらしい。静かになった部屋の中、あたしは、明日からの旅路に思いを馳せながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
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