(43)トトの決意
山道の三日目、あたしたちは険しい峠道を進んでいた。標高が上がるにつれ、空気は薄く冷たくなり、木々の種類も少しずつ変わっていく。針葉樹の緑が、周囲の景色を深く染めていた。吐く息が、時折白く色づくほどの寒さになっていた。
「もうすぐ、峠の頂上に着く」
セシルが、地図と実際の景色を見比べながら言った。彼女の言葉通り、しばらく進むと、視界が急に開けた。眼下には、これまで通ってきた平野が広がり、遠くには王都の輪郭らしきものが、うっすらと霞んで見えた。
「すごい……こんなに遠くまで来たんだ」
トトが、景色に見とれながら呟いた。あたしも同じように、これまでの道のりの長さを、改めて実感していた。
峠を越えると、道は緩やかな下り坂になった。馬車の揺れも、幾分か穏やかになる。休憩を兼ねて、あたしたちは荷台の中で、これからのことを話し合った。
「トト、あんた、最近ずっと様子が違う」
セシルが、ふと切り出した。あたしも、内心で同じことを感じていた。トトは、旅を重ねるごとに、確かに変わっていた。以前の怯えた表情は、今ではほとんど見られない。
「そう、かな」
トトは、少し照れくさそうに、荷物の紐をいじった。
「王都に着いた頃から、特に。何かあった?」
ヴァレナの問いに、トトはしばらく黙っていたけれど、やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あの日、あたしを見捨てなかったこと。ずっと、不思議だったんだ」
「見捨てるわけないでしょ」
「うん。でも、最初は信じられなかった。誰かが、理由もなく自分を守ってくれるなんて」
トトの声には、これまであまり聞いたことのない、静かな決意が宿っていた。
「でも、今は違う。みんなが、あたしを大事にしてくれてるって、ちゃんと分かる。だから、あたしも、みんなの役に立ちたい」
その言葉に、あたしたちは思わず顔を見合わせた。トトが自分の意志で、こんなにはっきりと気持ちを口にするのは、珍しいことだった。普段は控えめな彼だからこそ、その言葉の重みが、いっそう強く胸に響いた。あたしなんて、似たような決意表明の一つも、台詞帳に用意した試しがない。少し反省した。
「役に立つって、具体的には」
セシルが、優しく尋ねた。
「戦えるようになりたい。今のままじゃ、いざという時、みんなの足を引っ張るだけ」
トトの言葉に、あたしは少し驚いた。彼はこれまで、戦闘には極力関わらず、後方で荷物の管理や炊事を担当することが多かった。それが彼の役割だと、あたしたちも自然と受け入れていた部分があった。
「戦うのは、危ないよ。無理しなくていい」
「無理じゃない。ちゃんと考えた上での話」
トトは、まっすぐにあたしを見つめた。その目には、以前の怯えた光ではなく、確かな覚悟が宿っていた。
しばらくの沈黙のあと、ヴァレナが口を開いた。
「本気で言ってる?」
「本気。ずっと考えてた」
トトの声には、迷いがなかった。ヴァレナは、その表情をしばらくじっと見つめてから、小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、少しずつ、簡単な技から教えていこう」
ヴァレナが、思いのほかあっさりと頷いた。
「本当に?」
「本気なら、応援する。ただし、無茶はさせない。あたしが責任持って教える」
ヴァレナの言葉に、トトは嬉しそうに顔を輝かせた。
「明日から、少しずつでいいから、体を動かす練習を始めよう。無理はしないこと」
「うん、頑張る」
トトの返事には、これまでにない張りがあった。あたしは、その変化を、静かに、けれど確かな喜びとともに見つめていた。
「ありがとう、ヴァレナ」
「礼はいらない。仲間のことだから」
その素っ気ない言い方の裏に、確かな優しさが滲んでいるのを、あたしは感じ取った。
「セシルは、どう思う」
あたしが尋ねると、セシルは手帳に何かを書き込みながら答えた。
「反対はしない。ただし、無理な鍛錬で怪我をされたら困る。計画的に進めるべき」
いつも通りの、数字と論理に基づいた意見だったけれど、その根底には、トトを心配する気持ちが確かにあった。数字の裏に隠れた優しさこそ、セシルらしい思いやりの形だった。
「みんな、ありがとう」
トトの声が、少し震えていた。あたしは、その肩に軽く手を置いた。
「あんたの気持ち、しっかり受け取った。一緒に頑張ろう」
トトは、涙をこらえるように何度も瞬きをしてから、しっかりと頷いた。
馬車は、緩やかな下り坂を進み続けた。日が傾き始める頃、遠くに、次の中継地らしき建物の灯りが見えてきた。旅の疲れは確かにあったけれど、それ以上に、また一つ、仲間との絆が深まったという実感が、あたしの胸を満たしていた。
「今夜の宿、もうすぐだね」
「うん。あと少し、頑張ろう」
トトの声には、これまでにない張りがあった。
夕食の後、さっそくヴァレナが、トトに簡単な体さばきの基礎を教え始めた。剣を振るうというより、まずは体の重心の移し方や、相手の動きを見極める目を養うことから始めるという。
「まずは、足の運び方から。剣は、その後」
「うん、分かった」
ヴァレナの説明は簡潔だったが、要点を押さえていて、無駄がなかった。実戦を数多くくぐり抜けてきた彼女ならではの、的確な指導だった。
トトは、真剣な表情で、ヴァレナの動きを一つ一つ真似ていった。ぎこちない足取りではあったけれど、その眼差しには、確かな意志が宿っていた。何度もつまずきながらも、決して諦めようとしなかった。
「筋がいい。飲み込みが早い」
ヴァレナの短い褒め言葉に、トトの顔がぱっと明るくなった。あたしとセシルは、少し離れた場所から、その様子を見守っていた。焚き火の明かりに照らされた二人の姿は、師弟のように様になっていた。
「ああして見ると、トトも随分、逞しくなったね」
「うん。出会った頃は、想像もできなかった」
セシルの言葉に、あたしは頷いた。出会ったばかりの頃、トトはあたしたちの後ろに隠れるようにして、目を合わせることさえ、ほとんどなかった。今、目の前で汗を流しながら真剣に体を動かしている姿は、あの頃とはまるで別人のようだった。
「あんたも、あの子の成長、嬉しそうだね」
セシルの言葉に、あたしは素直に頷いた。
「うん。すごく嬉しい」
夕暮れの光に照らされた峠道の合間で、小さな訓練の光景が、いつまでも続いていた。長い旅の中で、また一つ、確かな成長の芽が育ち始めていた。
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