(42)山道の夜
翌朝、宿を発ったあたしたちは、予告されていた通り、次第に険しさを増す山道へと入っていった。街道の両側には鬱蒼とした木々が迫り、空気もひんやりと冷たくなっている。
「思ったより、道が悪い」
ヴァレナが、馬車の揺れに合わせて体を支えながら呟いた。石がごろごろと転がる路面に、車輪が何度も跳ねる。
「地図によると、この山道を抜けた先に、次の中継地がある」
セシルが、揺れる荷台の中でも器用に手帳を広げながら答えた。彼女の几帳面さは、こういう不安定な状況でも変わらなかった。
昼を過ぎた頃、御者が突然、馬車の速度を落とした。
「何かあったんですか」
あたしが荷台から身を乗り出して尋ねると、御者は前方を指さした。
「木が倒れてる。道を塞いでる」
見ると、街道の中央に、太い木が横たわっていた。最近の嵐で倒れたものらしく、まだ葉が青々としている。根元の土が大きくえぐれ、倒れた勢いの強さを物語っていた。
「これは、迂回するしかなさそうですね」
「いや、少し待ってくれ。他の旅人たちと協力すれば、動かせるかもしれない」
御者の言葉に、周囲を見渡すと、確かに他にも足止めを食っている馬車や旅人の姿があった。
「あたしたちも手伝おう」
あたしの提案に、ヴァレナが真っ先に頷いた。
「力仕事なら、任せて」
みんなで木の下に手をかけ、掛け声とともに押してみる。想像以上に重く、簡単には動かなかった。それでも、周囲の旅人たちも加わり、次第に木は少しずつ道の端へとずれていった。額に汗が滲み、手のひらには樹皮の感触がざらりと残った。
「もう少し」
「せーの」
全員の力が合わさった瞬間、木は大きく傾き、道の脇へと転がり落ちた。歓声が上がり、あちこちで安堵の息が漏れる。逃げ足には自信があっても、力比べで木一本に苦戦する自分の情けなさを、あたしは静かに再確認した。台詞帳には、当然書き留めない。
「助かった、ありがとう」
近くにいた旅人が、汗を拭いながら礼を言ってきた。
「お互い様です」
あたしが答えると、その旅人は、興味深そうにあたしたちを見た。
「見ない顔だな。この辺りの者じゃないだろう」
「ライネスに向かってるところです」
「ライネスか。あの辺りは、最近きな臭い噂が多い。気をつけてな」
「きな臭い噂、というのは」
セシルが、すかさず尋ねた。
「詳しくは知らんが、国境近くで、ちょっとした揉め事が起きてるらしい。魔導絡みだとか」
旅人はそう言うと、軽く手を振って自分の馬車に戻っていった。それ以上の情報は得られなかったけれど、断片的な噂が積み重なるほど、国境の異変は確かなものに思えてきた。情報屋の話、市場の掲示、そして今の旅人の言葉。点と点が、少しずつ繋がっていくような感覚があった。
再び馬車に乗り込み、あたしたちは旅を続けた。日が傾く頃、山道の途中にある小さな野営地に到着した。今夜はここで野宿することになっている。周囲を囲む岩場が、風を防ぐちょうどよい壁になっていた。
「火を熾すの、手伝う」
トトが、率先して枝を集め始めた。以前なら、こういう作業でも不安げにあたしたちの後ろに隠れていたのに、今では自分から動けるようになっていた。
「トト、頼もしくなったね」
「みんなの真似してるだけだよ」
そう言いながらも、トトの表情には、確かな誇らしさが浮かんでいた。
火を囲みながらの夕食は、質素だったけれど、どこか温かい時間だった。パチパチと爆ぜる薪の音を聞きながら、あたしたちは今日の出来事を振り返った。携行食を温め直しただけの簡単な料理でも、この旅では十分すぎるご馳走に感じられた。
「木を動かすの、思ったより力がいったね」
「みんなで協力すれば、たいていのことはどうにかなる。今日、改めてそう思った」
ヴァレナの言葉に、セシルが頷いた。
「一人じゃ無理でも、四人ならできることが、確かに増えてる」
その言葉に、あたしは胸の奥が温かくなるのを感じた。逃げるだけだった頃には、想像もできなかった実感だった。
夜が更け、火の番を交代で務めながら、あたしたちは眠りについた。あたしの番が回ってきたのは、真夜中を過ぎた頃だった。パチパチと燃える炎を見つめながら、これまでの旅路と、これから先の道のりを、静かに思い巡らせた。木々の隙間から見える星空は、王都では見られないほど鮮やかだった。
「眠れない?」
いつの間にか起きていたヴァレナが、隣に腰を下ろした。
「ちょっとね。色々考えちゃって」
「国境のこと?」
「うん。でも、それだけじゃない。みんなと一緒にここまで来られたことが、なんだか不思議で」
ヴァレナは、火を見つめながら、静かに微笑んだ。
「不思議なことじゃない。あんたが、みんなを繋げたんだから」
その言葉に、あたしは何も答えられなかった。ただ、胸の奥に広がる温かさを、静かに噛み締めた。……我ながら、こういう場面でだけ妙に素直になるのはずるいと思う。台詞に困った時の逃げ道として、今後も使えそうな手ではある。
「あたしね、逃げ出したこと、後悔したことなんて一度もなかったけど。逃げた先で、こんなに大切なものが見つかるなんて、思ってもみなかった」
「大切なもの、ね」
ヴァレナは、そう繰り返しながら、火を見つめた。炎に照らされたその横顔は、いつもよりずっと穏やかに見えた。
「セシルもトトも、あんたも。みんな、あたしにとって、かけがえのない仲間になった」
素直な言葉が、するりと口から出た。夜の静けさが、そういう気持ちを言葉にしやすくしているのかもしれなかった。
「あたしも、同じ気持ち」
ヴァレナが、短くそう答えた。飾らないその言葉に、あたしは思わず頬が緩んだ。
しばらく、二人で炎を見つめたまま、言葉を交わさない時間が続いた。それでも、その沈黙は、居心地の悪いものではなかった。むしろ、言葉にしなくても通じ合える、そんな確かな繋がりを感じさせるものだった。
遠くで、夜鳥の鳴き声が響いた。木々のざわめきが、風に乗って野営地を包み込む。こういう自然の音に、以前は不安を感じていたはずなのに、今では不思議と落ち着きさえ覚えた。
「そろそろ、あたしも見張り代わろうか」
「ううん、まだ大丈夫。ヴァレナも寝て」
「無理しないでよ」
「してない。むしろ、こういう静かな時間、嫌いじゃない」
そう答えると、ヴァレナは小さく頷いて、再び毛布にくるまった。あたしは、一人で火の番を続けながら、明日からの道のりに思いを馳せた。木々の向こうから吹く夜風が、頬を優しく撫でていった。
夜の静けさの中、炎の爆ぜる音だけが、いつまでも響いていた。
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