(41)北西の道
出発の朝は、雲一つない晴天だった。王都の門前には、既に何台もの馬車や旅人が列を作っていて、行き先を告げる声があちこちから聞こえてくる。荷を積んだ商人、家族連れ、武装した護衛らしき集団まで、行き交う顔ぶれは様々だった。
「ライネス方面、こちらです」
御者の声に促され、あたしたちは荷物を積み込んだ馬車に乗り込んだ。荷台に腰を下ろすと、これから始まる長旅への実感が、じわりと湧いてくる。
「いよいよ、出発だね」
トトが、窓代わりの布の隙間から、遠ざかっていく王都の門を見つめながら呟いた。
「うん。ここからが本番」
セシルが、手帳を膝の上に広げながら答える。旅程の計算は既に終わっているはずなのに、彼女は何度も同じ数字を確認していた。
「そんなに見直して、何か心配なことある?」
「特にはない。ただの癖」
素っ気ない返事だったけれど、その仕草には、彼女なりの慎重さが表れていた。数字を疑うのではなく、数字で安心を確かめる。それが、セシルの流儀だった。
馬車は、石畳の道から、次第に土の道へと変わっていく街道を進んでいった。両側に広がる畑や牧草地が、王都の喧騒とは対照的な、のどかな風景を作り出している。時折すれ違う荷馬車の御者が、軽く手を上げて挨拶を交わしていく。
「こうして見ると、王都の外って、普通の田舎道なんだね」
ヴァレナが、荷台の縁に肘をつきながら、遠くの景色を眺めていた。
「まあ、五日も進めば、また景色は変わる。国境に近づくほど、山がちになるはず」
セシルの説明に、あたしは頷いた。地図で見た限りでは、ライネス国境は山脈の切れ目に位置しているらしい。
「その山脈、なんて名前なの」
トトが、地図を覗き込みながら尋ねた。
「グリーゼ山脈。この大陸を東西に分ける、大きな山の連なり。ライネスは、その切れ目の一つを利用して作られた国境だから、地形的にも、守りやすい場所なんだと思う」
セシルの説明は、いつも通り、詳しく的確だった。地図には、山脈の細かな等高線まで書き込まれている。
昼過ぎ、最初の休憩地に馬車が停まった。街道沿いの小さな中継地で、食事処と厩舎を兼ねた建物が一つあるだけの、こぢんまりとした場所だった。
「ここで、少し休憩を」
御者の言葉に従い、あたしたちは荷台を降りた。体を伸ばすと、馬車の揺れで固まっていた筋肉が、ようやくほぐれていく感覚があった。両腕を大きく広げると、背骨の辺りから、心地よい音が小さく鳴った。
食事処では、簡素だけれど温かい料理が振る舞われた。パンとスープ、干し肉を煮込んだ具だくさんの一皿。旅の合間の食事は、いつも以上に美味しく感じられた。湯気の立つスープを一口飲むと、冷えかけていた体に、じんわりと温もりが広がった。
「あの、聞いてもいい?」
隣の卓に座っていた、旅慣れた様子の商人らしき男が、ふとこちらに声をかけてきた。
「ライネス方面まで行くのかい」
「ええ、そうです」
「最近、あの辺りは物騒だから、気をつけた方がいい。国境の検問が、随分と厳しくなってるらしいよ」
商人の言葉に、セシルが手帳を取り出した。
「厳しいというのは、具体的には」
「詳しいことは分からないが、通行証だけじゃ通れないこともあるとか。何か特別な審査があるって噂だ」
「審査、ですか」
「魔導絡みの何かだって話だけど、俺も又聞きだから、確かなことは言えない」
商人はそう言って、肩をすくめた。それ以上は詳しく知らないようで、話はそこで打ち切られた。
「ありがとうございます、参考になりました」
セシルが礼を言うと、商人は軽く手を振って、自分の食事に戻っていった。
「魔導結界がらみの検問、やっぱり本当みたいだね」
あたしが呟くと、ヴァレナが得物の柄に軽く触れながら頷いた。
「行ってみないと分からないことばかりだけど、少なくとも、無防備で突っ込むわけにはいかない」
「うん。用心しながら進もう」
食事を終え、あたしたちは再び馬車に乗り込んだ。午後の陽射しが、街道を白く照らしている。トトは、窓の外を眺めながら、時折うとうとと舟を漕いでいた。旅の疲れが、少しずつ体に溜まっているのかもしれない。荷台の車輪が石を踏むたびに、小さな振動が体に伝わってくる。
「トト、疲れたら遠慮なく寝ていいから」
「うん……ちょっとだけ」
トトは、そう言うと、ヴァレナの肩にもたれかかるようにして、静かに目を閉じた。ヴァレナは、少し驚いた様子を見せながらも、そのままじっとしていてくれた。
「重くない?」
「平気。これくらい」
ヴァレナの穏やかな声に、あたしは思わず微笑んだ。出会った頃には想像もできなかった、こんな何気ない信頼の形が、旅を通じて確かに育っていた。
夕暮れが近づく頃、馬車は次の中継地に到着した。今日はここで一泊し、明日また旅を続けることになっている。宿の小さな部屋に荷物を下ろしながら、あたしは窓の外に広がる、王都とは違う静かな夜空を見上げた。星の数が、心なしか多く感じられた。空気も、王都よりずっと澄んでいるように思えた。
宿の食堂で、簡単な夕食を済ませたあと、セシルが地図を広げて、明日以降の行程を説明してくれた。
「明日は、山沿いの道に入る。今日までより、道は険しくなる」
「山道か。ガイン・オルスとの一件を思い出すね」
あたしが呟くと、セシルは苦笑しながら地図を指でなぞった。
「あの時とは違う。今回は、正面から向き合うための道のり」
セシルの言葉には、確かな意志が込められていた。逃げるための山道と、目的地に向かうための山道。同じような景色でも、その意味はまるで違っていた。
「あと何日くらいで着くの」
トトが、眠そうな目をこすりながら尋ねた。
「予定通りなら、あと四日。国境の町に着いたら、そこからが本題」
セシルの声には、旅の実務を淡々とこなす普段通りの落ち着きがあった。それでも、地図をなぞる指先には、僅かな緊張が滲んでいるように見えた。
「本題、か」
あたしは、窓の外に広がる夜空を見上げながら、小さく呟いた。魔導結界がらみの検問、貸し手との繋がり。まだ見ぬ困難が、その先に待っている。それでも、こういう時こそ格好いい台詞の一つも決めておきたい、という悪い癖が顔を出す。今のところ何も思いついていないのは、あたしと台詞帳だけの秘密にしておく。
「不安?」
ヴァレナが、静かに声をかけてきた。
「少しはね。でも、みんなと一緒だから、大丈夫だと思う」
「そう言うと思った」
ヴァレナは、そう言って小さく笑った。その笑顔を見ていると、あたしの胸の奥にあった緊張が、少しずつ和らいでいった。
「明日も、長い道のりになりそう」
「うん。でも、着実に近づいてる」
セシルの言葉に、あたしは頷いた。焦らず、しかし着実に。それが、今のあたしたちの歩み方だった。
窓の外では、見知らぬ土地の夜が、静かに更けていく。明日からの道のりを思いながら、あたしは目を閉じた。仲間たちの寝息が、隣の寝台から穏やかに聞こえていた。
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