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チキンナイフと呼ばれた少女 ~逃げて逃れて世界最強~  作者: 荒瀬 維人
4章 最後に踏み出す一歩

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(36)傍らにいる理由

夜になると、宿の部屋は静けさに包まれた。セシルとトトは、隣の部屋で休んでいる。あたしとヴァレナだけが、ランプの淡い光の中に残されていた。


窓の隙間から吹き込む夜風が、ランプの炎を微かに揺らす。木造りの壁には、二人分の影が、長く伸びていた。傷の癒えたヴァレナは、以前と変わらぬ落ち着きを取り戻しつつあったけれど、その表情には、まだどこか、繊細な陰りが残っていた。


「まだ、眠れない?」


ヴァレナが、椅子に腰掛けたまま、静かに聞いてきた。


「うん。体は疲れてるはずなのに、なぜか目が冴えてる」


「そういう時、あるよね」


ヴァレナは、そう言って小さく笑った。窓の外には、満天の星が広がっている。宿の周りは、虫の声だけが響く静かな夜だった。


「ねえ、リク」


「なに」


「今日の戦い、正直、怖かった。あんたが目の前で傷ついた瞬間、頭が真っ白になった」


ヴァレナは、視線を膝の上に落としながら、続けた。


「これまでも、危ない場面はたくさんあった。でも、今日は違った。もし、あんたを失ってたらって考えると、今でも手が震える」


差し出された手を見ると、確かに、微かな震えが残っていた。あたしは、その手を、そっと両手で包んだ。


「大丈夫。あたしは、ちゃんとここにいる」


「うん……分かってる。それでも、まだ心臓がうるさい」


ヴァレナは、そう言って、小さく苦笑した。強がってばかりの彼女の、こんな素直な弱さを見るのは、初めてに近かった。あたしは、その手を、少しの間、離さずにいた。手のひらの震えが、少しずつ収まっていくのが分かった。


ヴァレナの声には、これまで聞いたことのない、素直な弱さが滲んでいた。得物の柄に触れる癖もなく、ただ、まっすぐにあたしを見つめている。


「あたしも、怖かったよ。ヴァレナの剣が弾かれた瞬間、心臓が止まるかと思った」


「お互い様、ってことか」


軽く笑い合いながらも、その奥には、確かな重みのある感情が漂っていた。互いの無事を、心の底から喜び合っているのが分かった。


「なんで、そんなに必死に守ろうとするの」


ヴァレナの問いに、あたしは少し考えてから答えた。


「みんなが大事だから。それだけ」


「それだけ、で片付けるには、ちょっと重すぎる理由だと思うけど」


ヴァレナが、少し意地悪な笑みを浮かべながら、こちらを見つめてきた。あたしは、思わず目を逸らした。


「別に、深い意味はない」


「本当に?」


「ほんとに。仲間だから、大事にするのは、当たり前のこと」


言葉にすると、なんだか少し、照れくさかった。それでも、嘘偽りのない、正直な気持ちだった。頬が、じんわりと熱を持ち始めていた。


「じゃあ、ヴァレナは、なんであたしのそばにいてくれるの」


逆に聞き返すと、ヴァレナは一瞬、言葉に詰まった。ランプの灯りが、その横顔を、柔らかく照らしている。しばらくの沈黙のあと、彼女はゆっくりと口を開いた。


「最初は、ただの成り行きだった。逃げる者同士、利害が一致しただけ」


ヴァレナは、遠くを見るような目で、話し続けた。


「あの夜、あんたを助けたのだって、深く考えたわけじゃなかった。ただ、放っておけなかっただけ」


「それでも、助けてくれた」


「うん。そこから、なんとなく一緒にいるようになって、気づいたら、こんなに長い時間が経ってた」


ヴァレナの声には、懐かしむような響きがあった。あの夜のことを、あたしも同じくらい鮮明に覚えている。あの偶然の出会いがなければ、今のこの時間は、存在しなかったのだと思うと、不思議な気持ちになった。


「今は」


「今は……分からない。でも、あんたがいない旅は、もう想像できない」


その言葉に、あたしは思わず息を呑んだ。ヴァレナの声には、これまで聞いたことのない、確かな真剣さが宿っていた。冗談で誤魔化すことのできない、重みのある言葉だった。


「あたしも、同じ」


短く答えると、ヴァレナは驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと表情を緩める。頬に、微かな赤みが差しているように見えたのは、ランプの光のせいだけではないだろう。あたしも、きっと似たような顔をしていたはずだ。


「素直だね、今日は」


「まあ、色々あったから。柄にもなく」


軽口で誤魔化しながらも、あたしの胸の奥には、確かな温かさが広がっていた。


「もう少しだけ、ここにいてもいい?」


ヴァレナが、少し照れくさそうに聞いてきた。


「うん。いてほしい」


短いやり取りの後、ヴァレナは椅子を少しだけベッドに近づけて、腰を下ろし直した。木の椅子が軋む小さな音が、静かな部屋に響いた。二人の間に流れる沈黙は、気まずさではなく、確かな安心感に満ちていた。


ランプの灯りが、静かに揺れている。窓の外では、虫の声が、絶え間なく響いていた。こんな穏やかな時間が、これからも続いていけばいいと、あたしは心の底から願った。傷ついた体に、優しい疲労感が広がっていく。


「なあ、リク」


「なに」


「これからも、一緒にいてくれる?」


ヴァレナの問いに、あたしは迷わず頷いた。答えを探すまでもない、当たり前のことだった。


「もちろん。あんたがいなくなったら、あたし、寂しくて仕方ない」


「それ、さっきの照れ隠しと矛盾してない?」


「うるさい。今日くらい、素直になったっていいでしょ」


軽口を返しながらも、あたしの胸の奥には、確かな幸福感が満ちていた。こんな穏やかな気持ちを味わうのは、逃げ始めてから初めてかもしれなかった。この幸福が、これからも続いていくことを、あたしは静かに祈った。


「おやすみ、リク」


「うん、おやすみ」


目を閉じると、傍らにヴァレナの気配が、静かに寄り添っているのを感じた。長い戦いの果てに辿り着いた、穏やかで、かけがえのない夜だった。


意識が、少しずつ眠りへと沈んでいく。それでも、耳の奥では、ヴァレナの穏やかな呼吸の音が、ずっと聞こえていた。恋人と呼べるほどの関係ではないかもしれない。それでも、この距離感が、今のあたしたちにとって、一番心地よいものだった。


夜が更けるにつれ、宿の周りの静けさは、いっそう深まっていった。窓の外の星々が、二人の穏やかな時間を、静かに見守っているようだった。この先も、こんな夜が、いくつも重なっていけばいいと、あたしは静かに願った。

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