(34)決着
片膝をついたガイン・オルスは、しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと立ち上がった。傷ついた体でありながら、その所作には、まだ確かな威厳が残っていた。
崩れた石壁の隙間から差し込む朝の光が、埃の舞う空間を、淡く照らしていた。誰も動かず、誰も声を発さない、張り詰めた静けさが、しばらく続いた。
「見事だ。ここまでの手駒とは、思わなかった」
「あんたも、思ったより粘るね」
軽口を返しながらも、あたしの足は、今にも崩れ落ちそうなほど震えていた。ヴァレナが、そっと肩を支えてくれる。
ガイン・オルスは、剣を鞘に収めた。その仕草には、迷いのない静けさがあった。
「今日は、ここまでにしよう」
「逃がしてくれるってこと」
「逃がすのではない。認めるのだ。今のお前たちを、無理に仕留めるのは、割に合わない」
淡々とした言葉に、あたしは思わず眉をひそめた。それでも、その言葉の裏に、確かな敬意のようなものが滲んでいるように感じられた。
気力を振り絞り、あたしは口を開いた。
「あんた、今回のこと、どう思ってる」
素朴な疑問をぶつけると、ガイン・オルスは、珍しく少し間を置いてから答えた。
「正直、意外だった。ここまでの手強さは、想定していなかった」
「褒めてるの」
「事実を述べているだけだ」
淡々としながらも、そこには確かな評価が込められているように聞こえた。
「依頼、どうするつもり」
「一度、依頼主に報告する。今のお前の力量を伝え、依頼の継続を判断してもらう」
「あんたの一存じゃ、決められないんだ」
「契約というのは、そういうものだ」
ガイン・オルスは、それだけ言うと、踵を返した。数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
「一つ、忠告しておく。貸し手は、想像以上に執念深い相手だ。この程度で、諦めることはないだろう」
意外な律儀さに、あたしは思わず聞き返した。
「教えてくれるんだ、そういうこと」
「借りを作りたくないだけだ。今日の戦いぶり、記録に値すると判断した」
淡々とした口調の中に、確かな重みがあった。契約に忠実であることと、目の前の相手への敬意は、必ずしも矛盾しないのかもしれない。
意外な言葉に、あたしは思わず言葉に詰まった。この男なりの、律儀さのようなものが、確かに垣間見えた。
その言葉を残し、ガイン・オルスは静かに立ち去っていった。崩れた石壁の向こうに、その姿が消えていく。あたしたちは、しばらくの間、誰も言葉を発することができなかった。
風が吹き抜け、砦の跡地に積もった埃を巻き上げる。緊張から解放された体は、鉛のように重く、思考すらまとまらなかった。それでも、確かに一つの区切りを迎えたのだという実感だけは、静かに胸の奥に広がっていった。長かった逃走の日々が、ようやく一つの答えに辿り着いたのだと、静かに実感していた。
「終わった、の」
トトが、恐る恐るといった様子で聞いてきた。あたしは、大きく息を吐いてから、頷いた。
「うん。少なくとも、今日のところは」
安堵と疲労が、一気に押し寄せてきた。膝から力が抜け、あたしはその場に座り込んだ。視界が霞み、耳の奥で自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。指先すら、思うように動かせない。
「リク!」
ヴァレナが、慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫、ちょっと力が抜けただけ」
「無理しないで。今日の技、相当な負担だったはず」
セシルも、心配そうな顔で近づいてきた。手帳を懐にしまい、代わりに救急道具を取り出す。
「傷、すぐに手当てする。動かないで」
セシルの手際の良さに、あたしは素直に身を委ねた。肩の傷が、ずきずきと痛む。それでも、この痛みは、仲間を守れた証だと思うと、不思議と誇らしい気持ちがあった。
包帯を巻きながら、セシルがぽつりと呟いた。
「本当に、無茶ばかりする」
「無茶しないと、守れないこともある」
「それは、分かるけど」
セシルは、それ以上言葉を続けなかった。代わりに、いつもより少し丁寧に、傷口に布を巻いてくれた。その手つきに、言葉にならない気遣いが滲んでいるのが分かった。手当てを終えたセシルは、小さく息をついた。緊張が解けた分、疲れが一気に押し寄せてきているようだった。
ヴァレナも、少し離れた場所で、自分の傷の様子を確かめていた。
「ヴァレナ、そっちの傷は」
「大丈夫。セシルの手当て、後で頼む」
短いやり取りの中にも、互いを気遣う気持ちが自然と滲んでいた。傷ついた体を寄せ合いながらも、みんなの表情には、確かな安堵の色が浮かんでいた。トトは、あたしのすぐ隣に座り込み、ずっと手を握ったままでいた。時折、確かめるようにぎゅっと力を込める仕草に、これまでの不安の深さが滲んでいた。
「みんな、無事でよかった」
呟くように言うと、トトが、あたしの手をぎゅっと握った。
「リクが、守ってくれたから」
「あたし一人の力じゃない。みんなで、勝ち取った結果」
その言葉に、四人が、静かに頷き合った。崩れた砦の跡地に、朝の光が差し込んでいる。長い戦いの果てに訪れた、静かな安堵の時間だった。
しばらく休んだあと、あたしたちは荷物をまとめ、砦の跡地を後にすることにした。セシルが、周囲の安全を確かめながら、慎重に道を選ぶ。
セシルが、地図を確かめながら言った。
「近くに、休める場所があるはず。今日は、そこまで移動しよう」
「うん。みんな、無理はしないで」
あたしの言葉に、三人が頷いた。傷ついた体を庇いながら、それでも足取りには、確かな力強さが戻りつつあった。
崩れた石壁を抜け、外に出ると、朝日が眩しいほどに輝いていた。木々の緑が、朝露に濡れて、きらきらと光を反射している。鳥のさえずりが、静かな朝の空気に響いていた。長い緊張の時間を経て見る景色は、いつもよりずっと鮮やかに映った。
「終わった、って実感、まだあんまりない」
トトが、ぽつりと呟いた。
「あたしも、正直まだ実感ない。でも、確かに、今日という日を乗り越えた」
「乗り越えたね、みんなで」
セシルの言葉に、あたしたちは、静かに頷き合った。誰からともなく、小さな笑みがこぼれた。四人分の足音が、朝の光の中、ゆっくりと重なっていった。傷ついた体を庇い合いながらも、その歩みには、確かな前向きさが宿っていた。
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