(33)雲隠れ
「させない!」
再びヴァレナに迫る刃を、あたしは体ごとぶつかるようにして防いだ。骨に響く衝撃に、視界が一瞬揺らぐ。それでも、意識だけは、はっきりと保っていた。
肩の傷が、鋭く痛んだ。血の匂いが鼻をつく。それでも、ここで意識を失うわけにはいかなかった。背後には、まだ武器を拾いきれていないヴァレナがいる。守るべきものが、すぐそこにあった。
「まだ、立つか」
ガイン・オルスの声に、微かな驚きの色が混じっていた。あたしは、荒い息を整えながら、剣を握り直す。
「立つよ。あんたを退けるまでは、何度でも」
言葉とは裏腹に、両足はがくがくと震えていた。それでも、その震えを気力だけで抑え込み、あたしは真っ直ぐに立ち続けた。
頭の中で、これまでの武勇伝の記憶を、片っ端から浮かべては消していった。つまみぐい、夜逃げ、修行のさぼり。どれも、この局面を打開するには、器が足りない。もっと大きな記憶が必要だった。
その時、ふいに、ずっと奥にしまい込んでいた、一番古い記憶が蘇った。師匠に拾われる、その前の記憶だった。
あれは、あたしがまだ幼かった頃のことだ。生まれ育った小さな集落が、夜、山賊の一団に襲われた。炎と怒声が入り混じる混乱の中、大人たちが逃げ惑い、あたしは一人、家の裏手に取り残されていた。
恐怖で足がすくんだ。それでも、頭のどこかで、生き延びるための算段だけは、驚くほど冷静に働いていた。あたしは、燃える家の陰から陰へと、音を立てずに移動し、山賊たちの見回りの隙を、じっと観察した。
熱風が頬を焼き、煙が喉に絡んだ。泣き叫ぶ声、怒鳴り声、家屋が崩れる轟音。すべてが混ざり合った地獄のような光景の中で、あたしは不思議なくらい、頭の芯だけが冷えていくのを感じていた。生きるために、感情を切り離していたのかもしれない。
一度、見回りの男と目が合いかけた瞬間があった。心臓が、喉から飛び出しそうなほど跳ねた。あたしはとっさに、地面に転がっていた壊れた甕の破片を、遠くの茂みに投げつけた。音に気を取られた男が視線を逸らした隙に、あたしは反対方向の茂みへと、一気に駆け抜けた。
そのまま、夜通し森を彷徨い、明け方近くになって、偶然通りかかった旅の老人に拾われた。それが、後の師匠だった。
倒れ込むように座り込んだあたしの前に、師匠は静かにしゃがみ込んだ。手には、道中で摘んだらしい木の実を持っていた。
「腹が減っているだろう」
穏やかな声だった。それまで張り詰めていた緊張の糸が、その一言だけで、あっけなく切れた。あたしは、声を上げて泣いた。生まれて初めて、あんなに大きな声で泣いたと思う。師匠は、何も聞かずに、ただ黙って隣に座り続けてくれた。その静かな存在感だけで、あたしはようやく、生きて朝を迎えられたことを実感できた。
「震えているくせに、目だけは死んでいなかった。生き延びる算段だけは、しっかり立てていたようだの」
出会った時、師匠はそう言って、笑っていた。あの一晩の逃走こそが、あたしの原点であり、これまでのどんな武勇伝よりも、誇らしい記憶だった。誰の助けもなく、たった一人で、生き延びた夜。
あの夜があったから、今のあたしがいる。逃げることは、みっともないことじゃない。生き延びるための、立派な技術だ。師匠が教えてくれたことの本質は、きっとそこにあった。今、こうして仲間を守るために立っていられるのも、あの夜の記憶があったからこそだった。
「チキン流」
叫びながら、あたしは全身にその記憶を巡らせた。これまで感じたことのない熱が、腕から刃へと流れ込んでいく。
「雲隠れ」
刃を振り抜いた瞬間、辺り一面が、白い霧のような光の奔流に包まれた。ガイン・オルスの姿が、一瞬にして視界から掻き消える。あたし自身も、自分の体がどこにあるのか、一瞬分からなくなるほどの衝撃だった。
これまで放ってきたどの技とも、明らかに桁が違った。腕を伝う痺れは、もはや痛みに近く、全身の血が沸き立つような感覚が、頭の芯まで駆け抜けていく。それでも、意識だけは、不思議なくらい澄み渡っていた。
「これは」
ガイン・オルスの驚きの声が、霧の向こうから響いた。これまで一度も揺らがなかったその声に、初めて動揺の色が滲んでいた。あたしは、その隙を逃さず、一気に間合いを詰めた。刃が、確かな手応えとともに、相手の防御を打ち破る。
「ぐっ」
初めて、ガイン・オルスの口から、苦悶にも似た声が漏れた。あたしは、荒い息のまま、剣を構え直す。全身から力が抜けていくような、これまで感じたことのない疲労感が押し寄せていた。
視界が、端の方から少しずつ暗くなっていく。それでも、目の前の相手から、目を離すわけにはいかなかった。歯を食いしばり、意識を繋ぎ止める。全力放出の代償が、想像以上に重いことを、体の芯で理解していた。
「これで、終わり」
声を絞り出すように、あたしは言った。ガイン・オルスは、片膝をつきながらも、まだ油断のない目でこちらを見据えていた。
離れた場所で様子を見守っていたセシルとトトが、崩れた石壁の陰から駆け寄ってきた。二人の顔には、安堵と興奮が入り混じった表情が浮かんでいた。
「リク、今の技、すごい光だった」
トトが、興奮した様子で声を上げた。セシルも、手帳を握りしめたまま、目を見開いている。
「今のが、雲隠れ。噂には聞いてたけど、実際に見ると、桁が違う」
セシルの声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。手帳を持つ手が、微かに震えている。
二人の反応に、あたしは荒い息のまま、力なく笑った。全身の力が抜けきって、立っているのもやっとの状態だった。膝が、今にも崩れ落ちそうだった。
「ヴァレナ、大丈夫」
「うん。あんたのおかげで、助かった」
ヴァレナの声には、心からの安堵が滲んでいた。
ヴァレナが、拾い上げた剣を鞘に収めながら、あたしの肩をそっと支えてくれた。その手つきには、これまでの旅で積み重ねてきた優しさが、確かに滲んでいた。その手の温かさに、張り詰めていた気持ちが、少しずつ緩んでいくのを感じた。遠くで、崩れた石壁越しに、朝の光が差し込み始めていた。長い夜が、ようやく終わろうとしていた。すべてが終わったわけではないと分かっていても、今この瞬間だけは、確かな安堵に包まれていた。
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