(3)宿へ、そして伏線
三人で宿の裏口に転がり込んだのは、追手の声が三つ目の路地に消えた直後だった。
裏口の扉を開けると、厨房の温かい匂いがどっと押し寄せてきた。焼いたパンと、煮込んだ野菜の匂い。空腹だったことを、その匂いで初めて自覚する。走っている間はまるで気にならなかったのに、安全な場所に着いた途端、腹の虫がやけに正直に反応してしまった。
「あんたたち、また息切らして」
出迎えたのはノラだった。恰幅のいい体つきに、いつも同じ色の前掛け。この宿を女手一つで切り盛りしている、あたしたちの行きつけの主人だ。盆を片手に、笑いを含んだ声で言う。
「毎回のことだろ」
「毎回だから言ってるんだよ」
「文句を言うわりに、辞める気配は一向にないよね」
セシルが横から口を挟む。図星すぎて、返す言葉が出てこなかった。
「向いてないと思いながら、なんだかんだ続けてるって、逆に才能なんじゃないの」
「それ、褒めてるつもり?」
「さあ、どうだろう」
ノラが片目をつぶってみせる。褒め言葉なのか皮肉なのか、その場では判断がつかないところが、この人らしいと言えばらしい。長年この宿を切り盛りしてきただけあって、人をからかう間合いの取り方だけは絶妙だった。
椅子に崩れ落ちるように座ると、セシルが懐から手帳を取り出し、走りながら数えていたらしい数字を書きつけた。
「今ので、だいたい三百歩ってところかな」顔も上げずに言う。「換算だと、街の門一枚分にも届かない」
「うるさいなあ。細かいことは気にしない主義」
「気にしないと、そのうち大赤字になるよ」
「向こうが先に殴りかかってきたんだって」
「言い訳が早い」ヴァレナが横から口を挟む。「毎回、そうやって理由をつける」
「理由じゃなくて事実でしょ」
「事実でも、毎回言うから理由に聞こえる」
言い返せず、あたしは黙って肩をすくめた。セシルが木炭の先で手帳を軽く叩く。
「ちなみに、今ので消費したのは溜めた分のほんの端っこ。奥義級を撃つには、まだ全然足りない。溜めるのに時間がかかる分、使いどころは選ばないとね」
「わかってるよ、それくらい」
「わかってて聞くのと、わかってなくて聞かずにやらかすのとじゃ、全然違うから念のため」
セシルの声には、いつになく念押しの色が滲んでいた。何か気になることでもあるのか、と思ったけど、聞いても教えてくれないだろうと分かっていたので、あえて聞かなかった。
「わかってて毎回小出しにするのが、リクのリクたる所以だと思う」
「所以って言葉、あんたに使われると妙に貫禄が出るね」
「褒めてる?」
「さあ、どうだろうね」
セシルはそれ以上答えず、涼しい顔で手帳をめくった。
ノラが、盆をテーブルに置きながら口を挟んだ。
「そういえば、チキン流の使い手って珍しいらしいね。この間、旅の商人が話してたよ」
「え、あたしのことじゃん」
思わず食いついた。自分の流派の話をされているだけなのに、まるで有名人の噂話でも聞いたみたいな反応をしてしまう。
いや尤も、もともと流派に名前はないから、私が勝手に名乗ってるんだし。良く知れ渡ったよね。
まあ、毎回叫んでるからか。
ヴァレナが呆れた目でこちらを見た。
「お前の話だよ、それ」
「知ってる。知ってるけど、他人から聞くと新鮮なの」
「新鮮って言い方でごまかすな」
小耳に挟んだんだけどさ、と続けて、ノラが声を落とす。
「賞金首の値、また上がったよ。しかも今度は、名の知れた賞金稼ぎが乗り出してきたって噂だ」
「名の知れた、って」
「あたしも詳しくは知らないよ。ただ、逃がさない、で有名な人らしいってことしか」
逃がさない。その一言だけが、やけに耳に残った。
「有名な賞金稼ぎ、って括りにあたしも入るのかな」
「入らないでしょ、まだ」セシルが即答する。「あんたは、有名っていうより、悪目立ちしてる側。区別してほしい」
「悪目立ちって言い方、ひどくない?」
「事実でしょ。岩を消し飛ばして、後継者の任を蹴って、逃げ足だけで名を上げた。悪目立ち以外の何だっていうの」
反論できなかった。事実は事実だ。認めたくないだけで。
「まあ、名を上げたのは事実だから、良しとしよう」
「良しとするところ、そこなんだ」
ノラが呆れたように笑う。あたしは肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。都合の悪いところは聞かなかったことにする。これも、生き延びるための立派な処世術の一つだと思っている。
「結構なことだ」
椅子に腰を下ろし、鞘ごと刃をテーブルに置く。軽口とは裏腹に、刃を見る目だけが、少しの間だけ真剣だった。
宿の外から、行商人たちの談笑する声が聞こえてくる。誰も彼も、今日一日を無事に終えたことにほっとしているような、緩んだ声だった。あたしたちの席だけ、少し違う温度で夜が始まろうとしていた。
セシルが手帳から顔を上げ、その横顔をちらりと見る。何か言いかけて、やめた。
ヴァレナだけは何も聞かなかった。ただ、椅子から立ち上がり、部屋の奥へ入っていく。誰かに聞かれたくない話でもするように、足音を潜めて。
その後ろ姿を、セシルがちらりと見送った。何か言いたげな顔をしていたけど、結局、口には出さなかった。この二人の間には、あたしの知らない何かが、時々ふっと横切る。詮索するほど野暮ではないつもりだけど、気にならないと言えば嘘になる。いつか誰かが自分から話してくれる、その日まで待つことにしている。
「飯、まだか」
あたしはテーブルに突っ伏し、大きく伸びをした。
「腹が減ってると、悪いことばかり考えるタイプ?」
セシルが手帳から目を離さずに聞いてくる。
「悪いことっていうか、余計なことを考えるタイプ。だから飯だけはちゃんと食う。師匠の教えでもある」
「また師匠か」
ヴァレナが片眉を上げた。あたしは慌てて話をそらす。
「別に、その話はもういい」
「珍しいね、あんたが自分から話を切り上げるの」
「珍しくもなんともない。話したくないときには話したくない、それだけ」
セシルが手帳に何か書きつけながら、ちらりとこちらを見た。何を書いているのか、聞く気にはなれなかった。聞いたところで、そう簡単に素直に教えてくれる相手でもない。
今日のところは、これでいい。免許皆伝の式典から逃げた日も、こうやって、とりあえず飯を食って終わった。何も変わっていない。変わっていないことが、案外、悪くないと思う。
逃がさない、と誰かが噂している。その言葉の意味を、あたしはまだ知らない。
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