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チキンナイフと呼ばれた少女 ~逃げて逃れて世界最強~  作者: 荒瀬 維人
1章 チキンナイフ、誕生

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(3)宿へ、そして伏線

三人で宿の裏口に転がり込んだのは、追手の声が三つ目の路地に消えた直後だった。


裏口の扉を開けると、厨房の温かい匂いがどっと押し寄せてきた。焼いたパンと、煮込んだ野菜の匂い。空腹だったことを、その匂いで初めて自覚する。走っている間はまるで気にならなかったのに、安全な場所に着いた途端、腹の虫がやけに正直に反応してしまった。


「あんたたち、また息切らして」


出迎えたのはノラだった。恰幅のいい体つきに、いつも同じ色の前掛け。この宿を女手一つで切り盛りしている、あたしたちの行きつけの主人だ。盆を片手に、笑いを含んだ声で言う。


「毎回のことだろ」


「毎回だから言ってるんだよ」


「文句を言うわりに、辞める気配は一向にないよね」


セシルが横から口を挟む。図星すぎて、返す言葉が出てこなかった。


「向いてないと思いながら、なんだかんだ続けてるって、逆に才能なんじゃないの」


「それ、褒めてるつもり?」


「さあ、どうだろう」


ノラが片目をつぶってみせる。褒め言葉なのか皮肉なのか、その場では判断がつかないところが、この人らしいと言えばらしい。長年この宿を切り盛りしてきただけあって、人をからかう間合いの取り方だけは絶妙だった。


椅子に崩れ落ちるように座ると、セシルが懐から手帳を取り出し、走りながら数えていたらしい数字を書きつけた。


「今ので、だいたい三百歩ってところかな」顔も上げずに言う。「換算だと、街の門一枚分にも届かない」


「うるさいなあ。細かいことは気にしない主義」


「気にしないと、そのうち大赤字になるよ」


「向こうが先に殴りかかってきたんだって」


「言い訳が早い」ヴァレナが横から口を挟む。「毎回、そうやって理由をつける」


「理由じゃなくて事実でしょ」


「事実でも、毎回言うから理由に聞こえる」


言い返せず、あたしは黙って肩をすくめた。セシルが木炭の先で手帳を軽く叩く。


「ちなみに、今ので消費したのは溜めた分のほんの端っこ。奥義級を撃つには、まだ全然足りない。溜めるのに時間がかかる分、使いどころは選ばないとね」


「わかってるよ、それくらい」


「わかってて聞くのと、わかってなくて聞かずにやらかすのとじゃ、全然違うから念のため」


セシルの声には、いつになく念押しの色が滲んでいた。何か気になることでもあるのか、と思ったけど、聞いても教えてくれないだろうと分かっていたので、あえて聞かなかった。


「わかってて毎回小出しにするのが、リクのリクたる所以だと思う」


「所以って言葉、あんたに使われると妙に貫禄が出るね」


「褒めてる?」


「さあ、どうだろうね」


セシルはそれ以上答えず、涼しい顔で手帳をめくった。


ノラが、盆をテーブルに置きながら口を挟んだ。


「そういえば、チキン流の使い手って珍しいらしいね。この間、旅の商人が話してたよ」


「え、あたしのことじゃん」


思わず食いついた。自分の流派の話をされているだけなのに、まるで有名人の噂話でも聞いたみたいな反応をしてしまう。


いや尤も、もともと流派に名前はないから、私が勝手に名乗ってるんだし。良く知れ渡ったよね。


まあ、毎回叫んでるからか。


ヴァレナが呆れた目でこちらを見た。


「お前の話だよ、それ」


「知ってる。知ってるけど、他人から聞くと新鮮なの」


「新鮮って言い方でごまかすな」


小耳に挟んだんだけどさ、と続けて、ノラが声を落とす。


「賞金首の値、また上がったよ。しかも今度は、名の知れた賞金稼ぎが乗り出してきたって噂だ」


「名の知れた、って」


「あたしも詳しくは知らないよ。ただ、逃がさない、で有名な人らしいってことしか」


逃がさない。その一言だけが、やけに耳に残った。


「有名な賞金稼ぎ、って括りにあたしも入るのかな」


「入らないでしょ、まだ」セシルが即答する。「あんたは、有名っていうより、悪目立ちしてる側。区別してほしい」


「悪目立ちって言い方、ひどくない?」


「事実でしょ。岩を消し飛ばして、後継者の任を蹴って、逃げ足だけで名を上げた。悪目立ち以外の何だっていうの」


反論できなかった。事実は事実だ。認めたくないだけで。


「まあ、名を上げたのは事実だから、良しとしよう」


「良しとするところ、そこなんだ」


ノラが呆れたように笑う。あたしは肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。都合の悪いところは聞かなかったことにする。これも、生き延びるための立派な処世術の一つだと思っている。


「結構なことだ」


椅子に腰を下ろし、鞘ごと刃をテーブルに置く。軽口とは裏腹に、刃を見る目だけが、少しの間だけ真剣だった。


宿の外から、行商人たちの談笑する声が聞こえてくる。誰も彼も、今日一日を無事に終えたことにほっとしているような、緩んだ声だった。あたしたちの席だけ、少し違う温度で夜が始まろうとしていた。


セシルが手帳から顔を上げ、その横顔をちらりと見る。何か言いかけて、やめた。


ヴァレナだけは何も聞かなかった。ただ、椅子から立ち上がり、部屋の奥へ入っていく。誰かに聞かれたくない話でもするように、足音を潜めて。


その後ろ姿を、セシルがちらりと見送った。何か言いたげな顔をしていたけど、結局、口には出さなかった。この二人の間には、あたしの知らない何かが、時々ふっと横切る。詮索するほど野暮ではないつもりだけど、気にならないと言えば嘘になる。いつか誰かが自分から話してくれる、その日まで待つことにしている。


「飯、まだか」


あたしはテーブルに突っ伏し、大きく伸びをした。


「腹が減ってると、悪いことばかり考えるタイプ?」


セシルが手帳から目を離さずに聞いてくる。


「悪いことっていうか、余計なことを考えるタイプ。だから飯だけはちゃんと食う。師匠の教えでもある」


「また師匠か」


ヴァレナが片眉を上げた。あたしは慌てて話をそらす。


「別に、その話はもういい」


「珍しいね、あんたが自分から話を切り上げるの」


「珍しくもなんともない。話したくないときには話したくない、それだけ」


セシルが手帳に何か書きつけながら、ちらりとこちらを見た。何を書いているのか、聞く気にはなれなかった。聞いたところで、そう簡単に素直に教えてくれる相手でもない。


今日のところは、これでいい。免許皆伝の式典から逃げた日も、こうやって、とりあえず飯を食って終わった。何も変わっていない。変わっていないことが、案外、悪くないと思う。


逃がさない、と誰かが噂している。その言葉の意味を、あたしはまだ知らない。


最後までありがとうございました!


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それでは次回の更新をお楽しみに!

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