(2)逃走、そしてチキンナイフ
乾いた土埃と、遠くの市場から流れてくる香辛料のにおいが混じる街道だった。日差しは高く、影が短い。
あれから、何年経っただろう。数えるだけ無駄なので、数えない。
気づけば、あたしは賞金首と呼ばれるようになっていた。理由は簡単。国境防衛の任を蹴った上に、式典の岩を粉砕した噂が、思ったより広く出回ったからだ。人の口に戸は立てられない。おまけに尾ひれまでついて、今では国を三つ滅ぼした女、くらいの扱いになっている。滅ぼしてない。岩を一個壊しただけだ。
今日も、ヴァレナ、セシルと三人で街道を歩いていたら、それだった。
背が高くがっしりした体格に、後ろで束ねた髪。腕のあちこちに古い傷跡が残っている。両手剣を背負って歩くだけで只者じゃないと分かるのがヴァレナだ。あたしより四つ上の二十三歳、パーティーの中で唯一のまともな大人をやってくれている。
隣を歩くセシルは、小柄な体に癖のある髪をひとつにまとめた十五歳。肩から提げた鞄には測量道具一式が詰まっていて、指先にはいつもインクか木炭の跡がある。数字と換算にうるさい、パーティーの経理担当だ。
背中に足音を感じている。四人。多いな、と思う。それだけあたしの二つ名が有名になった証拠でもある。悪くない。悪くないが、今はそれどころじゃない。
「また?」ヴァレナが振り返りもせずに言う。「今週、これでもう何人目だろうね」
「数えてない」
「数えなよ、そういうの」
セシルが呆れた声で口を挟む。数えたところで何かが変わるわけでもないのに、この二人は妙に数字にこだわる。
「そこの女、大人しく縄につけ」
それじゃ縄くらい持ってきてよ。なんで剣振り回しながら追ってくるのよ?! 縄につけと言う人間の装備じゃない、それ。大人しく、の部分も、まるごと信用ならない。
石畳を蹴る。角を折れる。息が上がる。喉が焼ける。それでも足を止める理由はない。止まった瞬間、今日稼いだ分がまるごと消える。もったいない。もったいなさすぎる。
追手の足音は、思ったよりしぶとかった。四人とも、それなりに鍛えているらしい。賞金首の価値も上がったものだと、こんなときに妙な感心をしてしまう。感心してる場合じゃないのは、自分が一番よく分かっている。
一番足の速い男が追いついてきた。棍棒を振りかぶっている。避けきれない。
棍棒て。この人数差で棍棒て。マジビの通販で見た装備、もうちょい良いのなかったわけ。
「ヴァレナ、セシル、ここはあたしに任せて先に行け!」
我ながら、いい啖呵だった。
こん棒の男が警戒して動きを止めた瞬間、あたしは踵を返して二人より先に逃げ出す。
「はあ? 任せてって言った意味、ある?」
こんなことに慣れっこなヴァレナが私の後を追いながら呆れた声で言う。
「ない」
「じゃあ言うな」
「言いたかっただけ」
セシルが、走りながら笑いを堪えるような声で言った。
「世界で一番あてにならない仲間がいてよかったよ」
皮肉だと分かっていても、ちょっと嬉しい。
仕方ない。ほんの少しだけ、貸してもらう。
「チキン流、昨日つまみぐいしたときのやつ」
叫んだわりに、大した技じゃない。刃を半分抜いて、軽く払っただけだ。それだけで、男の体が見えない壁にぶつかったみたいに弾かれた。声も出せずに尻餅をつく。残りの三人が、ぴたりと足を止めた。
「悪いね。手加減してあげたんだから、感謝してほしいくらいなんだけど」
本当は、手加減というより、これしか出せなかっただけだ。そこは黙っておく。本気で記憶を注ぎ込めば一発で片がつくが、岩を一つ壊すたびに賞金首の値が上がるのは、もう懲りている。
倒れた男を見下ろしながら、残りの三人が顔を見合わせた。逃げるか、続けるか、迷っているのが丸わかりだ。迷うくらいなら、最初から来なければいいのに。
「チキンナイフ……」
誰かがつぶやいた声が、やけにはっきり聞こえた。
「そう、それがあたしだ」
語感、悪くないでしょ。自分で言うのもなんだけど、こういう瞬発力だけは自信がある。
走りながら、ヴァレナが横目でこちらを見た。
「また新しい名乗り、増えたね」
「増やしたつもりはないけど、勝手に増える」
「悪い気はしてないくせに」
図星だった。言い返す言葉が出てこない。
三人で走り出す。二つ名を名乗るのに、胸を張る必要はない。臆病者と呼ばれることを、あたしは怖がっていない。怖いのは、立ち止まって、誰かを守れなくなることのほうだ。
なんて、柄にもなく格好つけてみたけど、実際のところは、単に面倒事が嫌いなだけかもしれない。とはいえ、我ながら悪くない捨て台詞だった。あとで頭の中の台詞帳に書き留めておく。逃げ台詞のストックは、多いに越したことがない。
「今の何点」
セシルに聞くと、また容赦のない声が返ってきた。
「七十点。減点理由は、聞かれてもないのに採点を求めたこと」
「厳しいな」
「甘くしたら伸びないタイプでしょ、あんた」
否定できなかった。残った三人は、もう追ってこなかった。
路地を三本ほど折れたところで、ようやく足を緩めた。息が切れて、しばらく声が出ない。ヴァレナは涼しい顔をしているし、セシルも呼吸こそ乱れているものの、平然と手帳を開いている。体力の差を、こういうときにまざまざと見せつけられる。
「あんたら、もうちょっと疲れた顔してくれない?」
「疲れてないわけじゃない」ヴァレナが言う。「ただ表に出さないだけ」
「出してよ、少しくらい。あたし一人だけ息切れしてると、なんか損した気分になる」
「それは、あんたの日頃の鍛え方の問題でしょ」
セシルの正論に、返す言葉がなかった。日頃の鍛え方と言われると、耳が痛い。鍛えるより逃げるほうが得意だ、と開き直りたいところだけど、それを言うとまた説教される気がして、黙っておいた。
壁に背をつけて、しばらく空を見上げる。夕暮れの色が、少しずつ、濃くなっていった。今日も無事に生き延びた、というだけで、悪くない一日だったことにする。基準は低いほうが、毎日を気分よく終えられる。
空はもう、藍色に近づいていた。星が出るまで、そう長くはかからない。
「宿、戻ろっか」
「戻ろう」
ヴァレナが短く答えて、先に歩き出した。セシルは手帳を閉じながら、こちらをちらりと見た。
「今日の分の換算、あとで見せるから」
「見なくても、だいたい分かるんだけどね。大した距離じゃないでしょ、どうせ」
「大した距離じゃないからこそ、記録には残す。積もり積もれば、いつか意味を持つはずだから」
その言い方が、なんだか妙に師匠の口癖と似ていた。指摘すると、セシルは怪訝な顔をした。
「誰の口癖と似てるって?」
「いや、なんでもない」
聞かれても、うまく説明できる自信がなかった。師匠の話は、あまり得意じゃない。懐かしいような、少し気恥ずかしいような、うまく言葉にできない感情がついてくる。あたしはそのまま、二人の後ろをついて歩き出した。
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