(1)稽古の記憶、そして式典
土を踏み固めた道場の裏庭は、朝のにおいがした。夜露の残る草の匂いに、木刀の削りかすが混じる。風が竹垣を鳴らすたび、遠くで鳥が短く鳴いた。
「では、リク。仕上げを見せてもらおうか」
免許皆伝の一歩手前、道場の裏庭でのことだ。
「師匠、今日はマジビの占いで運勢最悪らしいんで、明日じゃダメっすかねぇ」
マジビ。正式にはマジビジョンという。大昔、異世界から来たとかいう来訪者が作り上げたという、魔法仕掛けのテレビのことだ。占いから流行りの歌まで、なんでも映してくれる。もっとも、当たった試しは一度もない。
準備は万端だったくせに、それらしい理由を並べてみる。占いを言い訳にするのは、我ながら苦しいと分かっている。だけど、他に使える言い訳の在庫が、あいにく切れていた。
師匠は、いつものにこにこ顔を崩さないまま、目の奥だけ少し鋭くして、首を横に振った。あたしが小細工を仕掛けるたび、この人はいつもこの顔をする。
「人はな……」
「あ、いつものっすね」
先読みして茶化したのに、師匠はまるで動じない。にこにこ顔のまま、いつもの調子で続けた。
「ゼロから始まることはないんじゃ。挫折と後悔のすべてが、おまえの力になっておるよ」
「いやぁ、挫折や後悔になりそうな記憶なら山ほどあるんすけど、悔いたことは一度もないんすよねぇ」
軽口のつもりだった。師匠の目は笑ったままなのに、なぜだか少しだけ鋭くなった。気のせいだと思うことにする。
周りに集まった数少ない兄弟弟子たちの、不安そうな顔が、あたしのやる気を余計に上げてくれる。これで大岩を両断なんかしちゃったら、みんなびっくりするだろうな、と思うと、口元が緩んだ。
言われた通り、後悔を力に変えるつもりで刃を構える。これまでの人生で味わった苦い記憶を、一つひとつ思い浮かべる。反省する。悔いる。心を込めて、悔いる。
何も起きなかった。
「あれ」
「あれ、じゃない」師匠が呆れた声を出す。「まったく積もっとらんぞ」
「後悔してるんすけどね、今まさに」
「今のは後悔ではなく言い訳じゃ」
的確すぎて言い返せなかった。長年の付き合いだけあって、こういう見抜き方だけは的確だ。褒められた特技じゃないと思う。
師匠はしばらく黙って、あたしの刃を眺めていた。そして、思いついたように言う。
「理屈は捨てい。ただ、胸を張れる話を、そのまま叫んでみい」
「はっ?」
「後悔も反省もいらん。誇れる事実だけでいい」
言われた通り、頭の中を探る。胸を張れる記憶ならいくらでもある。ちょうどいい大きさのやつを、と選んだのが、これだった。
「チキン流、師匠のハチミツビスケットを盗み食いしたときのやつ」
我ながら、こんな真面目な稽古の場で叫ぶ名前じゃない。分かってはいるが、あの日、戸棚の奥まで手を伸ばして、誰にも見つからず逃げおおせた達成感だけは、今でも鮮明だ。
刃が唸る。次の瞬間、目の前の岩は跡形もなく両断されていた。
周りで見ていた兄弟弟子たちが、小さくどよめいた。誰かが息を呑む音がした。師匠だけは、驚いた様子もなく、ただ静かに頷いた。粉々になった岩を見ても、眉一つ動かさない。この人の驚かなさには、いつも助けられている。
「ふん。妙な会得の仕方をしよる」
「褒めてます?」
「褒めておらん」にこにこ顔のまま、きっぱり否定された。「じゃが、覚えておくといい。誇れる記憶の大きさが、そのまま器の大きさになる。小さな武勇伝は小さな器、大きな武勇伝は大きな器。今のは、ビスケット一枚分の器じゃ」
理不尽だと思う。それでも、悪い気はしなかった。
それから何日か経って、あたしは正式な免許皆伝の式典に立っていた。
人生で一番目立ってはいけない日に、あたしは一番目立つことをしようとしていた。
集まった顔ぶれは、道場に世話になった顔見知りが十数人。それと、なぜか妙に偉そうな身なりの役人が二人。師匠の姿はない。人前に出るのが苦手な人だ、と聞いていた。
役人の一人が、庭の隅の岩を指して言う。
「では、これへ。免許皆伝の証として、その一撃を」
もう一人の役人は、羊皮紙を片手に何やら熱心に書き込んでいた。何を記録することがあるのか、正直、まったく見当もつかない。あたしはまだ、岩を壊してすらいないのに。
かっこいい台詞の一つも欲しいところだけど、頭の中は真っ白だ。あたしは息を吸って、鞘に手をかけた。ビスケット一枚分じゃ、たぶん役人二人の目の前で格好はつかない。もっと大きい器がいる。
記憶の中から、一番胸を張れる一枚を引っ張り出す。免許皆伝を控えたひと月前、仮病を使って稽古を丸一日さぼり、こっそり街まで繰り出した日のことだ。
祭りの屋台を食べ歩き、日が暮れるのも忘れて遊び回った。道場に戻ったのは、とうに門限を過ぎた真夜中。門の前には、兄弟弟子たちがずらりと並んで待ち構えていた。言い訳のしようもない。覚悟を決めて頭を下げようとしたそのとき、列の一番奥にいた師匠が、何も言わずに背を向けて自分の部屋に戻っていくのが見えた。
翌朝、部屋の前に、こっそり握り飯が置いてあった。誰が置いたのか、聞くまでもなかった。あの人は、叱る代わりに、飯を用意する人だった。
道場のみんなを丸ごと騙して、それでも誰にも本気で怒られなかった、なかなか堂々とした大脱走。ビスケットよりは、よほど大きな武勇伝だ。
「チキン流、修行を仮病でさぼったときのやつ」
叫んだ瞬間、刃が光った。あたし自身が一番驚いた。
岩が消えた。粉々に、というのも生ぬるい。文字通り、消えた。あとに残ったのは、地面にうっすら残った円形のくぼみだけだった。
役人の一人が、握っていた羊皮紙を取り落とした。もう一人は、口を開けたまま声も出せずにいる。集まった兄弟弟子たちの間から、押し殺しきれないどよめきが広がった。
え、器がでかいと聞いてはいたけど、ここまでとは。師匠、ちゃんと加減教えてくれた? 教えてくれてないよね? あたしは自分の刃を二度見した。声には出さなかったが、顔には出ていたと思う。
静まり返った庭に、役人の乾いた声が響く。
「た、大変結構。ついては、リク殿には、正式に本流の後継者として、国境防衛の任に就いていただきたく」
「本流の免許皆伝者がこの威力を出した場合、国境守備隊への推薦は規定により決まりとなっております。加えて、リク殿ほどの逃走能力は、国境防衛において実戦的価値が高いと判断されます」
はっ? いや待って、あたし今、岩を一個壊しただけだよね? なんでそれが国境防衛に直結するの? 話が三段くらい飛んでない? しかも後継者て、この場に他の弟子いないの、あたし以外。事前相談ゼロで責任だけ積まれてる。
来た。来た来た来た。一番聞きたくなかった台詞だ。
後継者。任務。責任。全部、あたしが一番苦手なやつだ。強くなりたかっただけなのに、いつの間にか、強くなった後の面倒事のほうが大きくなっている。世の中、うまくできていない。
耳の奥に、師匠の声がよみがえる。挫折と後悔のすべてが、おまえの力になっておるよ。だったら、あたしが今から積むのは、後継者としての実績じゃない。逃げた距離だ。今この瞬間から、その方針で生きる。
「いえいえ、謹んで辞退します」
「な、なんと」
「あ、バイトの時間だ! それは今日はこれにて失礼」
言い終わる前に、あたしは走り出していた。式典の垂れ幕をくぐり、役人の横をすり抜け、正門ではなく塀を飛び越える。後ろで、誰かの怒鳴り声が続いた。
あとになって知ったことだけど、あの場に居合わせた兄弟弟子の一人が、逃げていくあたしの背中を見て、こんなことを言っていたらしい。免許皆伝の証を立てておきながら塀を飛び越えて逃げるなんて、前代未聞だ、と。前代未聞、悪くない響きだと思う。
こうして、あたしの二つ名は決まった。
チキンナイフ。
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