(26)傷を癒す時間
山あいの村は、静かだった。宿の裏手に流れる小川のせせらぎが、絶え間なく耳に届く。夜になると、虫の声が重なり合い、昼間の緊張が嘘のように穏やかな空気が満ちていた。
ヴァレナの傷は、セシルの手当てのおかげで、思ったより早く塞がり始めていた。それでも、無理に動かせば、まだ痛みが走る。宿の一室で、あたしたちは久しぶりに、腰を据えて休むことにした。
「まだ痛む?」
「少しね。でも、動けないほどじゃない」
ヴァレナは、脇腹の包帯にそっと触れながら答えた。その仕草には、いつもの余裕がまだ戻っていない。得物の柄に触れる癖すら、今日は控えめだった。
「無理はしないで。次に会うとき、万全じゃないと」
「分かってる」
短いやり取りの後、セシルが手帳を木炭の先で軽く叩きながら、机の前に座った。
「昨日の戦闘、記録を整理した。ガイン・オルスの動き、いくつか気になる点がある」
「どんな点」
「一つ、攻撃の間合いが、常に一定だった。癖というより、意図的に距離を測ってる感じがする。二つ、ヴァレナの剣筋を見てから、初めて本格的に反応速度を上げてきた。つまり、最初は様子見だった」
セシルの分析に、あたしは黙って耳を傾けた。冷静な言葉の端々に、昨日の恐怖をねじ伏せようとする意志が滲んでいる。
「三つ、退くときの判断が早すぎる。損得勘定だけで動く相手には見えない。何か、別の理由がある気がする」
「理由って」
「分からない。でも、依頼主への忠誠か、あるいは契約上の縛りか。何にせよ、あの男は、必要以上のことをしない」
トトは、部屋の隅で膝を抱えて座っていた。話の内容が怖いのか、それとも別のことを考えているのか、視線は窓の外に向いたままだった。
「トト、大丈夫?」
声をかけると、トトはびくりと肩を震わせてから、小さく頷いた。
「うん。ただ、また来るのかなって」
「来ると思う。でも、今度は、ちゃんと準備してから会える」
「準備って、できるの」
トトの問いに、あたしはすぐには答えられなかった。ガイン・オルスの実力は、これまで対峙した誰よりも底が見えない。正直な言葉を返すべきか、迷いが胸をよぎる。
「分からない。でも、逃げるだけじゃなくて、次はちゃんと向き合う準備を、少しずつでもしていきたい」
「向き合うって、戦うってこと」
「戦うことになるかもしれない。それでも、あんたを守れなくなるような戦い方はしない」
トトは、しばらく黙り込んでから、小さく頷いた。完全に納得したわけではなさそうだったけど、それ以上は聞いてこなかった。
窓の外では、村の明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。夕食の支度をする匂いが、微かに漂ってくる。穏やかな日常の気配が、昨日までの緊張を、少しずつ和らげていくようだった。
「今夜は、ゆっくり休もう」
ヴァレナの言葉に、誰も異論はなかった。セシルは手帳を閉じ、トトはようやく肩の力を抜いた。あたしも、久しぶりに、深く息を吐いた。
明日からのことは、明日考えればいい。今は、この静かな夜を、大切に過ごしたかった。
翌朝、あたしは日の出とともに目を覚ました。宿の裏手に出ると、朝靄が谷筋を這うように流れ、鳥の声が澄んだ空気を震わせていた。ヴァレナが、すでに井戸端で顔を洗っていた。
「早いね」
「傷のせいで、あまり眠れなかった」
苦笑いを浮かべながら、ヴァレナは肩を回した。動きに、まだ硬さが残っている。それでも、昨日よりは確実に良くなっているようだった。
「今日は、無理せず休んで」
「そのつもり。セシルにも、そう言われた」
井戸の水を汲みながら、ヴァレナはぽつりと呟いた。
「あの男、次に会うとき、あたしが足を引っ張らないようにしたい」
「足なんて引っ張ってない。昨日だって、あんたの動きがあったから、あたしも踏み込めた」
「そう言ってもらえると、助かる」
ヴァレナは、珍しく素直にそう言うと、桶を持ち上げて宿へ戻っていった。その背中を見送りながら、あたしは改めて、この仲間たちの存在の重さを噛み締めた。
朝食の席では、セシルが地図を広げていた。木炭の先で、村から続く道筋をなぞりながら、次の行き先を検討している。
「このまま南に下れば、大きな街道に出る。情報を集めるなら、そこが一番早い」
「街道に出たら、また見つかりやすくなるんじゃ」
「リスクはある。でも、こっちから情報を取りに行かないと、いつまでも後手に回る。ガイン・オルスの依頼主が何を考えてるのか、少しでも知りたい」
セシルの言葉には、昨日の戦闘を経てなお揺るがない、芯の強さがあった。トトは、パンをちぎりながら、黙って話を聞いている。
「トトも、それでいい?」
聞いてみると、トトは少し考えてから頷いた。
「怖いけど、逃げてばっかりも、疲れた」
その言葉に、みんなが小さく笑った。緊張の中にも、確かな結束が生まれつつあることを、あたしは肌で感じていた。
食後、宿の主人に礼を言い、あたしたちは荷物をまとめ始めた。窓から差し込む朝日が、机の上の地図を明るく照らしていた。
荷物をまとめながら、あたしはふと、昨日の戦いを思い返していた。ガイン・オルスの剣筋には、無駄な動きが一つもなかった。恐怖よりも先に、その徹底ぶりに、妙な感心すら覚えていた自分がいる。
「何、考えてるの」
ヴァレナが、荷造りの手を止めずに聞いてきた。
「あの男のこと。強いのは分かってたけど、想像以上だった」
「あたしも、正直、怖かった。でも、また会うなら、今度こそ引かない」
ヴァレナの声には、静かな決意がこもっていた。脇腹の傷が疼くのか、時折顔をしかめながらも、その目は真っ直ぐ前を見ていた。
宿を出ると、村の通りには、すでに人々の活気が満ちていた。朝市の準備をする声、家畜の鳴き声、パンを焼く匂い。昨日までの緊迫した空気とは対照的な、穏やかな日常がそこにあった。
「こういう景色を見ると、あたしたちがやってることの意味を、ふと考えちゃう」
トトが、ぽつりと呟いた。
「意味って」
「みんな、普通に暮らしてる。あたしたちだけが、追われて、逃げて。なんか、不公平な気がする」
「不公平かもしれない。でも、この生活を続けてるからこそ、出会えた仲間もいる」
あたしの言葉に、トトは少し驚いたような顔をしてから、小さく微笑んだ。
「そうだね。あたしも、みんなに会えて、よかったって思ってる」
その一言に、朝の空気が、少しだけ温かくなった。あたしたちは、南へ続く街道を目指して、村を後にした。
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