(25)退路
刃を交えるたびに、ヴァレナの息が、少しずつ荒くなっていくのが分かった。脇腹の傷が、確実に体力を奪っている。それでも、剣を振るう手には、まだ確かな意志が込められていた。
汗が額を伝い、視界の端で光る。心臓の音が、耳の奥で、痛いくらいに響いていた。木々のざわめきさえ、今は遠くのことのように感じられた。腕の筋肉が、悲鳴を上げ始めている。それでも、止まるわけにはいかなかった。
「ヴァレナ、無理しないで」
「無理してでも、ここで削らないと」
短い答えに、これ以上の反論を飲み込んだ。今は、少しでも多く、時間を稼ぐしかない。
ガイン・オルスの剣が、また一撃、鋭く振り下ろされた。ヴァレナが辛うじて受け止める。金属のぶつかる音が、耳の奥に響いた。
「あたしも行く」
刃を構え、あたしはガイン・オルスの側面に回り込んだ。二方向からの攻撃に、初めて、ガイン・オルスの足がわずかに乱れた。この隙を、逃す手はない。
「チキン流」
叫びながら、頭の中で記憶を探る。今、ここで使える一番の武勇伝を。街道で賞金稼ぎ四人を出し抜いた日のこと、それを刃に乗せる。
「つまみぐい」
刃を振るう。小さな衝撃波が、ガイン・オルスの体勢を、ほんの一瞬だけ崩した。決定的な一撃には程遠い。それでも、その一瞬が、貴重な隙になった。刃を振り抜いた反動で、腕にじんとした痺れが走る。
「今!」
ヴァレナが叫び、あたしたちは同時に後ろへ飛び退いた。ガイン・オルスは、追撃してこなかった。ただ、静かにこちらを見据えている。
「逃げるか」
「逃げる。悪いけど、今日はここまで」
肩で息をしながら、あたしは答えた。ガイン・オルスは、剣を鞘に収めた。予想外の反応に、あたしは戸惑った。てっきり、そのまま追撃してくるものだと思っていた。
「なんで、追ってこないの」
思わず聞くと、ガイン・オルスは、静かにこちらを見据えたまま答えた。
「今は、それでいい」
「どういう意味」
「お前たちの力量、大体は測れた。次会うときは、もっと踏み込む」
淡々とした言葉に、背筋が冷えた。今日のこれは、本気の追跡じゃなかったということだ。あの剣戟が、まだ全力ですらなかったのかと思うと、勝機の薄さを、改めて思い知らされた。喉の奥が、からからに渇いていることに、今さら気づいた。
「試されてたってこと」
「そうだ。無駄な消耗は、双方にとって望ましくない」
理屈は分かる。それでも、納得できるものじゃなかった。まるで、値踏みされた家畜にでもなった気分だった。
「ヴァレナ、動ける?」
「動ける」
強がりだったけど、それ以上追及する余裕はなかった。あたしはヴァレナの腕を、そっと肩に回した。
「一人で歩ける」
「歩けても、支えるくらいはさせて」
ヴァレナは何も言わず、あたしに寄りかかった。強がりの下で、ようやく限界が見え始めていたんだろう。いつも支えてもらってばかりのあたしが、今度は支える番だった。あたしたちは、ガイン・オルスに背を向け、街道を走り出した。
しばらく進んだところで、セシルとトトの姿が見えた。二人とも、心配そうな顔で、こちらに駆け寄ってくる。街道脇の茂みに身を潜めながら、ずっとこちらの様子をうかがっていたらしい。
「ヴァレナ、その傷」
「大したことない」
「大したことあるでしょ、それ」
セシルが、慌てて手当ての準備を始めた。トトは、何も言わずに、あたしにしがみついてきた。小さな体が、まだ震えている。
「大丈夫。二人とも、無事」
「よかった」
小さな声で呟いたトトの目に、涙が滲んでいた。あたしはその頭を、そっと撫でた。
応急手当てを終えて、少し離れた木陰で、あたしたちはようやく息をついた。セシルが手早く傷口を洗い、清潔な布で縛る。手つきは慣れたもので、こういう場面でも、彼女の冷静さが光っていた。木漏れ日が、地面にまだらな模様を落としている。ガイン・オルスの姿は、もうどこにも見えない。風が吹き抜けるたびに、木の葉が擦れ合う音だけが、静かに響いていた。
「あの男、次はもっと本気で来るって言ってた」
「聞いてた。厄介な相手」
セシルが、手帳に何かを書き込みながら言う。その顔には、これまでにない疲労の色が滲んでいた。
「今日の戦いぶり、記録しとく。次に会うときの参考になるかもしれない」
「戦ってる最中に、そんな余裕あったの」
「ないよ、余裕なんて。でも、覚えてるうちに書いておかないと、忘れる」
セシルらしい理屈だった。それでも、こういう地道な積み重ねが、いつも窮地を救ってくれることを、あたしは知っている。今日の記録も、きっといつか、誰かを助ける材料になる。
「トトは、大丈夫だった?」
聞いてみると、トトは小さく頷いた。
「怖かった。でも、セシルがずっと、隣にいてくれたから」
「そう。よかった」
トトの頭を撫でながら、あたしは改めて、仲間の存在のありがたさを噛み締めた。
「でも、今日は逃げ切れた。それだけで、十分」
ヴァレナの言葉に、誰も異論はなかった。今は、生き延びたことを、素直に喜ぶべきだと思う。
「次、会ったらどうする」
トトが、不安げに聞いてくる。あたしは少し考えて、正直に答えた。
「分からない。でも、今回みたいに、逃げるだけじゃ済まないと思う」
「戦うの?」
「戦うことになるかもしれない。それでも、あんたたちを守れるだけの力は、まだ足りない気がしてる」
我ながら、弱気な言葉だった。それでも、正直な気持ちだった。ガイン・オルスの実力は、これまで対峙してきた誰よりも、明らかに底が見えなかった。
「大丈夫。あんたには、あたしたちがついてる」
セシルが、いつになく力強い声で言った。ヴァレナも、小さく頷く。
その言葉に、少しだけ、胸の奥が温かくなった。一人だったら、とっくに心が折れていたかもしれない。仲間がいる、というだけのことが、こんなにも支えになるとは、逃げ始めた頃には、想像もしていなかった。空を見上げると、茜色に染まった雲が、ゆっくりと流れていた。
日が傾き始めていた。次にガイン・オルスと会うとき、どんな決着になるのか、まだ想像もつかない。それでも、今は、この一瞬の安堵と、仲間の存在を、大切にしたかった。冷たい風が頬を撫でる。それでも、隣にいる三人のぬくもりが、確かに心を支えていた。
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