(24)刃を交える
集落を発って三日目、山道を抜けて、ようやく平地に出た。遠くに、見覚えのある街道の輪郭が見える。木々の匂いから、乾いた土の匂いへと、少しずつ空気が変わっていった。
三日間の山歩きで、体はすっかり疲弊していた。それでも、追手の気配を感じずに過ごせた時間は、何よりの休息になった。誰の表情にも、束の間の安堵が浮かんでいた。
「もう少しで、街道に合流できる」
セシルが、疲れた声ながらも、確かな安堵を滲ませて言った。誰もが、同じ思いだったはずだ。三日間、追手の気配はまったく感じなかった。セシルの読みは、どうやら当たったらしい。
油断していたわけじゃない。それでも、少しだけ、気が緩んでいたのは事実だった。
木々の切れ間を抜けたところで、その気配は、唐突に現れた。
道の先、街道と合流する分岐点に、大きな人影が立っていた。左目の刀傷が、日差しを受けて、うっすらと浮かび上がっている。ただそこに立っているだけなのに、あたりの空気が、一気に張り詰めた。
「まさか」
セシルの声が、掠れた。あたしたちは、その場で足を止めた。
「南の山道は、盲点だった。だが、いずれこの街道に合流することは、分かっていた」
ガイン・オルスの声は、相変わらず淡々としていた。感情の色が、まるで見えない。数日ぶりに間近で見るその姿は、記憶にあるより、さらに一回り大きく感じられた。
「随分、待ちぼうけ、させちゃったっすね」
軽口のつもりだったけど、声が震えているのが、自分でも分かった。ガイン・オルスは、何も答えず、ただじっとこちらを見据えている。
「先回り、してたってこと」
「そうだ。無駄な追跡はしない。行き先が分かっているなら、待つほうが早い」
理詰めの答えに、返す言葉がなかった。セシルの作戦は、確かに追跡の手を一時的に緩めた。それでも、根本的な逃げ道の少なさまでは、覆せなかったということだ。三日間の努力が、ここで無に帰すのかと思うと、悔しさで胸が詰まった。
「ヴァレナ」
「分かってる」
短いやり取りで、ヴァレナが得物を抜いた。刃が、鈍く陽光を反射する。
「戦うつもり?」
セシルの声に、緊張が滲む。
「戦うんじゃない。時間を稼ぐ」
ヴァレナの答えに、あたしも刃の柄に手をかけた。逃げるための時間を作る。それだけが、今できる唯一の選択肢だった。
「トト、セシル、逃げて」
「あんたを置いて?」
「置いていく。時間ができたら、すぐに追いつく」
トトが、何か言いかけて、口をつぐんだ。今は、反論している時間もない。
「必ず、追いつくから」
念を押すように言うと、トトは、涙目のまま、小さく頷いた。セシルが、トトの手を引いて、街道の脇へと走り出した。二人の背中が見えなくなるまで、あたしは目で追い続けた。
「悪いけど、ここは通してもらえないんで」
っす調が、思わず口をついて出た。相手の年齢も立場も分からないのに、体が勝手に反応する。
ガイン・オルスが、剣を抜いた。飾り気のない、それでいて明らかに使い込まれた一振り。構えに、一切の無駄がない。
「本気で来るなら、こっちも本気で相手する」
ヴァレナが、低い声で言った。両手剣を構える姿に、これまで見たことのない鋭さが宿っている。
先に動いたのは、ヴァレナだった。踏み込みの速さに、あたしは思わず息を呑んだ。剣戟の音が、静かな山間に響き渡る。
一合、二合。ヴァレナの剣が、ガイン・オルスの剣と、幾度も交差した。互角、いや、むしろヴァレナが押しているようにも見えた。
これまで見てきたヴァレナの戦い方とは、明らかに違う迫力があった。無駄のない動き、正確な間合い、迷いのない踏み込み。この人がどれほどの修羅場をくぐってきたのか、今更ながら思い知らされる。剣を交えるたびに響く金属音が、緊迫した空気を、さらに張り詰めさせていった。
「ヴァレナ、すごい」
思わず声が漏れた。それでも、まだ気を抜ける状況じゃない。ガイン・オルスの表情には、焦りの色一つ浮かんでいなかった。
それでも、ガイン・オルスの表情は、ぴくりとも動かない。まるで、これも織り込み済みだと言わんばかりの落ち着きだった。
三合目、剣がぶつかった瞬間、ガイン・オルスの体が、わずかに沈んだ。低い姿勢からの一撃が、ヴァレナの脇腹をかすめる。
「ヴァレナ!」
思わず叫んだ。ヴァレナは、後ろに飛び退きながらも、体勢を崩さなかった。それでも、脇腹からは、うっすらと血が滲んでいる。
「大丈夫」
短く答えたヴァレナの声は、いつもより硬かった。それでも、剣を握る手には、まだ確かな力が込められている。あたしは刃を抜き、ヴァレナの隣に並んだ。
傷の深さは、遠目にはよく分からない。それでも、これ以上の消耗は避けたい。あたしは覚悟を決めて、刃の柄を強く握り直した。手のひらに滲む汗が、柄の感触を、いつもより頼りなく感じさせた。
「二人がかりで悪いとは思わないでよ」
「思わない。むしろ、そのほうが助かる」
短い返事に、少しだけ心強さを覚えた。
軽口を交わしながらも、心臓は激しく脈打っていた。相手は、これまで対峙してきた誰よりも、明らかに格上だった。
刃を構え直し、あたしはヴァレナの動きに合わせて、隙をうかがった。二対一なら、まだ勝機はあるはずだ。そう自分に言い聞かせる。
ガイン・オルスが、初めて一歩、後ろに下がった。表情は変わらないままだったけど、その動きに、わずかな警戒の色が見えた。二人がかりの圧力を、この男も、無視できていないということだ。
「トトとセシルは、離れているんだろう」
不意に、ガイン・オルスが口を開いた。
「それがどうした」
「時間を稼いでいる、その判断は正しい。だが、稼げる時間には限りがある」
淡々とした指摘に、背筋が冷えた。この男は、こちらの狙いを、すべて見透かしている。まるで、あたしたちの手の内を、最初から全部知っていたかのようだった。
「じゃあ、その限りを、今から試してみようか」
強がりだったけど、それ以外の言葉が見つからなかった。ヴァレナが、隣で小さく頷いた。
「行くよ」
その一言で、あたしたちは同時に踏み込んだ。刃と刃がぶつかる音が、山間に何度も反響した。この一戦の行方が、これから先の逃走のすべてを、左右することになる。
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