(23)山道
翌朝、まだ薄暗いうちに宿を発った。街の裏門から抜け出し、南へ続く山道へと足を踏み入れる。
朝露に濡れた下草が、足首に絡みついてくる。土のにおいに、湿った苔の匂いが混じっていた。街道とは比べ物にならないほど、道は険しい。木々の隙間から差す朝日が、まだらな光の帯を、地面に落としていた。
昨夜の眠りは、久しぶりに深いものだった。それでも、体の芯に残る疲労は、まだ完全には抜けきっていない。誰の顔にも、そういう色が薄く滲んでいた。
「思ったより、きつい」
トトが、息を切らしながら呟いた。それでも、足取りは止まらない。
「大丈夫? 無理してない?」
「無理してる。でも、止まる理由にはならない」
我ながら教えたつもりのない口癖を、いつの間にか真似されている。あたしは思わず苦笑した。
「その台詞、あたしの真似でしょ」
「違う。自分で考えた」
嘘だと分かる即答だった。それでも、指摘するのはやめておく。子供の意地というのは、大人が思うより、案外守ってやる価値のあるものだ。
道の脇に咲いていた名も知らない花を、トトがちらりと見た。足を止める余裕はなかったけど、その視線には、確かな興味が宿っていた。こういう小さな仕草が、この子の年相応の一面を、垣間見せてくれる。
山道を登るにつれ、木々の緑が濃くなっていった。時折、鳥の鳴き声が響く以外は、静かなものだった。街の喧騒から離れたことで、少しだけ息がつけた。
「マジビ持ってきてたら、こういうとき運勢占えたのに」
思わずぼやくと、セシルが呆れた声で返した。
「山の中で、そんな悠長な話してる場合?」
「悠長なくらいが、ちょうどいい。気を張りっぱなしだと、体がもたない」
理屈をこねると、意外にもヴァレナが頷いた。
「一理ある。緊張しっぱなしの逃走は、長続きしない」
味方が増えて、少しだけ胸を張った。セシルは肩をすくめて、それ以上は反論しなかった。
「セシル、今どのあたり」
「予定通り。この調子なら、日暮れ前に集落に着けるはず」
セシルが、手帳の地図を確認しながら答えた。額に滲む汗を、袖でぬぐう仕草にも、疲労の色が見える。
「ヴァレナ、荷物、あたしが持とうか」
「大丈夫。これくらい、慣れてる」
ヴァレナは、両手剣と荷物を背負ったまま、平然とした顔で答えた。この人の体力には、いつも驚かされる。額に汗を滲ませながらも、足取りは一切乱れない。
昼過ぎ、開けた場所に出て、しばらく休憩を取ることにした。眼下に広がる木々の緑が、遠くまで波打つように続いている。持参した干し肉と堅焼きパンを分け合いながら、あたしたちは無言で腹を満たした。
風が汗ばんだ肌を撫でて、心地よかった。こんな状況でなければ、ただの気持ちのいい山歩きだったのに、と思うと、少し複雑な気分になる。
「ここまで、追ってくる気配、ある?」
「今のところ、感じない。セシルの読み、当たったのかも」
ヴァレナの言葉に、セシルは小さく頷いた。それでも、油断した様子は見せない。
「まだ、油断は禁物。あの男が、この道の存在に気づいていない保証はない」
セシルの言う通りだった。少しの安心が、油断につながる。あたしは気を引き締め直した。
トトが、遠くの山並みを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「こんなに山奥まで、あの人は追ってこないよね」
「分からない。でも、来ないことを願うくらいは、許してほしい」
我ながら、頼りない答えだった。それでも、トトは小さく頷いて、それ以上は聞いてこなかった。
休憩を終えて、また歩き出す。道はさらに険しくなり、時折、両手で岩をよじ登る場面もあった。トトは、何度も足を滑らせかけたけど、そのたびにヴァレナが手を差し伸べた。
「ありがと」
「別に」
素っ気ない返事だったけど、差し伸べる手の早さだけは、いつも通り絶妙だった。何度目かの岩場を越えたところで、トトが息を切らしながら聞いてきた。
「ヴァレナは、こういう道、慣れてるの」
「慣れてる、というか、昔、似たような道をよく歩いた」
「昔って、いつ」
「もっと若い頃。まだ、剣を振り回してるだけで良かった頃」
意味深な答えだった。それ以上は誰も踏み込まなかった。ヴァレナの過去は、少しずつ、断片が見えてきてはいるけれど、まだ全体像には、程遠い。
日が傾き始めた頃、遠くに小さな集落の明かりが見え始めた。セシルの予測通りだった。
「あそこ?」
「あそこ。もう少し」
疲れ切った足を、それでも前へ進める。集落の明かりが、少しずつ近づいてくる。あたしたちは、無言のまま、最後の力を振り絞った。
「着いたら、まず何食べたい」
トトが、ふらつく足取りのまま聞いてくる。あたしは少し考えて答えた。
「あったかいもの、なんでも」
「それ、答えになってない」
「贅沢言ってる余裕、今はないの」
軽口を交わしながらも、みんなの足取りは、目に見えて重くなっていた。それでも、明かりを目指して、一歩、また一歩と進み続けた。
集落にたどり着くと、素朴な木造の家々が並んでいた。旅人を見慣れているのか、住民たちは、あたしたちを見ても特に驚いた様子はなかった。夕暮れの光が、家々の屋根を橙色に染めている。
「今夜だけ、ここで休もう」
セシルの提案に、誰も異論はなかった。小さな宿屋を見つけて、部屋を借りる。粗末だけど、雨風をしのげるだけで十分だった。
宿の主人は無口な老人で、あたしたちの素性を詮索することもなく、黙って食事を用意してくれた。素朴な野菜のスープと、硬いパン。それでも、今の体には、何よりのご馳走だった。
スープを口に運ぶたびに、体の芯にじんわりと温かさが染みていく。誰も多くを語らず、ただ黙々と食事を進めた。それぞれが、今日一日の疲れを、自分なりのやり方で消化しているようだった。
「明日は、どうする」
食事を終えたところで、セシルが手帳を開いた。
「もう少し南へ進んで、様子を見よう。急いで街道に戻るのは、まだ早い」
ヴァレナの提案に、誰も反対しなかった。焦って動けば、また同じ轍を踏みかねない。慎重さは、今の状況では、何よりの武器だった。
夕食を終え、あたしたちはようやく、深い眠りに落ちることができた。追手の気配を感じないまま過ごせた一日は、久しぶりのことだった。
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