(22)セシルの計算
宿の一室に落ち着いて、ようやく人心地がついた。窓の外はもう暗く、街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。夕餉の匂いが、廊下の奥から漂ってきた。
体を洗い流し、簡単な食事を済ませただけで、体力はほとんど底をついていた。それでも、頭の芯だけは、まだ興奮したまま冷めきらない。今日一日で起きたことを思い返すと、今更ながら、背筋が冷たくなった。
分岐点での待ち伏せ、藪の中での気配、対岸によぎった大きな人影。一つ一つは些細な出来事でも、積み重なると、確かな恐怖の輪郭を描き出す。あの静かな声と、感情の見えない目が、まぶたの裏に焼きついて、なかなか離れなかった。
トトは、疲れ果てたのか、ベッドに横になった瞬間に眠りに落ちた。あどけない寝顔を見て、あたしとヴァレナは、どちらからともなく、ほっと息をついた。
「今後のこと、話そう」
セシルが、手帳を開きながら言った。目の下には濃い隈があるけれど、その目つきだけは、鋭さを失っていなかった。灯りを絞った部屋の中で、その横顔だけが、いつも以上に真剣に見える。
「大丈夫、疲れてないの、セシル」
「疲れてる。でも、今休むと、明日の判断が鈍る。休むのは、方針を決めてから」
きっぱりとした答えに、あたしは何も言い返せなかった。この人の芯の強さは、いつも静かに、けれど確実に、あたしたちを支えている。
「ガイン・オルスの動きを、あたしなりに整理してみた」
手帳のページには、これまでの追跡の経緯が、時系列で細かく書き込まれていた。分岐点での待ち伏せの可能性、藪での気配、対岸の人影。一つ一つの情報が、几帳面な文字で並んでいる。木炭の線が、几帳面すぎるほどまっすぐに引かれていた。
「これを見ると、あの男の行動には、一定のパターンがある」
「パターン?」
「常に、あたしたちの逃げる方向を先読みしようとしている。でも、直接姿を見せる回数は、意外と少ない。おそらく、確実に追い詰められると判断するまで、無駄な接触を避けているんだと思う」
セシルの分析に、ヴァレナが腕を組んで頷いた。
「慎重、というより、効率を重視するタイプ」
「その通り。だとすれば、こっちが取れる対策は一つ」
「なに」
「向こうの予測を、逆手に取る」
セシルが、手帳に簡単な地図を描き始めた。この街から先に続く道筋を、いくつかの分岐と共に書き記していく。
「もっとも合理的な逃走ルートは、この街から北の街道を進むこと。あの男なら、間違いなくそれを予測して、先回りしてくる」
「じゃあ、あえて違う道を」
「そう。あえて遠回りになる、南の山道を通る。効率だけを見れば、絶対に選ばない選択肢。だからこそ、読まれにくい」
ヴァレナが、じっと地図を覗き込みながら聞いた。
「あの男が、南の山道の存在自体を知らない可能性は」
「低い。あれだけ情報を集めていた男なら、地図くらいは頭に入っているはず。それでも、選ばれる可能性が低い道は、優先順位も低くなる。完全な安全策じゃないけど、無策よりはましだと思う」
セシルの説明に、ヴァレナは小さく頷いた。納得したというより、他に選択肢がないことを、確認したような、そんな頷き方だった。
理屈は分かる。それでも、一抹の不安が残った。
「でも、それって賭けだよね」
「賭けだよ。だから、確実とは言わない。ただ、今のまま北へ進めば、ほぼ確実に、また追いつかれる。それよりは、可能性のある賭けに出るほうが、まだましだと思う」
セシルの声は、いつもの数字口調のまま、それでいて確かな意志を宿していた。この人は、数字を根拠にしながらも、最後には自分の判断に責任を持つ人だ。だからこそ、あたしはいつも、この人の言葉に頼りきってしまう。
「山道のこと、詳しく教えて」
「街道より距離は短いけど、高低差がある分、体力の消耗は大きい。宿の主人に聞いた話だと、水場が二箇所、集落が途中に一つあるらしい」
「その集落、寄れる?」
「寄れる。ただし、長居はしない。情報が漏れる可能性を、できるだけ減らしたい」
「食料の補給くらいは」
「それくらいなら。ただし、名乗らない、目立たない、それが条件」
セシルの説明は、細部まで具体的で、聞いているだけで少し安心できた。行き当たりばったりで逃げ続けるより、こうして誰かが道筋を描いてくれるほうが、ずっと心強い。
「あたしは、賛成」
ヴァレナが即座に言った。
「あたしも」
深く考えるまでもなく、あたしは頷いた。セシルの読みを疑う理由が、どこにもなかった。この一週間ほどの間で、セシルの分析が外れたことは、一度もない。
「山道は、道も険しいし、日数もかかる。覚悟しておいて」
「望むところ。逃げることにかけては、地形の悪さくらい何とかする」
軽く答えると、セシルは小さく笑った。
「頼もしい返事」
「褒めてる?」
「さあ、どうだろうね」
いつものやり取りに、少しだけ緊張がほぐれた。窓の外では、宿場町の明かりが、揺らめきながら灯り続けている。こんな状況でも軽口が言えることに、少しだけ救われる気持ちだった。
トトの寝顔を見ながら、あたしは明日からの道のりを思った。険しい山道、見えない追手、そして、まだ見ぬガイン・オルスとの決着。不安がないと言えば嘘になる。それでも、仲間がいる限り、まだ足を止めるわけにはいかない。
「セシル、こういう作戦を立てるの、慣れてる感じがする」
何気なく聞いてみると、セシルは手帳から目を離さずに答えた。
「慣れてるっていうか、数字で考えるほうが、感情で考えるより、まだ足元が安定するから」
「感情で考えると、どうなるの」
「怖い、逃げたい、それしか出てこなくなる。数字にすれば、次にすべきことが見えてくる」
セシルなりの、生き延びるための知恵なんだろう。あたしは、素直に感心した。
「今夜は、しっかり眠って。明日から、また長い道のりになる」
セシルの言葉に、あたしたちは頷いた。窓の外の月が、やけに静かに、街を照らしていた。
眠りにつく前、あたしはもう一度、静かに、明日からの計画を頭の中で反芻した。北ではなく南。効率ではなく、意外性を取る賭け。セシルの読みが正しければ、これで少しは、追跡の手を緩められるはずだった。そう信じて、あたしは目を閉じた。
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