(20)網
木々の間を駆け抜けながら、あたしは何度も後ろを確認した。ガイン・オルスの姿は見えない。それでも、追われているという確信だけは、少しも薄れなかった。朝靄はすっかり晴れて、日差しが木漏れ日となって足元に揺れている。息が上がり、額に汗が滲み始めていた。
これまでの追手とは、明らかに違う怖さがあった。姿が見えないことが、かえって恐怖を煽る。ザラのように正面から向かってくる相手なら、まだ心構えのしようがある。この男は、いつどこから距離を詰めてくるのか、まるで読めなかった。
土と朽ち葉の匂いが濃くなる。足元は根や石でごつごつしていて、何度も体勢を崩しかけた。息が上がる。喉が焼ける。それでも、足を止める理由はない。
息を切らしながら、あたしは声を上げた。
「セシル、方角」
「今のところ、まっすぐ北。合ってると思う」
「思う、なんだ」
「断言できる状況じゃない。それでも、今のところ、外れてはいない」
いつもの掛け合いだったけど、声には余裕がなかった。誰もが、限界に近い速度で走り続けている。汗が背中を伝い、息が白く見えるほどではないのに、やけに苦しかった。
しばらく無言で進んだところで、開けた場所に出た。街道と交差する分岐点らしく、道標が立っている。ヴァレナが一瞬、足を止めて周囲を見渡した。
「待って」
低い声だった。
「この分岐、両方とも見張られてる気がする」
「気のせいじゃなくて?」
「気のせいならいい。でも、念のため」
ヴァレナの言葉に、セシルが素早く反応した。手帳を開き、周囲の地形を確認する。
「たしかに、両方の道とも、身を隠せる茂みがちょうどいい間隔である。待ち伏せするなら、絶好の場所」
「じゃあ、どうするの」
「三つ目の道を作る」
セシルは、そう言って、道標のない方角、鬱蒼とした藪を指さした。
「獣道にすらなってない場所を通れば、待ち伏せの範囲外に出られる。時間はかかるけど、安全度は上がる」
「悪くない」
ヴァレナが即座に頷いた。あたしたちは、道を外れ、藪の中へ分け入っていった。
進むほどに、視界が悪くなっていく。木々の枝が、あちこちから体にまとわりついてくる。トトの服が、何度も棘に引っかかった。
「大丈夫?」
「大丈夫。それより、進んで」
トトの声は、震えていたけど、しっかりしていた。あたしは小さく頷いて、また前へ進んだ。
ヴァレナが、先頭で枝を払いながら道を切り開いていく。得物の腹で枝をなぎ払う動きに、無駄がない。こういう場面での頼もしさは、いつ見ても変わらない。
「ねえ、ヴァレナ、疲れてない?」
「疲れてないわけじゃない。ただ、今、疲れてる場合じゃないだけ」
即答だった。息は上がっているはずなのに、声には乱れがなかった。この人の芯の強さには、何度助けられたか分からない。
「これ、罠っすかね」
思わず、っす調で漏らした。誰に向けたつもりもない独り言だった。
「罠って?」
「あの分岐、あたしたちを、この道に誘導するための罠だったりして」
言った瞬間、セシルの顔が強張った。
「あり得る。あの男の慎重さなら、複数の可能性を潰しにかかっていても、おかしくない」
背筋が冷えた。もし本当にそうなら、この藪の先にも、何かが待ち構えているかもしれない。
「戻る?」
「戻っても、進んでも、リスクは同じ。むしろ、進んだほうがまだ、選択肢の幅がある」
セシルの判断に、あたしたちは頷いた。今更、迷っている時間はない。
「セシル、根拠は」
「根拠っていうより、消去法。戻れば、さっきの分岐まで距離を稼がれる。進めば、少なくとも新しい選択肢が増える。分の悪い賭けだけど、賭けるならまだこっち」
数字の裏付けがあるわけじゃない、珍しくセシルの直感寄りの判断だった。それでも、これまでの信頼が、迷わずその判断に乗る後押しになった。
「賭けに乗る」
「乗るしかないでしょ、この状況で」
軽口を返しながら、あたしたちは藪へと足を踏み入れた。
藪を抜けると、小さな沢に出た。水の流れる音が、あたりに響いている。冷たい水しぶきが、頬にかかった。誰も、何も言わなかった。ただ、水を掬って喉を潤し、また前を見据えた。
トトが、水面に映る自分の顔を見て、小さく呟いた。
「顔、真っ青」
「あんたもね」
軽口を返すと、トトはかすかに笑った。こんな状況でも、軽口を交わせるだけの余裕は、まだ残っている。それだけで、少し安心した。
「休んでる暇、ある?」
「少しだけ。でも、長くはない」
セシルが手帳を確認しながら答えた。誰の顔にも、疲労の色が濃く出ている。それでも、止まるわけにはいかない。
水を飲み終えたヴァレナが、周囲を見渡しながら呟いた。
「この沢、下流にたどれば、街に出るはず」
「詳しいの?」
「昔、この辺りを歩いたことがある。それだけ」
それ以上は語らず、ヴァレナは、ただ沢の流れる方向を見つめていた。彼女の過去について、また一つ、小さな断片が見えた気がする。それでも、今は詮索している場合じゃない。
沢を渡りきったところで、あたしはふと、背後に強い視線を感じた。振り返ると、対岸の木立の奥に、一瞬だけ、大きな人影がよぎった。
「今」
「見た」
ヴァレナが短く、けれどはっきりと答える。姿を隠す気もないのか、それとも、わざと見せているのか。判断がつかない不気味さだった。心臓が、痛いくらいに脈打っている。
「行こう。急いで」
誰の号令ともなく、あたしたちは一斉に走り出した。網が、確実に狭まってきている。その実感だけが、はっきりと肌に残っていた。
沢に沿って下流へ向かいながら、あたしは頭の中で状況を整理した。分岐での待ち伏せ、藪の先での気配、対岸の人影。どれも決定的な証拠じゃない。それでも、断片を繋げれば、ひとつの絵が浮かび上がってくる。あの男は、あたしたちの逃げ道を、少しずつ、確実に絞り込んでいる。
「このまま下流に向かって、大丈夫?」
「他に選択肢がない。それに、街に出れば、人目がある分、まだ動きやすい」
セシルの分析に、ヴァレナが頷いた。トトは、何も言わずに、ただ必死に足を動かし続けている。
日が高くなるにつれ、体力の消耗が、はっきりと目に見える形で表れ始めていた。それでも、誰も弱音を吐かなかった。吐いている暇が、どこにもなかった。
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