(19)対面
朝靄の中を進んでいると、行く手の道が、不自然なほど静かなことに気づいた。鳥の声も、虫の音もしない。ただ、風だけが、乾いた音を立てて木々を揺らしている。地面はまだ夜露で湿っていて、踏みしめるたびに、ひやりとした感触が足の裏に伝わってきた。息を吸うと、冷たい空気が肺の奥まで染み渡った。
昨夜の足跡のことが、ずっと頭から離れなかった。あれから半日、誰かに見られている気配を感じ続けている。気のせいだと思いたかったけど、今のあたしの勘は、そういう都合のいい解釈を許してくれなかった。
「止まって」
ヴァレナが低い声で言った。得物の柄に、しっかりと指がかかっている。
道の先、木立の隙間に、大きな人影が立っていた。大柄な体格に、簡素だが手入れの行き届いた革鎧。腰に佩いた剣は、飾り気のない、それでいて明らかに使い込まれた一振りだった。左目に、古い刀傷が斜めに走っている。
誰も、何も言わなかった。ただ、互いの距離を測るような、重い沈黙だけが流れた。ヴァレナが、じりじりと半歩、あたしたちの前に出る。
「リク・アーレン」
低く、静かな声だった。名乗りもせずに、こちらの名を呼ぶ。
「あんたが、ガイン・オルス?」
「そうだ」
短い肯定だった。飾らない、それだけに、かえって不気味な落ち着きがあった。ザラのときとは、また違う種類の圧を感じる。ザラは獲物を前にした狩人の目をしていた。この男は、もっと別の何か、もはや獲物すら見ていないような、静かな目をしている。淡々とした佇まいの奥に、これまで何人もの獲物を、同じように静かに追い詰めてきたんだろうという、確信めいた気配があった。
「用件は」
短く尋ねると、ガイン・オルスは表情を変えずに答えた。
「お前を、依頼主のもとへ連れて行く。それだけだ」
「断ったら?」
「断らせるつもりはない」
淡々とした返答に、背筋が冷えた。脅し文句のつもりもなさそうな、ただの事実を述べる声だった。
「っすねぇ、そういうの、あたし一番嫌いなタイプなんですけど」
つい、っす調で軽口が出た。相手が明らかに年上で、明らかに格上だと、体が勝手に反応する。ガイン・オルスは、表情一つ変えなかった。
「情報屋を締め上げたって聞いたっすけど、脅しみたいなやり方するタイプには見えないんすよね、あんた」
「必要な手順だった。手荒な真似はしていない。代金は払った」
「代金払えば何してもいいってわけじゃないでしょ」
「その通りだ。だから、必要最低限に留めた」
妙に筋の通った受け答えだった。悪徳や乱暴の匂いがしない分、かえって薄気味悪い。この男は、ただ淡々と仕事をこなすだけの、感情の見えない壁みたいな相手だ。
これまで相手にしてきた賞金稼ぎたちには、多かれ少なかれ、欲や功名心のようなものが透けて見えた。ザラにさえ、獲物を逃さないという一種の意地があった。だが、この男からは、そういう人間くさい熱がまるで感じられない。ただ、依頼された仕事を、正確にこなそうとしているだけ。そのことが、何よりも不気味だった。
セシルが小声で耳打ちしてくる。
「戦って勝てる相手じゃない。今は、逃げの一手に徹する」
「分かってる」
トトが、あたしの背後に隠れるように身を寄せた。震えているのが、服越しにも伝わってくる。
「トトは渡さない」
「トトという名は、依頼書にはない。本名も、依頼の詳細も、俺の役目とは関係ない」
「じゃあ、あんたの役目は」
「お前を連れて行くこと。それだけだ。連れの子供に、興味はない」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。それでも、油断はできない。この手のタイプは、必要とあれば、平然と方針を変えるだろう。
セシルが、震える声を必死に抑えながら口を挟んだ。
「依頼主は誰? 教えてもらえる?」
「守秘義務がある。教えられない」
「予想はつくけど」
「予想は自由だ。俺の口からは言わない」
取り付く島もない返答だった。セシルは小さく舌打ちして、手帳を握りしめた。数字にできない相手を前に、いつもの落ち着きが、わずかに揺らいでいる。
「悪いけど、大人しくついていくつもりはないんで、あしからず」
「分かっている。だから、時間をかける」
言うが早いか、ガイン・オルスが一歩、足を踏み出した。それだけで、周囲の空気が、目に見えて張り詰めた。
「逃げるよ」
短く告げて、あたしは踵を返した。ヴァレナが先頭に立ち、セシルがトトの手を引く。あたしは最後尾で、刃の柄に手をかけたまま、後ろを警戒する。
刃の柄を握る手に力を込めながら、あたしは頭の中で素早く算段を立てた。正面から戦う相手じゃない。まずは距離を稼いで、それから考える。
走り出してすぐ、背後から声が届いた。
「無駄だ」
大声ではなかった。それでも、はっきりと耳に届いた。追ってくる足音は、慌てた様子もなく、それでいて、確実に距離を詰めてくる。まるで、こちらの逃げ足を、すべて計算済みであるかのように。
「逃げながら考える。いつものやり方でいくよ」
自分に言い聞かせるように呟いた。それでも、いつもより明らかに、心臓の音が速かった。手のひらに滲む汗を、走りながら太もも代わりに服にこすりつける。
朝靄の街道を、四人分の足音が駆け抜けていく。振り返らずに、ただ前へ。それでも、背中に感じる気配は、少しも遠ざかる気配がなかった。
ヴァレナが、走りながら短く指示を出す。
「街道を外れる。追跡しにくい地形を選ぶ」
「賛成。獣道のほうがまだ望みがある」
セシルが即座に頷いた。トトは、あたしの服の裾を握ったまま、必死に足を動かしている。息が上がっているのに、弱音の一つもこぼさない。
「トト、大丈夫?」
「大丈夫。まだ、走れる」
強がりだと分かっていたけど、あえて指摘しなかった。今は、その強がりごと、前に進む力に変えるしかない。
街道を外れて、木々の間に飛び込む。枝葉が頬をかすめる。足元の地面は、街道よりずっと不安定で、何度も体勢を崩しかけた。それでも、足を止めるわけにはいかない。
背後を振り返ると、ガイン・オルスの姿は、まだ見えなかった。それでも、追ってきているという確信だけは、拭えなかった。この男は、姿を見せずとも、着実に距離を詰めてくるタイプだ。今までの相手とは、根本的に違う怖さがあった。
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