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チキンナイフと呼ばれた少女 ~逃げて逃れて世界最強~  作者: 荒瀬 維人
2章 積み重ねた距離の分だけ

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(17)予兆

その日の街道は、やけに人通りが少なかった。乾いた風が土埃を巻き上げ、遠くの木立を揺らしている。普段なら、行商人や旅人とすれ違うはずの時間帯なのに、誰ともすれ違わない。


「静かすぎない、なんか」


「気のせいならいいけど」


ヴァレナが得物の柄に手を添えながら答える。いつもより警戒の色が濃い声だった。


次の街に近づくにつれ、その違和感は確信に変わっていった。街の門は固く閉ざされ、門番が二人、槍を構えて立っている。


「何用だ」


誰何する声には、明らかな緊張があった。あたしたちが手を上げて敵意のないことを示すと、門番の一人がようやく肩の力を抜いた。


「すまん。少し前に、賞金稼ぎが一人、この街を通っていってな」


「賞金稼ぎ」


「派手な暴れ方はしなかったが、宿場中の情報屋を締め上げて、根こそぎ噂を集めていったらしい。名乗らなかったが、身なりからして相当な手練れだったと聞く」


門番の話に、あたしたちは顔を見合わせた。セシルが小さく手帳を開く。


「特徴は」


「大柄な男だ。左目に古い傷がある、と。物腰は静かだが、目つきが尋常じゃなかったと、うちの若いのが言ってた」


聞けば聞くほど、嫌な予感が強くなる。あたしの嫌な予感は、だいたい当たる。今まで外れたことがない。


「その男、いつ頃この街を出た?」


「三日前だ。行き先までは分からんが、北に向かったという話も聞く」


北。あたしたちが今、向かおうとしている方角と、同じだった。


門を通してもらい、街の中に入ると、あちこちで住民たちが不安げに囁き合っているのが見えた。市場の活気はいつもよりずっと控えめで、店先に並ぶ商品も心なしか少ない。子供を連れた母親が、足早に路地を通り過ぎていく。噂話の中心には、決まって、あの賞金稼ぎのことがある。


「情報屋を締め上げた、って、穏やかじゃないね」


「穏やかじゃない、どころか、相当危険」


セシルが手帳に何か書き込みながら言う。


「これまでの追手は、あたしたちを見つけたら、その場で仕掛けてくるタイプばかりだった。この男は違う。先に情報を固めてから動く。慎重で、効率的」


「一番厄介なタイプってこと」


「一番厄介なタイプ」


セシルの声に、いつもの淡々とした調子とは違う、確かな緊張が滲んでいた。


情報屋の店先を通りかかると、シャッターが下りたままになっていた。貼り紙には、しばらく休業します、とだけ書かれている。


「あの男が締め上げた店、たぶんここだね」


セシルが立ち止まって、貼り紙を眺めながら言う。


「気の毒に」


「気の毒で済めばいいけど」


トトが不安げに呟いた。誰も、それを否定できなかった。


宿を確保して荷物を下ろすと、ヴァレナが窓の外を見張るように立ったまま、口を開いた。


「今夜は、交代で見張りを立てよう」


「大げさじゃない?」


「大げさなくらいで、ちょうどいい。情報屋を締め上げるやり方、あたしも聞いたことがある」


ヴァレナの声には、これまでにない重さがあった。


「昔、似たようなやり口の傭兵を見たことがある。獲物を追い詰める前に、退路を全部潰す。逃げ場をなくしてから、初めて姿を見せるタイプ」


「詳しいね」


「昔の話」


それ以上は語らず、ヴァレナは口をつぐんだ。踏み込んでいい話じゃないことは、あたしにも分かる。あの夜、路地でヴァレナを拾ったときのことを思い出す。理由は聞いていない。聞かなくていいと思っている。それでも、こういう瞬間に、彼女の過去がわずかに顔を覗かせる。


「対策は」


セシルが手帳を開いて、話を本題に戻した。


「一つ。今夜のうちに、この街を離れる。情報屋を締め上げたばかりなら、まだ次の街までは追ってきていないはず」


「移動中に見つかったら」


「二つ、街道を使わず、獣道を通る。時間はかかるけど、足取りは追いにくくなる」


「三つは」


「三つ、もし追いつかれたら、リクが一番大きな武勇伝を切る。それで稼いだ時間で、残りは全力で逃げる」


セシルの提案は、いつも通り具体的で、いつも通り容赦がなかった。ヴァレナが小さく頷く。


「妥当な線だと思う」


「あたし、また囮ってこと」


「囮っていうか、一番頼りになる盾」


セシルが真顔で言うので、それ以上文句を言えなかった。頼られているのか、便利に使われているのか、微妙なところだけど、悪い気はしなかった。


トトが、部屋の隅で膝を抱えて座っていた。不安そうな顔を隠そうともしない。あたしはその隣に腰を下ろした。


「怖い?」


「怖い」


素直な返事だった。


「あたしも、正直、ちょっと怖い」


「リクでも怖いんだ」


「怖くないふりするのは得意だけど、怖くないわけじゃない」


我ながら、格好つかない答えだった。それでも、嘘をつくよりはよっぽどましだと思う。


「じゃあ、どうするの、怖いとき」


「逃げる。それで解決しなかったことは、今のところない」


「それだけ?」


「それだけ。あとは、逃げながら考える。立ち止まって考えるより、そっちのほうが性に合ってる」


いい加減な答えのつもりだったけど、トトは真剣な顔で聞いていた。


「あたしも、それでいい?」


「いいよ。あんたのペースで、あんたのやり方で逃げればいい。逃げ方に、正解なんてない」


トトが、少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。完全に不安が消えたわけじゃないだろうけど、それでも、さっきよりは呼吸が楽になったように見えた。


窓の外で、日が沈み始めていた。橙色の光が、部屋の中まで長く差し込んでくる。誰も、それ以上多くを語らなかった。ただ、それぞれのやり方で、来るべきものに備え始めていた。


日が完全に落ちる前に、あたしたちは宿を引き払うことにした。荷物を最低限にまとめ直し、会計を済ませる。宿の主人は不思議そうな顔をしていたけど、深くは聞いてこなかった。この街の人間は、もう慣れているのかもしれない。何かから逃げている旅人を見る目に。


裏口からこっそり街を出ると、外はもうすっかり夜だった。月明かりだけが頼りの街道を、獣道に逸れながら進んでいく。草を踏む音、虫の声、風が木々を揺らす音。それ以外は、何も聞こえない。


「本当に、この道で合ってる?」


「合ってる、と思う」


「思う、なんだ」


「星の位置から計算した推定値。断言はできないけど、大きくは外れないはず」


セシルの声は、いつもより低く抑えられていた。大声を出せる状況じゃないことは、みんな分かっている。


先頭を歩くヴァレナが、時折足を止めて、周囲の気配を探っていた。得物の柄に触れる手が、いつもより緊張している。


「何か」


「今のところ、何も。念のため」


短いやり取りが、暗闇の中で繰り返される。トトは、あたしの服の裾を、ずっと握ったまま歩いていた。何も言わなかったけど、その手の強さが、不安の大きさを物語っていた。


「大丈夫。今のところ、誰にも追われてない」


小声で言うと、トトはこくりと頷いた。それでも、手を離そうとはしなかった。


しばらく進んだところで、遠くの木立の向こうに、一瞬、何かが動いた気配があった。あたし全員が、同時に足を止める。息を殺して、闇の奥を見つめた。


「何かいた」


「鹿とか、そういうのじゃない?」


ヴァレナが小声で言う。それでも、得物から手を離さない。


しばらく待っても、何も起きなかった。気配は、風に紛れて消えていった。


「気のせい、かな」


「かもしれない。でも、油断はしない」


セシルが手帳を閉じて、また歩き出す合図をする。誰も、完全には安心できていなかった。


夜が更けても、あたしはなかなか寝つけなかった。左目に傷のある男の影が、まぶたの裏にちらついて離れなかった。

最後までありがとうございました!


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それでは次回の更新をお楽しみに!

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