(17)予兆
その日の街道は、やけに人通りが少なかった。乾いた風が土埃を巻き上げ、遠くの木立を揺らしている。普段なら、行商人や旅人とすれ違うはずの時間帯なのに、誰ともすれ違わない。
「静かすぎない、なんか」
「気のせいならいいけど」
ヴァレナが得物の柄に手を添えながら答える。いつもより警戒の色が濃い声だった。
次の街に近づくにつれ、その違和感は確信に変わっていった。街の門は固く閉ざされ、門番が二人、槍を構えて立っている。
「何用だ」
誰何する声には、明らかな緊張があった。あたしたちが手を上げて敵意のないことを示すと、門番の一人がようやく肩の力を抜いた。
「すまん。少し前に、賞金稼ぎが一人、この街を通っていってな」
「賞金稼ぎ」
「派手な暴れ方はしなかったが、宿場中の情報屋を締め上げて、根こそぎ噂を集めていったらしい。名乗らなかったが、身なりからして相当な手練れだったと聞く」
門番の話に、あたしたちは顔を見合わせた。セシルが小さく手帳を開く。
「特徴は」
「大柄な男だ。左目に古い傷がある、と。物腰は静かだが、目つきが尋常じゃなかったと、うちの若いのが言ってた」
聞けば聞くほど、嫌な予感が強くなる。あたしの嫌な予感は、だいたい当たる。今まで外れたことがない。
「その男、いつ頃この街を出た?」
「三日前だ。行き先までは分からんが、北に向かったという話も聞く」
北。あたしたちが今、向かおうとしている方角と、同じだった。
門を通してもらい、街の中に入ると、あちこちで住民たちが不安げに囁き合っているのが見えた。市場の活気はいつもよりずっと控えめで、店先に並ぶ商品も心なしか少ない。子供を連れた母親が、足早に路地を通り過ぎていく。噂話の中心には、決まって、あの賞金稼ぎのことがある。
「情報屋を締め上げた、って、穏やかじゃないね」
「穏やかじゃない、どころか、相当危険」
セシルが手帳に何か書き込みながら言う。
「これまでの追手は、あたしたちを見つけたら、その場で仕掛けてくるタイプばかりだった。この男は違う。先に情報を固めてから動く。慎重で、効率的」
「一番厄介なタイプってこと」
「一番厄介なタイプ」
セシルの声に、いつもの淡々とした調子とは違う、確かな緊張が滲んでいた。
情報屋の店先を通りかかると、シャッターが下りたままになっていた。貼り紙には、しばらく休業します、とだけ書かれている。
「あの男が締め上げた店、たぶんここだね」
セシルが立ち止まって、貼り紙を眺めながら言う。
「気の毒に」
「気の毒で済めばいいけど」
トトが不安げに呟いた。誰も、それを否定できなかった。
宿を確保して荷物を下ろすと、ヴァレナが窓の外を見張るように立ったまま、口を開いた。
「今夜は、交代で見張りを立てよう」
「大げさじゃない?」
「大げさなくらいで、ちょうどいい。情報屋を締め上げるやり方、あたしも聞いたことがある」
ヴァレナの声には、これまでにない重さがあった。
「昔、似たようなやり口の傭兵を見たことがある。獲物を追い詰める前に、退路を全部潰す。逃げ場をなくしてから、初めて姿を見せるタイプ」
「詳しいね」
「昔の話」
それ以上は語らず、ヴァレナは口をつぐんだ。踏み込んでいい話じゃないことは、あたしにも分かる。あの夜、路地でヴァレナを拾ったときのことを思い出す。理由は聞いていない。聞かなくていいと思っている。それでも、こういう瞬間に、彼女の過去がわずかに顔を覗かせる。
「対策は」
セシルが手帳を開いて、話を本題に戻した。
「一つ。今夜のうちに、この街を離れる。情報屋を締め上げたばかりなら、まだ次の街までは追ってきていないはず」
「移動中に見つかったら」
「二つ、街道を使わず、獣道を通る。時間はかかるけど、足取りは追いにくくなる」
「三つは」
「三つ、もし追いつかれたら、リクが一番大きな武勇伝を切る。それで稼いだ時間で、残りは全力で逃げる」
セシルの提案は、いつも通り具体的で、いつも通り容赦がなかった。ヴァレナが小さく頷く。
「妥当な線だと思う」
「あたし、また囮ってこと」
「囮っていうか、一番頼りになる盾」
セシルが真顔で言うので、それ以上文句を言えなかった。頼られているのか、便利に使われているのか、微妙なところだけど、悪い気はしなかった。
トトが、部屋の隅で膝を抱えて座っていた。不安そうな顔を隠そうともしない。あたしはその隣に腰を下ろした。
「怖い?」
「怖い」
素直な返事だった。
「あたしも、正直、ちょっと怖い」
「リクでも怖いんだ」
「怖くないふりするのは得意だけど、怖くないわけじゃない」
我ながら、格好つかない答えだった。それでも、嘘をつくよりはよっぽどましだと思う。
「じゃあ、どうするの、怖いとき」
「逃げる。それで解決しなかったことは、今のところない」
「それだけ?」
「それだけ。あとは、逃げながら考える。立ち止まって考えるより、そっちのほうが性に合ってる」
いい加減な答えのつもりだったけど、トトは真剣な顔で聞いていた。
「あたしも、それでいい?」
「いいよ。あんたのペースで、あんたのやり方で逃げればいい。逃げ方に、正解なんてない」
トトが、少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。完全に不安が消えたわけじゃないだろうけど、それでも、さっきよりは呼吸が楽になったように見えた。
窓の外で、日が沈み始めていた。橙色の光が、部屋の中まで長く差し込んでくる。誰も、それ以上多くを語らなかった。ただ、それぞれのやり方で、来るべきものに備え始めていた。
日が完全に落ちる前に、あたしたちは宿を引き払うことにした。荷物を最低限にまとめ直し、会計を済ませる。宿の主人は不思議そうな顔をしていたけど、深くは聞いてこなかった。この街の人間は、もう慣れているのかもしれない。何かから逃げている旅人を見る目に。
裏口からこっそり街を出ると、外はもうすっかり夜だった。月明かりだけが頼りの街道を、獣道に逸れながら進んでいく。草を踏む音、虫の声、風が木々を揺らす音。それ以外は、何も聞こえない。
「本当に、この道で合ってる?」
「合ってる、と思う」
「思う、なんだ」
「星の位置から計算した推定値。断言はできないけど、大きくは外れないはず」
セシルの声は、いつもより低く抑えられていた。大声を出せる状況じゃないことは、みんな分かっている。
先頭を歩くヴァレナが、時折足を止めて、周囲の気配を探っていた。得物の柄に触れる手が、いつもより緊張している。
「何か」
「今のところ、何も。念のため」
短いやり取りが、暗闇の中で繰り返される。トトは、あたしの服の裾を、ずっと握ったまま歩いていた。何も言わなかったけど、その手の強さが、不安の大きさを物語っていた。
「大丈夫。今のところ、誰にも追われてない」
小声で言うと、トトはこくりと頷いた。それでも、手を離そうとはしなかった。
しばらく進んだところで、遠くの木立の向こうに、一瞬、何かが動いた気配があった。あたし全員が、同時に足を止める。息を殺して、闇の奥を見つめた。
「何かいた」
「鹿とか、そういうのじゃない?」
ヴァレナが小声で言う。それでも、得物から手を離さない。
しばらく待っても、何も起きなかった。気配は、風に紛れて消えていった。
「気のせい、かな」
「かもしれない。でも、油断はしない」
セシルが手帳を閉じて、また歩き出す合図をする。誰も、完全には安心できていなかった。
夜が更けても、あたしはなかなか寝つけなかった。左目に傷のある男の影が、まぶたの裏にちらついて離れなかった。
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