(16)トト、名乗る
翌朝、宿の食堂には、まだ朝靄が薄く漂っていた。焼きたてのパンの匂いと、湯気の立つスープの匂いが、鼻先をくすぐる。窓の外では、鳥の声がのどかに響いていた。
朝食を終えて出発の支度を始めたところで、トトがめずらしく自分から声をかけてきた。
「話がある」
短い一言だった。
いつもの素っ気ない口調とは、少し違う響きだった。あたしは荷物をまとめる手を止めて、トトの正面に座り直す。ヴァレナとセシルも、自然とその場に集まってきた。
窓から差し込む朝の光が、トトの顔を斜めに照らしていた。深呼吸を一つしてから、トトはゆっくりと口を開いた。
「トト、っていうのは、本当の名前じゃない」
誰も口を挟まなかった。トトが自分のペースで話せるように、みんな黙って耳を傾けている。
「本当の名前は、言わない。まだ、言う覚悟ができてない。でも、ある家の生まれだってことだけは、話す」
「ある家」
「詳しくは言えない。ただ、そこそこ知られた家で、あたしがいなくなったことで、困る人たちがいる。探されてるのは、たぶんそのせい」
言葉を選びながら、トトはぽつりぽつりと続けた。
「家を出たのは、自分の意思。誰かに攫われたとか、そういうんじゃない。うまく説明できないけど、あの家にいたら、あたしはあたしじゃなくなる気がして」
気がして、という言葉に、あたしはあえて突っ込まなかった。子供の言葉を、大人の理屈で正そうとするのは、野暮というものだ。
「探してる人たちが、どんな人なのか、あたしも全部は知らない。優しい人もいれば、そうじゃない人もいる。だから、見つかるのが怖い」
トトの声が、少しだけ震えた。それでも、逃げずに最後まで言い切った。
「一番怖いのは、見つかったら、また、あたしじゃない誰かにされることだと思う。名前も、着るものも、しゃべり方まで、全部決められて。それが嫌で、逃げてきた」
窓の外を見つめる横顔が、年齢よりずっと大人びて見えた。子供らしい我儘とは違う、もっと切実な響きがあった。あたしは相槌も打たずに、ただ黙って聞き続けた。
「詳しいこと、まだ話せなくてごめん。でも、これだけは、ちゃんと言っておきたかった」
ずっと、言おうか言うまいか迷っていたんだろう。トトの膝に置かれた手は、話し始めたときからずっと、きつく握られたままだった。指の関節が、うっすら白くなっている。
沈黙が、しばらく続いた。窓の外から、遠くの鶏の鳴き声が聞こえてくる。あたしは、何を言うべきか考えて、結局、いつもの調子で口を開いた。
「話してくれて、ありがとう。でも、それだけ?」
「それだけ、って」
「詳しい事情、まだ聞いてないけど、それで困ることある? 今更、あんたを放り出す理由にはならないでしょ」
トトが、少し驚いた顔をした。
「怖くないの、巻き込まれるの」
「今更。とっくに巻き込まれてる。ガイン・オルスの噂聞いたときから、覚悟くらいはできてる」
我ながら、投げやりな言い草だった。それでも、口にした瞬間、するりと本音がこぼれた。実際、覚悟なんてものは、大層な形で決めるものじゃない。気づいたら、もう決まっていることのほうが多い。
ヴァレナが、静かに付け加えた。
「事情なんて、あとから分かればいい。今、目の前にいるあんたが、あたしたちの知ってるトトなら、それで十分」
「セシルは」
聞かれて、セシルは手帳を軽く叩きながら答えた。
「今の話、数字にできない部分が多すぎる。だから、計算はしない。ただ、あんたが噓をついてないってことだけは、分かる」
いつもとは違う言い方だった。数字じゃなくて、ちゃんとトト自身を見て言っている言葉だった。
トトの目に、うっすら涙が浮かんでいた。慌てて袖でこすって、隠そうとする。
「泣いてない」
「泣いてるけど」
「あたしは、絶対に泣いてない」
意地の張り方だけは、いつも通りで安心した。あたしは小さく笑って、それ以上は追及しなかった。ヴァレナが、無言でハンカチを差し出す。トトは一瞬ためらってから、それを受け取った。
「ありがと」
「別に」
素っ気ない返事は、ヴァレナの十八番だ。それでも、差し出すタイミングだけは、いつも絶妙だった。口数の少なさと、行動の早さは、いつも反比例している。
「いつか、本当の名前、教えてくれる?」
「いつか」
「急かさない。待つのは得意」
トトは、小さく頷いた。表情に、少しだけ、これまでよりも柔らかいものが混じっていた。
荷物を背負い直して、宿を出る。朝の光の中、四人分の足音が、街道に響いていく。誰も本当の名前は知らないままだけど、それでも、家族と呼んでいいくらいの距離には、もう来ているんだと思う。
歩き出してしばらく、トトがぽつりと呟いた。
「リクは、あたしみたいな秘密、ないの」
「ないよ、名前も出自も、全部知られてる。あるとすれば、恥ずかしい記憶の在庫だけ」
「それも、けっこうな秘密じゃない」
「あれは秘密っていうか、隠す気がないだけ。聞かれたら全部話す」
「今の、ちょっと格好よかった」
「格好よく言ったつもりないんだけど」
トトが珍しく、素直に感心した顔をしていた。調子が狂う。あたしは慌てて話をそらす。
「とにかく、あんたのペースでいい。急かさない」
「屁理屈っぽい優しさだけど、ありがとう」
「屁理屈で生きてる女なんで」
胸を張って言うと、ヴァレナが呆れたように口を挟んだ。
「トト、こいつのそういうとこ、あんまり真似しないほうがいい」
「もう遅いかも」
トトが小さく笑う。その笑顔に、これまでよりずっと力が抜けていた。
セシルが、手帳を確認しながら口を開いた。
「本名は分からなくても、換算表の記録上は、トトで統一しとく。呼び方に困る」
「実務的だね」
「実務が一番、平等だから」
数字にできない事情でも、扱い方だけは変えない。それが、セシルなりの誠実さなんだろう。
いつも通りの、それでいて筋の通った答えに、なんだか安心した。名前を知らなくても、事情を知らなくても、一緒に歩いていける。それだけで十分だと、そう決めた。
その日の空は、雲一つない、まっすぐな青だった。振り返れば、トトが少し先を歩いて、初めて自分から先頭に立っていた。小さな背中が、いつもより、ほんの少しだけ大きく見えた。
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