(15)セシル、数字は裏切らない
その夜、あたしは寝つけなかった。ガイン・オルスという名前が、頭の隅にずっと引っかかっている。
布団から抜け出して、外の空気を吸いに部屋を出た。廊下は冷えていて、板張りの床が足の裏に冷たい。宿の裏手にある井戸端に出ると、月明かりの下に、先客がいた。セシルだった。手帳を膝に置いたまま、何も書かずに、ただ空を見上げている。夜露で湿った石畳の匂いが、あたりに漂っていた。
「眠れない?」
「あんたこそ」
隣に腰を下ろすと、夜風が冷たく頬を撫でた。虫の音だけが、あたりに響いている。
「さっきの話、聞いてから、ずっと考えてた」
「ガイン・オルスの話?」
「それもあるけど」セシルは膝の手帳を、指先でそっと撫でた。「数字は裏切らない、って、あたし、よく言うでしょ」
「よく言う」
「今日、ちゃんと理由話してなかったな、と思って」
セシルは、しばらく黙って月を見上げていた。それから、ゆっくりと語り始めた。
「あたし、昔は測量士組合にいた。まだ十二だったのに、組合の正式な計算記録の誤りを指摘したことがあるくらい、数字の飲み込みが早くて、期待されてた。土地の測量とか、税の換算とか、地味だけど大事な仕事」
「知ってる。詳しいもんね、換算周り」
「毎朝、組合の建物に一番乗りして、測量道具を手入れするのが日課だった。誰よりも早く仕事を覚えたかったし、誰よりも正確な数字を出したかった。子供っぽい意地だったと思う」
セシルは、懐かしむような、それでいてどこか痛みを堪えるような声で続けた。
「その仕事の中で、ある年の税収の記録に、大きな食い違いが見つかった。あたしが担当した区画の分だけ、数字が合わなかった」
淡々とした声だったけど、手帳を握る指先には、力がこもっていた。
「あたしのミスだって、上の人間に決めつけられた。抗議しても、証拠は向こうが持ってる記録だけ。あたしの計算のほうが正しかったのに、記録そのものが、あとから書き換えられてた」
「書き換えられてたって、誰が」
「分からない。分からないまま、あたしは組合を追い出された。十二歳の測量士見習いの言い分より、組合の正式な記録のほうが、周りには信じやすかったんだと思う」
追い出される日、組合の門前で、これまで世話になった先輩たちが、誰一人こちらを見ようとしなかったという。庇ってくれる人がいなかったわけじゃない。ただ、庇うより、自分の立場を守るほうを、みんな選んだだけだ。それも、責められることじゃないと、今なら分かる。
セシルは、そこで一度、言葉を切った。
「それから、人の言うことより、自分の目で確かめた数字のほうを、信じるようになった。数字は、勝手に書き換わったりしない。少なくとも、あたしが直接測ったものは」
「それで、換算表」
「それで、換算表」
繰り返す声に、ほんの少し、自嘲めいた響きが混じっていた。
「あんたと会ったのも、そのすぐあとだった」
「あたしと?」
「覚えてない? あんたが賞金首になりたてで、あちこちで騒ぎ起こしてた頃。あたしがいた町でも、たまたま騒ぎに巻き込まれてた」
言われて、記憶をたどる。かすかに覚えている。役人らしき男たちが誰かを取り囲んで、何やら怒鳴っている場面に、あたしがたまたま通りかかった日のことだ。
「あのとき、あたし、面倒事に首突っ込むつもりなんてなかったんだけど」
「知ってる。あんた、ただ役人の言ってる数字が、聞いててなんか気持ち悪かったから、適当に文句言っただけでしょ」
「そうだったかも」
正直、あまり細かくは覚えていない。ただ、役人が読み上げていた数字の辻褄が、なんとなく合っていないようで、思わず口を挟んでしまった記憶はある。あの頃のあたしは、賞金首になったばかりで気が立っていて、権威づらした相手を見ると、無条件で突っかかりたくなる時期だった。今思えば、ずいぶん危なっかしい絡み方をしたと思う。
「あの一言のせいで、周りがざわついて、記録がもう一度洗い直されることになった。結果的に、あたしを陥れた側の不正が、別件で発覚するきっかけになった」
「へえ。あたし、良いことしてたんだ」
「してた自覚、なかったでしょ」
「なかった」
素直に認めると、セシルは呆れたように笑った。夜の暗がりの中でも、その表情が柔らかいことは分かった。
「不正を働いた側の名前、今でも覚えてる?」
聞いてみると、セシルは小さく首を振った。
「覚えてる。でも、追いかけるつもりはない。仕返しより、正確でいることのほうが、あたしには大事だから」
「強いね」
「強くない。ただ、数字を疑われることだけは、二度と許したくないだけ」
その一言に、セシルの譲れない部分が、はっきりと滲んでいた。
「あんたは、正義感でも同情でもなく、ただ辻褄が合わないのが気に入らなかっただけ。そういう、変な公平さがある。誰かを助けようとして助けるんじゃなくて、勝手に筋を通した結果、誰かが助かる」
「褒めてる?」
「さあ、どうだろう」
いつものはぐらかしだったけど、声は柔らかかった。
「あの日から、あんたのあとをついていくことにした。理由なんて、大層なものじゃない。ただ、数字と同じくらい、裏切らない何かを、探してたのかもしれない」
夜風が、また一つ、井戸端を吹き抜けた。セシルは手帳を閉じて、小さく息をつく。
「長々と話した。柄にもなく」
「柄にもなく、はあたしの台詞なんだけど」
「たまには借りてもいいでしょ」
軽口で締めくくって、セシルは立ち上がった。振り返らずに、宿の中へ戻っていく後ろ姿を、あたしはしばらく見送っていた。
数字は裏切らない。その言葉の重さを、今日、少しだけ知った気がする。いや、気がするじゃなくて、確かに知った。セシルが、あたしという不確かなものに賭けてくれているのだと分かったから、なおさら、裏切りたくないと思った。
部屋に戻る前に、あたしは一度、夜空を見上げた。星が、やけにはっきり見える夜だった。ガイン・オルスという名前は、まだ不安の種として胸の隅に残っている。それでも、さっきよりは少しだけ、その不安に立ち向かえる、そんな心持ちになれた。仲間のことを、一つ深く知れたから、というだけの理由だけど、それで十分だった。
翌朝、食卓に顔を出すと、セシルはいつも通りの顔で手帳を開いていた。昨夜の話は、まるでなかったことのように、普段通りのやり取りが始まる。それでいいと思う。話したいときに話して、話し終えたら、また日常に戻る。それだけの、それだけでいい約束だった。
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