(14)宿場の噂
宿場町の酒場は、夕方から賑わい始めていた。煮込み料理の匂いと、こぼれた酒のにおいが混じり合う。あちこちのテーブルから、笑い声と怒鳴り声が入り混じって響いていた。
ここ数日、街を移動するたびに、あたしたちを見る目つきが少しずつ変わってきている。怖がられているのか、面白がられているのか、判断がつかない視線を、あちこちで感じるようになった。有名になる、というのは、案外こういう居心地の悪さとセットで来るものらしい。
「今日の宿、満室だったね」
セシルが手帳を片手に呟く。
「代わりに、酒場の奥に空き部屋があるって言われたんすけど」
「言われたのに、部屋じゃなくて食堂に来てるのはなんで」
「腹減ったから」
シンプルな理由に、ヴァレナが呆れた顔をした。それでも、誰も文句は言わずに、そのまま席についた。
隅の席に陣取って、四人で遅い夕食をとっていると、隣のテーブルから聞き覚えのある単語が飛び込んできた。
「チキンナイフの話、聞いたか」
思わず箸が止まる。ヴァレナが目配せしてきた。聞き耳を立てるつもりらしい。
「あの女、なんでも山を丸ごと吹き飛ばしたらしいぞ」
「山て。前は岩一個じゃなかったか」
「いや、俺が聞いた話じゃ、城壁ごと消し飛ばしたって」
隣のテーブルの男たちが、酒の勢いも手伝ってか、どんどん話を盛っていく。あたしは思わずセシルに小声で聞いた。
「あたし、いつ城壁壊した?」
「壊してない。壊したのは岩一個だけ」
「知ってる。確認しただけ」
噂というのは、本当に事実より面白いほうへ転がっていくものらしい。話を聞いているだけで、なんだか自分が知らない別人の武勇伝を聞かされているような気分になる。
「にしても、賞金額もえらいことになってるらしいな」
「聞いた話じゃ、国が三つがかりで賞金積み増ししてるって話だ」
「三つて」
思わず声が出た。ヴァレナに肘で小突かれて、慌てて口を閉じる。
「静かに聞いてなよ、少しは」
小声で注意されて、あたしは黙って耳を澄ませた。
「そういや、新しい賞金稼ぎが動いてるって噂、聞いたか」
「ああ、あの、名うての男か」
「名うての男」
その響きに、テーブルの空気が、少しだけ変わった。トトが箸を止めて、こちらを見る。
「ガイン・オルスとかいう男らしい。逃げた獲物を逃したことがない、って評判の」
聞いたことのない名前だった。それでも、口にされた瞬間、なんとなく背筋がひやりとした。ザラ・ヴィントとはまた違う質の、嫌な予感だった。
「ザラの噂は最近聞かないが、代わりにそっちが動いてるってことか」
「金の匂いには敏感な連中だからな。賞金が跳ね上がれば、大物も動く」
「そういや、ザラの噂も昔はすごかったよな。逃がさない、で有名だった女だろ」
「今どうしてんだろうな、あの女」
その名前にも、思わず反応しそうになった。ザラ・ヴィントの噂は、この宿場ではまだ生きているらしい。あの森での一戦から、もう何日も経つのに、名前だけが独り歩きしている。
「聞いた話じゃ、今はどっかで大人しくしてるらしいぜ。珍しく獲物を逃したとかで」
「へえ、あの女がねえ」
聞いているだけで、なんだか妙な気分になった。噂話一つで、人の評判はどうとでも姿を変えるらしい。逃したんじゃない、逃げられたんだ、と訂正したい衝動を、なんとか飲み込む。
それだけ言うと、男たちは話題を変えて、また別の噂話に花を咲かせ始めた。あたしたちのテーブルには、しばらく沈黙が続いた。
「聞いた?」
「聞いた」
セシルが手帳を開いて、何か書き留めている。
「ガイン・オルス。名前だけでも記録しておく。念のため」
「用心深いね」
「用心深いくらいでちょうどいい。相手が本物なら、笑い話じゃ済まない」
ヴァレナが静かに言った。得物の柄に触れる指先に、いつもより少し力が入っている。窓際の席では、さっきの男たちが、まだ楽しげに酒を酌み交わしていた。あたしたちだけが、少し違う温度の空気を纏っている。
トトは何も言わず、ただ黙って料理を見つめていた。あたしはその横顔に、そっと声をかける。
「大丈夫。今すぐどうこうって話じゃないでしょ」
「うん」
短い返事だったけど、いつもより頼りない声だった。
食事を終えて部屋に戻ってからも、聞いた名前が頭の片隅から離れなかった。ガイン・オルス。逃げた獲物を逃さない男。今のところ、ただの噂話に過ぎない。それでも、噂というのは、たいてい遅れてやってくる本物の前触れだ。
部屋に戻ると、トトがベッドの端に腰かけて、じっと床を見つめていた。
「怖い?」
聞いてみると、トトは少し間を置いてから答えた。
「怖くない、って言ったら嘘になる」
はっきりとした声だった。
「素直だね」
「リクの真似。嘘つかないほうが、あとで楽だって言ってたから」
言われてみれば、そんなことを言った覚えもある。自分の言葉が、こんな形で返ってくるとは思わなかった。
「大丈夫。あんたは一人じゃない」
我ながら、締まらない台詞だった。台詞帳には載せない。それでも、トトは小さく頷いた。膝に置いた手を、ぎゅっと握りしめている。
廊下に出ると、セシルとヴァレナが、低い声で何か話し込んでいた。あたしの気配に気づくと、セシルが手帳を閉じる。
「対策、考えてた」
「対策って」
「ガイン・オルスの情報、集められるだけ集める。噂だけじゃ、対処のしようがない」
「集めてどうするの」
「戦い方の癖、行動範囲、これまでの手口。分かるだけでも、選べる手が増える」
セシルの声には、いつもの数字口調とは少し違う、静かな緊張があった。
「用心深いにも程があるでしょ」
「命がかかってる話に、程はいらない」
正論すぎて、あたしには返す言葉がなかった。ヴァレナが静かに付け加える。
「相手が本物なら、今までみたいにはいかないかもしれない。心構えだけは、しておいたほうがいい」
いつになく真剣な声だった。あたしは小さく頷いて、それ以上の軽口を飲み込んだ。こういうとき、いつもの調子で茶化さないヴァレナの声には、いつもより重みがある。
窓の外の宿場町は、まだ賑やかな音を立てていた。その喧騒の向こうに、見えない足音が確かに近づいてきていた。今はまだ、遠い。それでも、確実に、こちらへ向かっている足音だった。
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