第9話 知っていること
「ばきっ!」
朝、広場へ出た瞬間にまた聞こえた。大和は足を止める。目の前では犬耳の子供が木の棒を振り下ろし、その横で猫耳の子供も同じように真似をしている。
「ばきっ!」
二人で笑った。大和は無言で近づく。子供たちが逃げる。
「待て!」
笑いながら走る。
「誰が教えた!」
「アビナ!」
遠くから声が飛んだ。
「違うニャ!」
家の陰からアビナが顔を出す。
「お前だろ!」
「私は一回しか言ってないニャ!」
「一回言ったのかよ!」
子供たちがまた逃げていった。大和は追うのをやめ、川へ続く道を見た。今日も水桶を担いでいる者がいる。何か楽にできそうなのに、肝心の作り方を思い出せなかった。大和は腕を組んだ。
「さて」
アビナが近づいてくる。
「何するニャ?」
「考える」
「珍しいニャ」
「失礼だな」
「何を?」
大和は少し考えた。
「俺のいたところにあったもの」
「何があった?」
「いっぱい」
「作れる?」
「そこなんだよ」
大和はため息をついた。冷蔵庫も電話もコンピューターも、毎日使っていた。中を開けたことはほとんどない。
「便利なものはいっぱい知ってる」
「じゃあ作ればいいニャ」
「作り方を知らない」
アビナが大和を見る。
「役に立たないニャ」
「ルシアンと同じこと言うな」
昨日、水車の話をした。大きな車輪が水で回る。そこまでは分かる。でも、回して何をするのか。どう力を伝えるのか。何で作るのか。そこから急に怪しくなる。
「でも」
大和は村を見る。全部が難しいものではない。もっと単純なもの。自分が形まで分かるもの。
「車輪」
「しゃりん?」
「丸いやつ」
大和は地面へしゃがみ、指で円を描いた。
「こういうの」
アビナもしゃがむ。
「丸」
「そう」
「あるよ」
「ある?」
大和が顔を上げた。
「どこに?」
アビナが村の端を指す。連れていかれた先には、大きな木の台があった。その下に二つの丸い木。大和は止まる。
「あるじゃん」
「あるニャ」
荷車だった。かなり簡素だが、間違いなく車輪がついている。大和は少し落胆した。
「異世界知識無双、一瞬で終わったな」
「何ニャ?」
「こっちの話」
荷車を見る。四角い荷台と二つの車輪を、太い車軸が支えている。大量に運べそうな大きさだった。ただ、狭い道や畑、川沿いでは使いにくそうだ。昨日、水桶を運んでいた人たちは肩に担いでいた。
「これ使わないの?」
「道が悪い」
後ろから声がした。シェルドだ。
「おはようございます」
「何をしている」
「文明を進歩させようかと」
シェルドは数秒、大和を見る。
「朝から?」
「今ちょっと心折れましたけど」
大和は荷車を指した。
「これ、もうある」
「当たり前だ」
「俺の世界にもあった」
「そうか」
反応が薄い。大和は少し考える。
「でも、小さくしたら?」
シェルドが見る。
「何を」
「これ」
「小さい荷車もある」
「あるの?」
「ある」
「全部あるな!」
大和が少し悔しくなる。シェルドが不思議そうに見る。
「お前の世界にしかないものを探しているのか」
「そういうわけじゃないけど」
少し、そういう気持ちはあった。何か一つくらい教えられると思ったのに、二つ言って二つとも、もうあった。
「そりゃそうだよな」
大和は頭を掻いた。シェルドが聞く。
「何がしたい」
「昨日」
大和は水を運んでいた者たちを指した。今日も川から桶を運んでいる。
「大変そうだったから」
「水運びか」
「何か楽にできないかなって」
シェルドが少し考える。
「荷車は使えない」
「道?」
「川までの道が狭い」
「広げれば?」
「木を切る」
「はい」
「根を抜く」
「はい」
「地面を均す」
「はい」
「雨が降れば崩れる」
「……大変ですね」
「水を運ぶために道を作るなら、今の方が早い」
大和は道の脇に張った根を見た。あれを全部抜く間も、水は運ばなければならない。
「じゃあ」
大和はもう一度荷車を見る。もっと細い道を、一人で通れるものはなかったか。
「一輪車」
声に出た。シェルドが聞く。
「何だ」
大和は地面へしゃがみ、棒で絵を描く。一つの車輪。その後ろに荷物を載せる台。二本の持ち手。
「こういうの」
シェルドもしゃがむ。
「一つでは倒れるだろう」
「持ってれば倒れない。置く時は……脚がいるな」
大和は適当に二本描き足した。
「こんな感じ」
シェルドが絵を見る。
「何に使う」
「荷物」
「二輪の方が安定する」
「でも、これなら細いところ通れる」
大和は狭い道を指した。シェルドが少し黙る。
「あと、荷物の重さを全部持たなくていい」
「なぜ」
「車輪が」
大和は止まった。説明できない。
「えーと……車輪が半分くらい持つ」
「半分?」
「多分」
「多分か」
「いや」
大和は必死で思い出す。一輪車を使ったことはほとんどない。でも原理なら、学校で習った気がする。支点。力点。作用点。
「あ」
大和は別の絵を描いた。
「てこだ」
「てこ?」
「こう」
石を一つ置き、長い枝をその下へ差し込む。途中に小さな石を置いて支点にし、端を押す。大きな石が少し動いた。
「ほら」
シェルドが大和を見る。
「それは知っている」
「ですよね!」
また心が折れる。アビナが横で笑う。
「ヤマト、何も教えられてないニャ」
「うるさい」
でもシェルドは、一輪車の絵をまだ見ていた。
「車輪を支点にして、荷物をこの上へ置くのか」
シェルドが絵をなぞり、持ち手を指した。
「これを上げるなら、全部を持ち上げるより力は減る」
「そうそう」
大和が少し嬉しくなる。
「でしょ?」
「ただし前が重い」
「それは」
「車輪が沈む」
「そこは」
「横へ倒れやすい」
「……そこは作りながら」
シェルドが大和を見る。
「作れると言ったのか?」
「言ってない」
「ならいい」
「いいんだ」
シェルドが立ち上がる。
「ドランに見せる」
「ドラン?」
「木工をしている」
木を加工してくれる人がいる。大和は地面の絵を指でなぞり直した。
「作ってくれる?」
「使えると思えば」
「使えないと思ったら?」
「作らない」
「やっぱりシェルドだな」
少しして、大和は村の一角にある作業場へいた。削り屑の匂いがした。木材と道具の間に、大柄で腕の太い男が立っている。頭の上に犬の耳があった。シェルドが呼ぶと、男は手を止めた。大和は地面にもう一度、一輪車を描いた。
男――ドランはしばらく黙っていた。そして大和を見る。
「これを見たことがある?」
「あります」
「作ったことは?」
「ありません」
「使ったことは?」
「……ほとんどありません」
ドランがシェルドを見る。シェルドが答える。
「そういう男だ」
「どういう男ですか」
大和が抗議する。ドランは少し笑った。
「車輪はこの大きさか?」
「多分」
「幅は?」
「分かりません」
「荷台は?」
「こんな感じ」
大和は手で適当に示す。
「材料は?」
「木?」
ドランがまたシェルドを見る。
「本当に大丈夫か」
「だから、俺は形しか知らないんですって」
ドランは腕を組み、地面の絵を見る。
「面白い」
大和が止まる。
「作る?」
「小さいものなら」
「本当?」
「使えるかは知らん」
「それでいいです」
大和は思った以上に嬉しかった。地面の絵を見直した。今回は「もうある」と言われなかった。
「ただ」
ドランが言う。
「車輪は小さくする」
「何で?」
「この大きさでは重い」
「なるほど」
「荷台も狭くする」
「はい」
「持ち手はもっと上」
「はい」
大和は少し笑った。もう、自分の知っている一輪車と少しずつ変わっていく。でも、それでいい。むしろその方が面白い。作業が始まった。ドランが木を切り、削り、合わせていく。穴を開けた車輪へ軸を通すところで、大和は思わず身を乗り出した。
「すごいな」
素直に言う。ドランは手を止めない。
「何が」
「こんなの作れるの」
「仕事だからな」
「俺のところだと、こういうのも店で買ってた」
「自分で作らない?」
「ほとんど」
「壊れたら?」
「買う」
ドランの手が一瞬止まる。
「直さない?」
「直す人もいるけど」
「変なところだな」
大和は笑った。
「俺も今そう思う」
やがて、仮組みの一輪車ができた。車輪と荷台、持ち手がようやく一つに組み上がった。表面はまだ粗い。ドランが地面へ置く。
「持て」
大和が持ち手を掴む。上げる。軽い。
「お」
前に押す。車輪が回る。
「これこれ!」
少し嬉しくなり、速度を上げた。
「おお!」
次の瞬間、車輪が石に乗った。一輪車が横へ傾く。大和は反射的に力で押さえた。荷台が逆方向へねじれる。ばき。木が一本折れた。
「……」
折れた木を四人で見下ろした。アビナが小さく言った。
「ばきっ」
「言うな!」
ドランが額を押さえる。
「お前は触るな」
「作った意味!」
「普通の力の者で試す」
「俺も普通に使えるようになりたいんですけど!」
結局、試すのはレティになった。
「何これ?」
「一輪車」
「いちりんしゃ?」
「俺の世界にあった」
レティが嬉しそうに持つ。荷台には薪を少し載せた。
「持って」
「うん」
持ち上げる。
「軽い」
大和が得意そうになる。
「だろ?」
「ヤマト作ったの?」
大和は一瞬、答えかける。
「いや」
ドランを見る。
「俺は絵を描いただけ。ドランが作った」
「押してみて」
レティが歩く。車輪が回り、細い道を進む。
「おお」
アビナがついていく。
「貸してニャ!」
「まだ!」
レティが笑う。少し地面が傾いた。荷物が横へ寄る。
「わっ」
レティが踏ん張る。
「重い!」
ドランがすぐ見る。
「荷台が高い」
シェルドも言う。
「横へ動く」
ルシアンが、いつの間にか来ていた。
「荷物を固定した方がいい」
大和が振り返る。
「いつ来た?」
「さっき」
ルシアンが一輪車を見る。
「車輪を、もう少し荷物の真下へ」
ドランが聞く。
「なぜ」
「重さが持ち手に来すぎる」
ドランは少し考える。大和は口を挟まなかった。分からないからだ。ルシアンとドランが話す。シェルドも使う場所を考える。レティは実際に押す。アビナは触りたがる。
「ねえ」
アビナが言う。
「これ、乗れる?」
大和が即座に答える。
「やめろ」
「なんでニャ?」
「絶対やると思った」
「レティ押して」
「いいよ!」
「よくない!」
大和が止める。止めている間にも、ドランとルシアンは車輪の位置を変える相談をしていた。地面の絵とは、ずいぶん形が違ってきている。
「こういうのでいいのか」
小さく呟く。シェルドが聞く。
「何が」
「いや」
大和は少し笑う。
「俺が全部知ってなくても」
「当たり前だ」
即答だった。
「お前が知らないことは、俺たちが考える」
大和は返事をしかけ、ドランたちの方を見た。もう木に新しい印を付けている。
「そうですね」
その日の午後、二号機が完成した。車輪は一号機より荷台の中心寄りに付け直した。荷台は低い。横板がつき、荷物も落ちにくい。持ち手もレティの身長に合わせて少し変えた。試す。今度はかなりいい。
薪を運べる。桶も二つ載せる。ただし水は揺れてこぼれた。
「蓋いるな」
大和が言う。レティが笑う。
「でも楽!」
川から村までの細い道を、一輪車が通る。肩で桶を持たなくていい。レティが村へ戻ると、周囲の者たちが見る。子供がついてくる。大人も見る。大和は少し恥ずかしかった。別に自分が作ったわけではない。
それでも何となく誇らしい。
「ヤマト」
アキトが近づいてくる。
「これがお前の世界の道具か」
「はい」
「便利だな」
その一言が、大和には思った以上に嬉しかった。怪物を倒した時には、みんな大和の腕を見ていた。今日は、レティの押す荷車を取り囲んでいる。
「こういう方がいいな」
大和が小さく言う。アキトが聞く。
「何が」
「いや」
大和は一輪車を見る。
「怪物殺すより、こっちの方が好きです」
アキトは少し笑った。
「俺もだ」
夕方、大和はまた倉庫にいた。シェルドと昨日の続きをする。
「今日は壊さないですよ」
「倉庫で何を壊すつもりだ」
「信用ないなあ」
大和は板を見る。入った数と出た数、残りの数。昨日思いついたことを、順に確かめた。
「紙あります?」
「紙?」
「何か書けるもの」
シェルドが薄い木板を数枚持ってくる。
「これ」
「もっと小さいの」
「何に使う」
大和は少し考える。
「昨日、これが何個あるか書いてましたよね」
袋を指す。
「そうだ」
「でも」
新しい板を取り、線を引く。うまく真っ直ぐにならない。
「最初の数、入ってきた数、使った数。最後に残り」
欄を分けながら、順に指した。シェルドが見る。
「それを毎回書く?」
「そう」
「面倒だ」
「俺もそう思います」
大和が即答すると、シェルドが眉を寄せた。
「ならなぜやる」
「後で楽だから」
「どう楽になる」
大和は袋を指した。
「例えば昨日、麦が何袋あった?」
「二十八」
「今日?」
「二十五」
「何で三袋減った?」
「二袋使った。一袋を東の家へ回した」
「全部覚えてる?」
「このくらいなら」
「もっと増えたら?」
シェルドが少し黙る。大和は続ける。
「村が大きくなったら、誰が何を使ったか。どこから何が来たか。何が減ってるか。全部覚える?」
シェルドが板を見る。
「書けば」
大和は少し得意そうに言った。
「忘れても残る」
シェルドは黙った。大和はさらに一枚板を取り、品物の名前と数を書く場所を示す。
「誰が書いても、欄の順番は同じにするんです。見ればどれが残りか分かるように」
シェルドは二枚の板を並べ、欄を見比べた。
「書き方を決めるのか」
「そう」
大和は自分で言いながら、昔を思い出していた。仕事で、決められた欄へ数字を入れていたことを思い出す。面倒だと思っていた自分が、今は同じことを勧めていた。
「俺のところでは、こういうのばっかりだった」
「便利だった?」
「面倒でした」
シェルドの眉がまた寄る。
「お前」
「でも必要だったんですって!」
大和は笑う。
「人が増えるほど、物が増えるほど、覚えてるだけじゃ無理になる」
シェルドはしばらく板を見る。
「全部変えるのは面倒だ」
「ですよね」
「まず麦だけ試す」
大和が少し嬉しくなる。
「いいんですか?」
「使えるなら増やす」
「使えなかったら?」
「やめる」
「分かりやすいなあ」
二人で板を書く。大和はここの文字をまだよく知らない。だから実際に書くのはシェルドだ。
「ここ」
大和が言う。
「日付」
「ひづけ?」
「今日」
「今日と書くのか」
「いや」
大和は止まった。この世界では日付をどう管理しているのか。聞くと、シェルドが季節、月、日の数え方を説明した。大和の知っているものとは少し違う。
「そこから覚えないとダメか」
「お前がだ」
「はい」
大和が頭を抱える。教えるつもりが、自分が教わっている。でも、それも妙に楽しい。夜の食事では、一輪車が話題になった。村人が何度も見に来たらしい。
「明日使わせて」
「畑で使える?」
「石運べる?」
「子供乗せられる?」
大和は最後だけ止めた。
「それはやめて」
アビナが不満そうな顔をする。
「なんでニャ」
「お前が乗るから」
「乗りたいニャ」
「壊れる」
「ヤマトが乗らなければ大丈夫ニャ」
周りが笑う。
「俺が壊す前提やめろ!」
また笑いが起きる。ノルアはその様子を見ていた。食後、大和が外へ出ると、少し涼しい風が吹いていた。村の端に一輪車が置いてある。大和はそこへ行って眺めた。木は少し歪んでいる。車輪も完璧な円ではない。
自分が知っているホームセンターの商品とは全然違う。でも今日、人が使った。役に立った。
「何見てるの?」
後ろからノルアの声。
「これ」
大和は一輪車を指す。
「嬉しい?」
「ちょっと」
「作ったから?」
「俺が作ったんじゃない」
大和はすぐに言う。
「ドランが作った」
「でもヤマトが教えた」
「形だけ」
ノルアが一輪車を見る。
「それでも昨日までなかった」
大和は黙る。持ち手には、レティの手に合わせて削った跡があった。大和の絵には、そんな細かいことは何も描いていなかった。
「俺、こういうのだったら、もっと知ってるかもしれない」
ノルアが見る。
「何を?」
「便利なもの」
「作れる?」
「だから」
大和が笑う。
「作り方は知らない」
ノルアも笑う。
「でも」
大和は村を見る。そして昨日見た川を思い出す。
「水車」
口にする。ノルアが首を傾げる。
「昨日も言ってた?」
「ルシアンから聞いた?」
「うん」
「情報回るの早いな」
大和は少し考える。
「水で、大きな車輪を回す」
「うん」
「回った力を使う」
「何に?」
「……それを」
大和は頭を抱える。
「思い出してる」
ノルアが笑う。
「また?」
「また」
水車の回る映像を思い出した。その奥にあったもの。麦の袋と、粉を挽く石。
「あ」
大和が顔を上げる。
「粉」
「粉?」
「そうだ」
小麦を粉にする。石臼を回す。
「水車で」
大和は手を回した。
「これ」
「何?」
「石臼」
ノルアが少し驚く。
「石臼ならあるよ」
大和の動きが止まった。
「ある?」
「ある」
「どこ?」
翌朝。大和は村の石臼を見ていた。二人が棒を持って重い石を回していた。ごり、ごりと音がして、穀物が粉になる。大和は口を開けた。
「これだ」




