第8話 暮らす
翌朝、大和は目が覚めても、しばらく天井を眺めていた。木の梁は少し歪み、板の隙間から細い光が差し込んでいる。静かだった。怪物はいない。走らなくていいし、腕から妙な刃を出す必要もない。
「……平和だ」
口にしてみると、それだけで少し可笑しかった。身体を起こし、昨日の戦いで傷を負った場所を確かめる。当然のように何も残っていない。
「便利なんだけどなあ」
右腕を見る。どこから見ても普通の人間の腕だ。これが変形し、怪物を殺せる。考え始めれば、また面倒なことばかり浮かんでくる。大和は立ち上がった。
「今日は考えない」
そう決めて外へ出ると、村はすでに動き始めていた。荷物を運ぶ者。火を起こす者。畑へ向かう者。家畜らしい動物へ餌をやる子供。大和が知らないだけで、ここには毎日繰り返されている生活がある。
昨日まで、怪物ばかり見ていた。だが本当は、怪物と戦う時間より、こうして暮らしている時間の方がずっと長いのだろう。
「ヤマト」
声を掛けられて振り向くと、アキトが立っていた。手には斧を持っている。
「おはようございます」
「もう動けるか?」
「はい」
「なら来い」
「どこへ?」
アキトは斧を大和へ差し出した。
「働くと言っただろう」
大和は斧を見る。
「早速?」
「飯を食うなら働く」
「正論だ」
文句は言えない。大和はアキトについて村の端まで行った。そこには大量の丸太や枝、乾燥させた木材、その横には薪が積んである。
「これ?」
「割る」
アキトが言った。大和は少し安心した。
「薪割りなら分かります」
「やったことがあるのか?」
「ないです」
アキトが大和を見る。
「分かると言っただろう」
「見たことはあります」
「同じじゃない」
「ごもっとも」
アキトは一本の木を台へ立て、斧を振り上げた。乾いた音とともに木がきれいに割れる。
「こうだ」
「簡単そう」
「やってみろ」
大和は斧を受け取り、丸太を立てた。先日、槍を投げた時のことを思い出す。力を入れすぎるな。軽く。本当に軽く。斧を振り下ろした。ばきん。丸太は割れた。そこまではよかった。斧はその下の台にまで深々と食い込んでいた。
「……」
大和とアキトが、二人そろって斧を見る。
「軽くやったんですけど」
「もっと軽くしろ」
「はい」
大和は斧を抜こうとした。抜けない。少し力を入れる。台ごと持ち上がった。
「……」
「もっと丁寧に扱え」
「はい」
何だろう。怪物と戦っている時より恥ずかしい。二本目はかなり弱く振った。ぱこん。木が途中まで割れる。
「お。これくらい?」
「もう少し」
もう一度振る。ぱき。今度はきれいに割れた。
「できた」
アキトが頷く。
「そのくらいでいい」
大和は少し得意になる。
「力加減さえ覚えたら余裕ですね」
その十分後、大和は斧の柄を折った。
「……」
手の中には半分になった柄が残っている。大和はアキトを見た。アキトは何も言わない。その沈黙が痛い。
「すみません」
「二本目だ」
「一本目は折ってないですよ」
「台を壊した」
「あれも数える?」
「数える」
大和は素直に頭を下げた。
「すみませんでした」
アキトはため息をつき、折れた柄を拾った。
「力が強いことと、仕事ができることは違う」
大和は少し笑った。
「それ、かなり刺さります」
「何がだ」
「いや」
足元には割った薪と、使えなくした柄が並んでいた。大和は折れた方を拾い集めた。アキトが新しい斧を持ってくる。
「もう一度」
「まだやらせてくれる?」
「できるようになるまでやれ」
「厳しいなあ」
「飯を食うんだろう」
「食べます」
「なら働け」
「はい」
それから大和は、かなり真面目に薪を割った。
昼前には、ようやく手頃な大きさの薪が積み上がった。身体はまったく疲れていない。ただ、精神的には少し疲れた。
「終わった……」
大和がその場に座ると、アキトが薪の山を眺めた。
「最初よりはましになった」
「褒めてます?」
「褒めている」
「もっと分かりやすく褒めてください」
「斧を三本目まで壊さなかった」
「基準が低い」
アキトが少し笑った。大和も笑う。その時、遠くから声が飛んできた。
「ヤマト!」
レティが両手に籠を抱えて走ってくる。
「お昼!」
「助かった」
大和が立ち上がると、レティは木陰に籠を置いた。中にはパン、焼いた肉、野菜、果物が入っている。
「これ全部?」
「アキトの分も」
「ああ」
少し残念そうな大和を見て、レティが笑う。
「足りなかったら持ってくるよ」
「いや、十分」
三人で木陰へ座る。大和は肉を一つ取った。
「うまい」
「まだ食べてないよ」
レティが言う。
「あ」
見れば、まだ口へ運んでもいない。
「見た目で言った」
「ちゃんと食べて」
「はい」
一口食べる。
「うまい」
レティの尻尾が動いた。大和はそれを見る。
「本当に分かりやすいな」
「何が?」
「いや」
大和はもう一つ肉を取った。
「これ、レティが作った?」
「肉は私」
「へえ。普通にうまい」
「普通に?」
「かなりうまい」
尻尾がさらに動く。アキトは黙って食べている。大和はふと思いついて聞いた。
「この肉って何です?」
レティが動物の名前らしい言葉を言った。知らない。
「分からない」
「ヤマトのところにはいない?」
「多分」
「じゃあ、ヤマトのところでは何食べてたの?」
大和は少し考えた。
「牛。豚。鶏」
「とりはいる」
「鳥いるんだ」
少し嬉しい。共通点だ。レティが聞く。
「毎日肉食べてた?」
「食べようと思えば」
「すごい」
「そう?」
「肉、高いよ」
大和の手が止まった。高い。ここでも、そういう感覚はあるらしい。
「俺のところは……食べ物を作るのが、かなり上手かった」
「どうやって?」
「それが」
大和は笑った。
「俺、食べてただけだから分からない」
レティが笑い、アキトも僅かに笑った。
「でも、店に行けば、いつでも大体何でも買えた」
レティの目が丸くなる。
「いつでも?」
「夜でも」
「夜?」
「夜中でも開いてる店があった」
「なんで?」
大和は答えようとして止まった。
「……なんでだろ」
考えたこともなかった。夜中でも明るくて、食べ物が並び、誰かが働いていた。
「便利だったから?」
「変なの」
レティが言う。
「それは俺も今思った」
大和は笑った。食べ終わる頃、レティが大和の手を見た。
「痛くない?」
「何が?」
「斧」
大和が手を見る。豆も傷もない。
「全然」
「いいなあ」
「いや」
大和は笑った。
「道具壊すから、あんまり良くない」
アキトが即座に頷いた。
「本当に良くない」
「まだ言う?」
昼からは仕事が変わった。今度はシェルドだった。
「薪はもういい」
「追放された?」
「道具が減る」
「完全に信用失ってる」
「こっちだ」
連れていかれたのは村の倉庫だった。中には袋、壺、木箱、乾燥した食料、道具、武器。かなりの量がある。シェルドは一つずつ確認していた。
「何するんです?」
「数える」
「俺が?」
「俺と」
「何を?」
「全部」
大和は倉庫を見渡した。
「薪割りの方がよかった」
「戻るか?」
「斧壊すのでやめときます」
シェルドは木の板を一枚持っている。そこに記号のようなものが刻まれていた。
「文字?」
「そうだ」
シェルドは袋を指した。
「乾燥した豆」
次。
「麦」
次。
「塩」
数を確認し、板へ書いていく。大和は見ながら聞いた。
「毎日やるんですか?」
「全部はやらない」
「じゃあ今日は?」
「お前に覚えさせる」
「俺?」
「村にいるなら、村の物がどこにあるか知っておいた方がいい」
大和は少しだけ黙った。村にいるなら、と当然のように言われた。大和は背筋を伸ばして返事をした。
「はい」
数える。運ぶ。場所を覚える。力仕事なら、大和はかなり役に立った。大きな袋を二つ、三つまとめて持とうとすると、シェルドに止められる。
「一つずつ運べ」
「持てますよ」
「落とした時の被害が増える」
「なるほど」
怪力、却下。一つずつ運ぶ。
「効率悪くない?」
「お前はまず壊さないことを覚えろ」
「アキトと同じこと言ってる」
「アキトから聞いた」
「もう広まってる?」
「斧を壊した話なら、村中知っている」
「早すぎるだろ!」
外から子供の笑い声が聞こえた。嫌な予感がして倉庫から出ると、犬耳の子供が大和を見ながら小さな枝を斧のように振った。
「ヤマト!」
「何?」
「ばきっ!」
子供が笑う。周りの子供も笑う。
「もうネタにされてる!」
シェルドは止めない。むしろ少し口元が緩んでいる。
「絶対楽しんでるだろ」
「仕事をしろ」
「はいはい」
倉庫の作業を続けるうち、大和はシェルドが何度も同じ袋を確認していることに気づいた。
「これ、昨日どれくらい使ったか分かるんです?」
「大体は」
「大体?」
「使った者が報告する」
「書かない?」
「必要な時は書く」
大和は板を見る。総量らしいものはある。だが、毎日の出入りまでは細かく残していないようだった。
「ふーん」
「何だ」
「いや」
大和は少し考える。昔、仕事で見た在庫の表を思い出した。自分が直接管理していたわけではないが、見たことはある。何個入った。何個出た。残り何個。そういう当たり前の管理。
「もっと楽にできそうだけど」
シェルドが見る。
「何を」
「これ」
大和は板を指した。
「どうやって?」
聞かれて、大和は口を開き――止まった。
「……ちょっと考えないと分からない」
シェルドは少しだけ眉を上げる。
「分からないのに言ったのか」
「俺のところでは、もっと細かく管理してたんです」
「どうやって」
「だから、そこを思い出してる」
シェルドはしばらく大和を見た。
「思い出したら言え」
それだけだった。大和は少し意外に思った。
「聞くんですね」
「使えるなら使う」
「使えなかったら?」
「使わない」
「分かりやすい」
大和は笑った。
夕方、ようやく倉庫から解放された。身体ではなく頭が疲れた。数字。物の場所。知らない名前。村の道を歩いていると、今度はルシアンに声を掛けられた。
「ヤマト」
「何?」
「来い」
「今日はみんな俺を連れ回すな」
「嫌ならいい」
「そう言われると行きます」
連れていかれたのは村の外れにある広い空き地だった。地面には石や木、古い道具が置かれている。
「何ここ?」
「試す場所」
「何を?」
ルシアンは大和を見る。
「お前」
嫌な予感がした。
「身体」
「やっぱり」
ルシアンは昨日から、大和の能力をかなり気にしている。
「刃は出しませんよ」
「出せと言ってない」
「じゃあ何する?」
ルシアンは大きな石を指した。大和の腰くらいある。
「持てる?」
「多分」
大和は石へ手を掛けた。持ち上がる。
「うわ」
自分でも少し笑う。重さはある。でも、持てる。ルシアンは驚くより先に、大和の身体の使い方を見ていた。
「置け」
置く。
「次」
もっと大きい。
「これも?」
「持てるなら」
手を掛けて力を入れると、今度の石も持ち上がった。重いが、まだいけそうだった。
「何キロくらいあるんだろ」
「きろ?」
「ああ、重さの単位」
ルシアンが聞く。
「お前のところでは重さを数字にする?」
「する」
「ここでもする」
「単位が違うのか」
大和は少し面白くなる。
「こういう違いあるんだな」
ルシアンは石より、大和の持ち方を見ている。
「力は強い」
「それは分かってる」
「でも下手だ」
「アキトにも言われた」
「見れば分かる」
「今日みんな厳しくない?」
次は木の棒だった。
「握れ」
「握るだけ?」
「折らない程度に」
「その条件必要?」
「必要だろ」
大和が棒を握ると、ルシアンが反対側から引いた。
「これくらい?」
「強い」
弱める。
「これ?」
「まだ」
さらに弱める。
「これ?」
「それくらい」
大和は少し考えた。
「俺、普通の力加減が分からなくなってる?」
「多分」
「怪物と戦うなら問題ない?」
「問題ない」
「生活では?」
「斧が折れる」
「それもう聞いた」
ルシアンの口元が少し動いた。大和が見る。
「今笑った?」
「笑ってない」
「笑っただろ」
「続けるぞ」
「逃げた」
その後も、大和は石を持ち、物を掴み、投げ、走り、止まる。そんな地味なことを繰り返した。意外と面白かった。何ができるのか。どこまでできるのか。そして、何ができないのか。怪物との戦闘中では分からないことだった。
「俺、思ったより使いにくいな」
大和が地面へ座ると、ルシアンも近くに座った。
「何が」
「この身体」
「強いだろ」
「強いけど」
大和は手を開く。
「強ければ何でもできると思ってた」
「できない」
「今日、嫌というほど分かった」
少し間を置いて、大和はルシアンを見る。
「怖くない?」
ルシアンの視線が、大和の右腕へ移った。
「お前が?」
「これ」
右腕を指す。
「レティを守った時の」
ルシアンは少し考えた。
「怖い」
やっぱり。大和は少し笑った。
「正直だな」
「嘘をつく理由がない」
「でも普通に近くにいる」
「今は普通だから」
「変わったら?」
「離れる」
即答だった。大和は笑った。
「そこも正直」
ルシアンは大和を見る。
「ただ」
「ん?」
「あの時、変わっても、お前はレティを守った」
大和は黙る。
「形が怪物に似ていても、行動まで同じとは限らない」
大和は少しだけ表情を変えた。
「……ありがとう」
「何が」
「いや」
大和は立ち上がった。
「なんとなく」
ルシアンはそれ以上聞かなかった。村へ戻る途中、大和は水を運んでいる者たちを見た。大きな桶を二人で運び、川と村を何度も往復している。
「あれ、毎日?」
「そうだ」
「大変じゃない?」
「水は必要だ」
「いや、それは分かるけど」
川と村の間には少し高低差がある。遠くはないが、何往復もするなら面倒だ。大和は立ち止まった。昔見た何かが、頭の中にぼんやり浮かぶ。水。回る。運ぶ。
「……水車?」
ルシアンが大和を見る。
「何だそれ」
大和は川を見る。頭の中には、観光地で見たような巨大な木の輪が浮かんでいる。でも、それをどう作る?何に繋ぐ?水を上げるなら別の仕組みもいる。
「いや、まだ分からない」
「何が」
「俺のいたところでは、水の力を使っていろんなことをしてた」
ルシアンが少し興味を示した。
「どうやって?」
「大きい車輪みたいなのを回す」
「それで?」
「……それで」
大和は止まった。
「何してたっけ」
ルシアンが無言で見る。
「いや、本当に見たことはあるんだって!」
「見ただけか」
「見ただけ」
「役に立たない」
「今思い出すから!」
ルシアンは歩き出した。大和も追う。
「でも回転を使うんだよ」
「何に」
「だから、それを考える」
「思い出したら言え」
「シェルドと同じこと言うなあ」
夕食は、昨日より人が多かった。大和たちだけではない。近くの家の者や子供、老人まで集まり、大きな机を囲んでいる。決まった席もあまりないらしい。大和も気づけば普通に座っていた。誰も「客」として扱わない。
料理を取り、足りなければ自分で取る。アビナが大和の皿から肉を取った。
「おい」
「何ニャ?」
「自分の取れ」
「こっちの方がおいしそう」
「同じだって!」
昨日と同じ。レティが笑う。大和は今度、先にアビナの皿から肉を取った。
「ニャ!」
「お返し」
「それ私の!」
「俺のも俺のだった」
「返すニャ!」
「もう食った」
アビナが大和を睨む。大和は得意そうに食べた。
「うまい」
「同じニャ!」
周りが笑い、子供も笑い、大和も笑う。その横で、ノルアは静かに食事をしていた。大和がふと見ると目が合った。ノルアは少しだけ笑った。昨日まで、ほとんど話していない。大和は少し気になっていた。
食事が終わり、外へ出る。夜の村は暗い。大和の知っている夜とはまるで違う。街灯はない。家から漏れる火の光だけ。その代わり、空には数え切れないほどの星があった。
「すげえ」
大和は立ち止まった。現代にいた頃も星は見えた。だが、こんなに見えた記憶はない。
「何が?」
声がした。ノルアだった。少し離れた場所で、一人空を見ている。
「星」
大和が答える。ノルアも空を見る。
「いつもあるよ」
「俺のところでは、こんなに見えなかった」
「星が少ない?」
「いや」
大和は少し考える。
「多分、明るすぎた」
「夜なのに?」
「夜なのに」
ノルアが不思議そうに見る。大和は近くの石へ座った。
「町中、ずっと明るかった」
「火?」
「火じゃなくて……光る道具があった」
「魔法?」
大和は少し笑う。
「俺から見ると、今の俺の身体の方が魔法だけどな」
ノルアも少し笑った。大和は空を見る。
「家も、道も、店も、夜でも全部明るかった」
ノルアは家々を見回し、暗い道へ視線を戻した。
「眠れない」
大和が笑う。
「カーテン閉めるんだよ」
「何で夜を明るくして、また暗くするの?」
大和は止まった。
「……確かに」
考えたこともなかった。ノルアが小さく笑う。大和も笑った。しばらく二人で星を見る。やがてノルアが聞いた。
「帰りたい?」
大和はすぐには答えなかった。家族の待つ家より先に、病室が浮かんだ。母親の手と、冷たい装置。自分はあのあとどうなったのか。家族はどうなったのか。
「帰れるなら、帰りたい」
ノルアが僅かに俯いた。膝の上で指を重ね、黙っている。大和は続ける。
「でも」
ノルアが見る。大和は村を眺めた。家。火。聞こえる笑い声。アビナの声。レティの声。誰かがまだ片付けをしている。
「明日の飯も食いたい」
ノルアは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。そのあと笑った。
「それだけ?」
「大事だろ」
「大事だけど」
「あと、薪割りも」
「好きなの?」
「違う」
即答だった。
「斧壊したから」
ノルアが口元を押さえる。
「知ってる」
大和はショックを受けた。
「ノルアまで知ってるの?」
「みんな知ってる」
「本当に村中じゃん……」
ノルアが声を出して笑った。大和は初めて、ノルアがちゃんと笑うところを見た。
「笑うんだ」
言ったあと、失礼だったかと思った。ノルアの耳が少し動く。
「笑うよ」
「いや、あんまり喋らないから」
「見てる方が好き」
「俺のことも?」




