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この世界に残るもの  作者: 深空 律
第二部 残された世界
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第60話 尽きるまで

夕方になっても、怪物は死ななかった。大和は道端に座ったまま、吊られた身体を見上げていた。少し前まで力なく垂れていた前脚が、また僅かに曲がっている。爪の先が動いた。地面には届かない。


だが、動いている。


「まだ戻ってるな」


隣にいたアキトが言った。


「うん」


大和は立ち上がり、腹側の傷を見た。吊り上げた直後より少し閉じている。速くはないが、止まってもいなかった。


「地面から離しただけじゃ、すぐには変わらないか」


「そんなに早く弱るなら、今までにも死んでたかもしれないな」


アキトの言葉に、大和は怪物から目を離した。


「確かに」


これまでにも、怪物が動けなくなることはあった。脚を潰されたもの。岩の間へ落ちたもの。戦ったあと、その場に倒れたもの。アキトたちは、それを見ている。


それでも怪物は戻ってきた。翌日にはいなくなっていたこともある。


「一晩くらいじゃ駄目なのかもな」


「まだ一晩も経ってない」


「そうだった」


大和は空を見た。森の上に残った光が、少しずつ薄くなっている。時間の感覚がおかしくなっていた。朝からずっと怪物を見ていたせいかもしれない。道の向こうから声がした。


ロウだった。背中に荷物を背負い、その後ろから二人の村人が歩いてくる。水、食べ物、灯り、それから予備の縄を運んでいた。


「まだ生きてる?」


近づく前にロウが聞いた。


「生きてる」


大和が答えると、ロウは吊られた怪物を見上げた。


「本当にしぶといな」


「それを調べてるんだよ」


「分かってるけどさ」


ロウは荷物を下ろした。シェルドも戻ってくる。全員が揃ったところで、吊り方と縄をもう一度確認した。怪物が少し暴れるたび、枝が揺れる。今のところ切れる様子はない。


「今日はここまでだ」


シェルドが言った。大和が見る。


「帰るんですか?」


「全員で残ってどうする」


「でも」


「見張りは置く」


シェルドは村から来た二人を見る。


「交代で見る。何かあれば知らせろ」


それから大和へ向いた。


「お前も戻れ」


「俺は残っても」


「明日も見るんだろう」


大和は少し黙った。その通りだった。今日だけの話ではない。吊って終わりではないなら、ここから先が長い。アキトが槍を持ち上げた。


「俺は最初に残るよ」


「じゃあ俺も」


大和が言うと、シェルドが首を振った。


「お前は帰れ」


「何で俺だけ」


「今日一日、一番怪物を見てただろ」


反論しようとしてやめた。確かにそうだった。シェルドは吊られた怪物を見る。


「明日の朝、まだ生きてたら続きを考える」


大和もそちらを見た。怪物の前脚が、もう一度動いた。


◇


翌朝、大和は村を出る前に水を一杯飲んだ。アビナが向かい側から見ている。


「また行くニャ?」


「うん」


「まだいる?」


「いると思う」


「死んでないニャ?」


「昨日の夜までは」


アビナの耳が動いた。


「見たい」


「今日は仕事あるだろ」


「終わったら行くニャ」


「勝手に近づくなよ」


「分かってるニャ」


返事が軽い。大和は少し不安になったが、今は怪物の方が気になった。森へ入る。昨日何度も通った道を歩き、木のある場所へ向かう。遠くからでも、黒い身体が見えた。


怪物は昨日と同じ場所に吊られている。大和は歩く速度を上げ、近づいた。最初に目に入ったのは脚だった。


「戻ってる」


前脚が昨日より長い。完全ではない。だが、爪まで形ができていた。地面まではまだ距離がある。それでも、昨日の夕方に見たものより明らかに伸びている。


アキトが木の根元に座っていた。


「朝になったらこうなってた」


「ずっと?」


「夜中にも少しずつ伸びてた」


大和は怪物へ近づきすぎない位置まで行った。脚が動き、こちらを掴もうとするように空を掻く。その力は昨日より弱く見えた。


「これ、戻りきったら危ないな」


大和が言う。アキトも頷いた。


「縄まで届くかもしれない」


少しして、シェルドたちも来た。ルシアンは昨日の記録を持っている。吊られた脚を見たあと、板へ目を落とした。


「昨日、この脚はほとんど伸びてなかった」


「どれくらい戻った?」


大和が聞く。ルシアンは怪物を見上げた。


「半分よりは多いと思う」


シェルドが縄を見る。怪物が身体をひねるたびに、前側の縄へ脚が近づく。


「切るぞ」


大和が反射的に右手を握った。シェルドがすぐに見た。


「お前はやるな」


「分かってます」


大和は手を開いた。自分の刃で切れば早い。だが、それでは意味がない。自分の攻撃を使わずにどうなるかを見ている。ロウがドランの持ってきた斧を手に取った。


「俺?」


「昨日一番休んだだろ」


アキトが言う。


「最後は歩いて帰ったけどな」


ロウは怪物との距離を確かめる。シェルドとアキトが槍を構えた。怪物が暴れれば押さえる。ロウは脚の届かない側から近づいた。斧を振り上げる。


一度目の斧が黒い脚へ入ると、怪物の身体が大きく動き、縄が軋んだ。ロウがすぐに下がる。


切れなかった。


「硬いな」


「もう一回」


シェルドに言われ、ロウが再び近づく。二度目で脚が切れ、地面へ転がった。


怪物が身体を捩る。大和が吊られた側の切断面を見ると、黒い液の奥が動いていた。


「治ってる」


ルシアンも切断面を見る。肉は昨日までより遅いながらも少しずつ寄り、確実に戻ろうとしていた。


「また生えるかな」


ロウが斧についた黒いものを地面へ落としながら言った。


「多分」


大和は落ちた脚を見た。少し考えてから枝で怪物から離れた場所へ押した。


「それも近くに置かない方がいい」


「自分の脚も食うと思う?」


アキトが聞く。


「分からない」


大和は答えた。


「でも、わざわざ置いとく理由もない」


ロウが脚をもっと遠くへ押した。


「分からないものは離す」


「今はそれでいいと思う」


吊られた怪物は、まだ動いていた。


◇


次の日、切った脚がまた伸びていた。昨日ほどではなかった。大和は木の横へ立ち、前日の位置を思い出した。


「短いな」


ルシアンが記録を見る。


「昨日の朝より、戻っていない」


「時間は同じくらい?」


「少し長い」


それなら、条件は昨日より悪い。それでも戻っていない。大和はしゃがみ、反対側の傷を見る。前日から残していた小さな裂け目も、まだ消えていなかった。


「こっちも残ってる」


ルシアンが隣へ来る。


「昨日より進んでないね」


怪物は声を出さずに口を動かし、脚を振ろうとした。縄が僅かに揺れた。


「切る?」


ロウが聞いた。シェルドは脚と縄の距離を見た。


「まだ届かん」


「じゃあそのまま?」


大和は怪物を見ていた。


「今日は待ってもいいと思う」


昨日は安全のために切った。今はまだ危険な長さではない。傷を増やすことだけが目的になれば、何を調べているのか分からなくなる。


「伸び方を見たい」


大和が言う。


「今日一日で、どこまで戻るか」


シェルドは少し考えた。


「分かった」


その日は切らず、夕方にもう一度見た。脚は朝より伸びていたが、昨日ほどには戻らなかった。


「一日あっても、これだけか」


アキトが言った。大和は頷く。


「確実に遅くなってる」


ルシアンが板へ書き込む。大和はその文字を横から見た。昨日と今日、同じ怪物の同じ脚でも戻り方が違う。偶然ではないように思えた。ただ、何が減っているのかは分からない。


◇


三日目、大和は朝から倉庫で木材を運んでいた。ドランが積み直す場所を指す。


「そっちじゃない。長い方は奥だ」


「これ?」


「それだ」


木材を下ろし、次を持つ。以前なら、怪物が森に吊られている間にこんなことをしているとは思わなかっただろう。だが今は、怪物はそこにいて逃げてもいない。見張りもいる。時間が必要なら、待つしかなかった。


昼前、ロウが倉庫の前に来た。


「大和」


「何?」


「脚、また伸びてる」


大和は木材を下ろした。


「どれくらい?」


ロウは自分の膝の辺りに手を置いた。


「昨日より短い」


「切った?」


「まだ。シェルドが、お前にも見せろって」


大和はドランを見る。


「行ってこい」


「いいの?」


「戻ったら続きだ」


森へ向かって怪物を見ると、確かに脚は生えていた。だが形がおかしく、爪の一部がまだない。


関節らしい膨らみも途中で止まっている。


「前はもっと早く形まで戻ってた」


アキトが言った。大和は少し離れたところから見る。脚そのものだけではない。腹の傷も残っている。昨日からほとんど変わっていないものもあった。


「切ろう」


今回は大和から言った。


「このまま戻るかもしれないし」


ロウが斧を持ち、脚を切る。前より怪物の反応は弱く、身体が一度大きく揺れただけだった。


昨日のように何度も捩れない。大和が切断面を見ると、まだ動いてはいた。


「遅い」


ルシアンもすぐに答えた。


「かなり」


大和は目を離さなかった。黒い肉は寄っては止まり、少し動いてはまた止まった。


以前なら、見ている間に穴そのものが分からなくなっていた。今は切った場所がそのまま残っている。


◇


四日目、雨が降った。森の中まで細かな雨が入り、吊られた怪物の身体を濡らした。大和は少し離れたところで雨具の端を直した。


「水は関係ないのかな」


ロウが言う。怪物の身体には雨水が流れている。口にも入っているはずだ。


「分からない」


大和は答えた。


「でも、戻り方は昨日より遅い」


ルシアンが前日に切った部分を見る。僅かに盛り上がっているだけで、脚にはなっていない。切断面そのものも完全には閉じていなかった。


「雨が降っても変わらないなら、水だけじゃ足りないのかもしれないね」


ルシアンが言う。


「かもしれない」


大和は頷き、それ以上は言わなかった。雨、土、草、木、肉。何を使っているのか分からず、複数かもしれない。そもそも、吊ったこととは別の理由で弱っている可能性もある。


ただ、一つだけ変わらない。地面へ置いていた時には、休ませると少し戻っていた。今では休ませても戻らなくなってきている。


「今日は切らなくていいな」


アキトが言った。シェルドも脚を見る。


「届くものがない」


もう地面へ届く心配はなかった。縄にも届かない。怪物の身体を支えている部分だけが、風に合わせてゆっくり揺れている。


「じゃあ、このまま」


大和が言った。


「何もしないで見よう」


◇


五日目、怪物はほとんど動かなかった。大和が来た時、アキトが木の下にいた。槍は持っている。だが構えてはいない。


「今日はまだ一回も動いてない」


「朝から?」


「ああ」


大和は安全な距離を残して怪物へ近づいた。脚も口も動かず、傷は残っている。


「死んだ?」


大和が聞く。アキトは首を振った。


「分からない」


「だよな」


大和も同じだった。これまでにも、動かなくなったあとで起きた怪物や、翌日にはいなくなっていた怪物がいる。だから、動かないだけでは足りない。


ルシアンが記録を見る。


「昨日から、この傷がほとんど変わってない」


腹の横にある細長い裂け目は、昨日から変わらず残っていた。大和はしばらく見た。


「でも、完全に止まったかは分からないな」


「うん」


「もう一日見る?」


アキトが言う。大和は怪物を見上げた。急ぐ理由はなかった。


「見よう」


その日は何もしなかった。


◇


六日目、大和は怪物を見に行かなかった。朝、シェルドから状態を聞いた。


「変わらん」


それだけだった。昼、畑の近くで壊れた柵を直す。アビナが横で木の棒を抱えていた。


「怪物、どうなったニャ?」


「分からない」


「まだ生きてる?」


「それも分からない」


アビナは少し考える。


「死んでるかもしれない?」


「かもしれない」


「じゃあ死んでるか見ればいいニャ」


「それが分からないんだよ」


アビナの耳が傾いた。大和は柵へ棒を差し込む。


「怪物って、動かなくなっても戻ることあるから」


「じゃあ待つニャ」


「今そうしてる」


「ならいいニャ」


話が終わった。大和は少し笑った。確かに、待つしかない。夕方になっても、森から知らせは来なかった。


◇


七日目の朝、食事の途中でルシアンが来た。大和は口に入れていたものを飲み込む。


「どうした?」


ルシアンは少し考えてから言った。


「たぶん、止まった」


大和は皿を置いた。


「昨日と違う?」


「傷が全く変わっていない」


立ち上がる。


「行こう」


アキトとシェルドを呼び、ロウも加わった。いつもの道を歩く。一週間前には怪物と戦いながら走り回っていた道を今は誰も急いでいなかった。


木が見える。怪物は同じ場所に吊られ、黒い身体から脚が垂れ、傷は開いたままだった。


風が吹くと、身体全体が少し揺れる。それだけだった。大和は横へ回る。


「昨日から?」


ルシアンが板を見る。


「ここ」


腹の傷を示す。


「昨日の朝に見た時と同じ」


別の傷。


「こっちも」


切断した脚。


「ここも伸びてない」


大和は黙って見た。アキトが槍を構える。


「試すか」


「うん」


アキトが怪物へ近づき、爪の届かない位置から槍の先で脇腹を浅く傷つけた。黒い表面が切れても怪物は動かず、液が僅かに滲んだ。


アキトが槍を引き、全員で待った。何も起こらない。さらに待っても同じだった。


傷の縁は動かなかった。


「前なら」


ロウが言った。


「これくらい、すぐ消えてたよな」


「うん」


大和は傷を見たまま答えた。アキトが別の場所へ槍先を当て、今度はもっと小さな傷をつける。それも閉じなかった。


怪物の脚も、口も、身体も動かなかった。長い時間、誰も話さなかった。


大和は吊られた怪物を見上げた。一週間前、こいつはアキトたちを追って走り、傷を治し、何度倒しても起き上がった。大和が斬れば終わらせられた。だが、今回は斬っていない。


「死んでる」


言葉にすると、少し変な感じがした。アキトが怪物を見る。


「そうみたいだな」


ロウが斧を地面へ置いた。


「本当に死ぬんだな」


「俺も今それ思ってた」


大和は答えた。シェルドが縄の下から怪物を見た。


「一週間か」


「正確には分からないです」


大和が言う。


「いつ止まったか見てないから」


「だが、一日や二日ではなかった」


「はい」


アキトが槍を下ろした。


「だから今まで分からなかったのかもな」


大和が見る。


「どういうこと?」


「俺たちは、こいつらが動けなくなったら離れてた」


アキトは吊られた脚を見る。


「次の日には戻ってる奴もいた。いなくなってる奴もいた」


大和は以前聞いた話を思い出した。怪物が動かなくなるところまでは戦える。そこから先は離れる。それが普通だった。


近くには別の怪物がいるかもしれない。自分たちも疲れている。倒れている一匹を何日も見続ける理由などない。


「死ななかったんじゃなくて」


大和は言った。


「死ぬところまで待ってなかった?」


アキトは少し考える。


「かもしれない」


シェルドが怪物を見る。


「何が効いた」


大和はすぐには答えなかった。吊ったこと、地面から離したこと、何度も傷を負わせたこと、戻った脚を切ったこと、そして時間。そのすべてだった。


「分かりません」


シェルドを見る。


「周りから何か取れなくしたのが効いたのかもしれない。傷を治し続けたからかもしれない。両方かもしれない」


「今のところは?」


「このやり方なら死んだ」


それだけだった。それ以上は言えない。だが、それだけでも大きかった。ロウが吊られた怪物を見上げる。


「じゃあ、次から一週間これやるのか」


大和は思わず笑った。


「簡単にはなってないな」


「戦い続けるよりはいいけど」


ロウは自分の掌を見る。あの日、槍を握り続けて赤くなっていた手だった。


「脚が戻ったら切るだけなら、交代できる」


アキトが言う。


「動けなくなるところまでは、前からやってた」


シェルドが頷く。


「吊れる場所と縄が要る」


「ドランにも考えてもらわないと」


大和が言った。


「毎回木を探すのも大変だし」


話は少しずつ、怪物そのものから「どうやって同じことをするか」へ変わっていた。大和はそのことに気づいた。今まで怪物を見つけた時に考えていたのは、逃げ方と動けなくする方法、それに自分がいるならどう斬るかだった。それだけだった。今は違う。


殺せることが分かった。時間はかかる。面倒でもある。条件もまだよく分からない。それでも、大和は自分の右手を見た。


何も出していない手。普通の手。


「俺が斬らなくても死ぬんだ」


小さく言った。シェルドが聞いていた。


「なら、お前を待つ必要もなくなる」


大和は顔を上げた。シェルドは怪物ではなく、大和を見ていた。


「まだ一匹です」


「だから次もやる」


それだけ言うと、シェルドは縄の方へ歩いた。


「下ろすぞ。死んでるからって下に入るな」


ロウが斧を拾い、アキトも縄の方へ向かった。ルシアンは最後に記録へ何かを書き込む。大和はもう一度だけ怪物を見た。


一週間。それだけの時間をこれまで誰も待たなかった。待つ必要があるとも思わなかった。だから、死なないと思っていた。大和は右手を握った。


自分の身体も怪物も、何も使わずに治っているわけではない。使えば遅くなり、やがて尽きる。


目の前の怪物は、もう尽きていた。


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