第59話 戻れない場所
ロウが食べ終えても、怪物は同じ場所に横たわっていた。折り畳まれた前脚の先だけが、時々動く。口元には土と枯れ葉がつき、顎が開くたびに少しずつこぼれた。大和は脇の傷へ目を戻した。薄く繋がったところは広がっている。急いで走れる身体には戻っていないが、休んでいる間にも少しずつ治っていた。
「俺たちが飯を食ってる間に、こいつも休めてるんだよな」
アキトが包みを畳みながら言った。
「休ませないようにするなら、ずっと傷をつけることになるな」
大和はロウの手を見た。赤くなった掌を濡らした布で冷やしている。ロウはこちらの視線に気づくと、布を少し持ち上げた。
「痛いけど、もう握れるよ」
「分かった。もうちょっと休んでて」
「やる時は呼べよ」
大和は頷いて、怪物の方へ向き直った。ずっと傷を負わせれば、いつか本当に回復できなくなるのかもしれない。だが、その前にアキトたちが動けなくなる。一人でやらずに交代していても、これだけ時間がかかっている。怪物が首を曲げた。土の上で口が開き、また閉じる。枯れ葉の一枚が歯の間に挟まったままになった。
「こいつ、何か食ってるのかな」
アキトが穂先を少し上げた。
「さっきから口は動いてるけど。食ってるとしても、土くらいだろう」
「土か……」
大和は口元から地面に押しつけられた腹へ目を移した。食べ物を探して歩けないのは見れば分かる。ただ、食べる時に口を使うとは限らないのかもしれない。カダで戦った怪物は刺さった刃へ黒い組織を這い上がらせてきた。別の怪物の身体がそのまま埋まっていたものもいる。
「カダの奴、俺の腕を取り込もうとしただろ。あれ、口で噛んでたわけじゃなかった」
「ああ。抜けなくなった時か」
アキトも覚えていた。大和はしゃがみ、怪物の下に広がる黒い染みを見た。土へ染みた液と、腹の影が重なっている。そこから何かが戻っているのか、それともただ流れ出ているだけなのかは、見ても分からなかった。
「身体が触れてる所からも、何か取り込めるんじゃないか。肉を取り込めるなら、他のものだって」
「土とか草を?」
「分からない。でも、何も食ってないから、そのうち使い切るだろうって待ってていいのかな」
森を見ていたルシアンが戻ってきた。
「何か変わった?」
「傷は少し戻ってる。何か取り込んでるんじゃないかって話をしてた」
大和が言うと、ルシアンは怪物の口元を見た。それから、地面に触れたままの脚へ目を移す。
「下側は、ずっと見えていないね」
「そこ、浮かせられないかな」
言いながら、大和は道の周囲を見回した。地面に置いておけば、そこには土も草もある。何を使えるのか分からないまま、いくら周りを片づけてもきりがない。道の少し奥に、太い枝を横へ張った木があった。
「縄で吊るすとか」
アキトがそちらを見上げた。
「足が届かなければ、立って追ってくることはないな」
「周りのものにも触れなくなる。食えるものがあるとしても、今より減らせると思う」
ルシアンは木と怪物を見比べていた。
「この重さを支えられる縄が要る。持ってきた分では足りない」
大和も荷物を括っていた細い縄を見た。指で摘まみ上げてから元へ戻す。
「村から持ってきてもらおう。ドランにも見てほしい」
◇
シェルドは木の周りを一度歩き、戻ってきた。
「吊ったまま暴れたら、どうなる」
「それも、ドランに聞きたいです」
大和が答えると、シェルドは怪物を見た。前脚はまた動かなくなっている。
「今のうちなら、できるかもしれんな」
ロウとルシアンが村へ戻ることになった。太い縄と、ドランを呼んでくる。水も減っていたので、容器を一つ持っていってもらった。二人が道を引き返していくのを見送り、大和は荷物の脇へ腰を下ろした。アキトが少し離れた位置で槍を構え、シェルドは道と森を交互に見ている。ときどき葉が擦れる音がしたが、別の怪物が近づいてくる様子はなかった。
大和が自分の包みを開くと、中の焼いた食べ物はすっかり冷えていた。一口かじり、怪物へ目を向ける。膝の曲がり方が変わっていた。
「アキト。脚が伸びてきてる」
「分かってる。少し戻ったな」
槍を構える手に力が入る。怪物は脚を引き寄せ、腹の下へ入れようとした。身体の片側が浮く。大和は包みを置いて立ったが、アキトの方が先に動いていた。槍を受け、怪物が横へ倒れた。短い鳴き声が途切れる。新しい傷から黒い液が流れ、大和はまた同じ場所にしゃがんだ。
「その傷も、見ておいてくれ」
アキトが言う。
「うん」
大和は木の枝を見上げた。縄を待つ間に、あと何度こうして突き倒すことになるだろう。アキトの足元へ水を置き、自分は傷の見えるところに座り直した。
◇
ドランが来た時には、道の端に置いた荷物まで木陰が伸びていた。肩に太い縄を掛け、手にも道具を持っている。後ろから来たロウがもう一巻きの縄を地面へ下ろした。ルシアンは水の容器を荷物のそばへ置くと、そのまま怪物を見にいった。
「まだ生きてるのか」
ドランが言った。
「うん。だいぶ遅いけど、まだ治ってる」
「厄介な奴だな」
近づこうとして、アキトに手で止められる。ドランはそこで足を止め、少し身体を傾けて全体を見た。次に木を見上げる。
「あの枝に掛けるのか」
「できそう?」
ドランは返事をせず、幹へ近づいた。枝の付け根や、下へ落ちている枯れ木を見て回る。やがて戻ってくると、肩の縄を大和に渡した。
「身体の前と後ろを分けて支える。一本でぶら下げると、傾いて抜けるぞ」
大和は縄を受け取った。荷物を縛るものより太く、握ると硬い繊維が掌に当たる。
「これ、何に使ってたやつ?」
「木を運ぶ時に使う。汚したら洗えよ」
「使い終わったら返すよ」
「いつ終わるんだ」
大和が黙ると、ドランは一つ息を吐き、ロウの持ってきた縄も広げた。
◇
弱っていても、近くへ寄れば爪が動いた。胴の下へ縄を回そうとしたロウが肩を引いて離れる。大和も身構えたが、爪はロウまで届かずに落ちた。
「手で入れようとするな。棒を使え」
ドランが道の脇から長い枝を拾った。アキトとシェルドが怪物の動きを見ている間に、縄が胴の下へ送られた。ドランは木の方へ回り、大和に枝へ縄を掛けるのを手伝わせた。大和が幹に足を掛けて上がると、ドランが下から場所を示す。
「もう少し幹に近い方だ。そう、そこ」
上から見ると、怪物の背中がよく見えた。土に伏せていた腹側と違い、背中の細い傷はほとんど閉じている。それでも、身体を起こす力は戻っていなかった。大和は縄を下ろして木から降りた。ルシアンが受け取った先をドランへ渡す。アキトたちが縄を引き、大和は怪物の動きに目を配った。
初めは胴が少し傾いただけだった。地面に隠れていた脚が現れ、垂れた爪が土を引っ掻く。ドランの声に合わせて引く側が位置を変えると、腹も地面を離れた。怪物が身をよじった。縄が鳴り、枝から細かな木屑が落ちてくる。大和は一歩近づいたが、ドランの声が止めた。
「下へ入るな。そのまま待て」
宙に浮いた脚が伸びる。爪は地面に届かず、空を掻いた。身体が傾くたびに、前後を支えた縄へ交互に重さがかかった。しばらくして動きが鈍り、腹を下へ向けた形で止まった。ドランは縄を留めると、張り具合を順に見ていった。怪物の下には誰も入らず、アキトたちは少し離れて槍を構えていた。大和は横から腹を見た。
泥がついていた。その間に、塞がりかけの傷がいくつもある。身体が揺れた拍子に土の塊が落ち、まだ開いたままの傷が一つ見えた。
「ルシアン。こっちも見えるようになった」
ルシアンが隣へ来て、記録の板を持ち上げる。
「まだ動いてるね」
傷の端にある肉が、僅かに寄っていた。大和は頷いた。吊り上げた途端に、何もかも止まったわけではなかった。
「しばらく、このまま見よう」
◇
縄の揺れが収まるまで、大和はそこを動かなかった。地面にいた時より、身体の形が分かる。短い脚と長い脚が垂れ、傷の多い側だけが少し下がっていた。口はまだ動いていたが、歯の間に残っていた枯れ葉は、いつの間にか落ちていた。ロウが横へ来た。
「これなら、また脚が戻っても走れないな」
「うん。あとは、治り方が変わるかどうか」
「変わらなかったら?」
「……縄を洗って、ドランに返す」
ロウが少し笑った。大和も口元を緩め、それから怪物へ目を戻した。腹の傷がさっきより閉じたようにも見える。だが、見る角度が変わっただけかもしれなかった。ルシアンは何度か位置を変えて見たあと、板へ短く書き込んでいた。少し離れたところで、シェルドがドランと話している。やがてロウも呼ばれた。
「ドランと一緒に戻って、人に知らせてくれ。水と食い物を持ってきてもらう。暗くなるまでに戻れそうか」
ロウは空を見上げ、頷いた。
「行ってくる」
「急いで転ぶなよ」
大和が言うと、ロウは軽く手を上げた。ドランは使わなかった縄を肩へ掛け、最後にもう一度木の方を見た。
「緩んだら、そのままにするな。あそこは特に見ておけ」
幹に留めたところを指し、シェルドの返事を聞いてから歩き出した。二人の足音が遠ざかると、周囲の音が急に少なくなった。大和は道端に腰を下ろした。アキトも槍をすぐ取れる位置へ置いて隣に座る。ルシアンは木の向こう側を確かめにいき、シェルドが道へ目を向けた。少し風が出ていた。上の枝が揺れ、それに遅れて黒い身体が動く。大和は顔を上げた。
怪物が前脚を伸ばしたが、爪は地面に届かなかった。やがて、その脚も力なく垂れ下がった。




